ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【木】分けてしまうせいで見えなくなっているものがたくさんある

 

 おはようございます。イヤホンをしながらお茶を飲むと「ゴクっ」という音がいつも以上に大きく聞こえます。もしかすると、イヤホンから「ゴクっ」という音が鳴っているのかもしれません。

 とくに、図書館のような静かにしなければならない場所で、いつも以上の「ゴクっ」が聞こえると、なんだか不安になってしまいます。イヤホンをいちど外して、改めてお茶を飲んでも、当然のことながらそんなに大きな音は響いていません。

 有線のイヤホンをつかっていたころにはよくありましたからね。繋がっているつもりで再生ボタンを押したら、実際は繋がっていなくて、本体から音がダダ漏れしてしまうアレ。あのときの焦りのようなものを「ゴクっ」でも感じてしまうのです。

 ちなみに、今日のこの記事は、イヤホンをしながら読むと、文字が大きく見えるようになっています。ぜひ試してみてください。どうも、インクです。

 

分けてしまうせいで見えなくなっているものがたくさんある

  人は分類が得意です。これとこれは同じグループ。これとこれは違うグループ。これとこれは、ここが似ているけどここは違う。これとこれは、ここまでは同じだけどここからは違う。

 こうして、ものごとを捉えていきます。「ことば」なんてまさに分類の賜物です。「りんご」と名付けることで、ほかの物質と「りんご」とを区別し、「うれしい」と名付けることで、ほかの感情と「うれしい」を区別しています。

 いまゆっくりと読んでいる燃え殻さんの『すべて忘れてしまうから』というエッセイ集の中に、作家の浅生鴨さんのこんなことばが紹介されていました。

やっぱり、すぐに『わかる』って言う奴はダメだと思うんだ。“わかる” って “わける” ってことだもん。物事は全部繋がってると思う。だから、簡単にさ、わかるって言う奴はダメだと思うんだ。

(燃え殻『すべて忘れてしまうから』扶桑社、P.88)

  はじめにも述べたように、人はさまざまなものを分類し、理解したつもりになってきました。実際に、それによってもたらされた恩恵も間違いなくあったでしょう。しかし、鴨さんの言うように、分けてしまったからこそ見えなくなっているものもあるような気がするのです。

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  このブログにはたびたび登場する寺田寅彦に大きく影響を受けたとされる天文学者の池内了さんは「『新しい博物学』の時代」という文章の中で、次のように述べています。

理科系の知識が文化系の分野に生かされず、文科系の知恵も理科系の分野に使われることがなくなってしまったのです。人類の長い歴史の中で培われてきた文化が、理科系と文科系に分断されている、というわけです。それでは、せっかく得られた人類の叡智はばらばらのままです。 

  このように池内さんは、学問の専門分化が進むことによって、見えなくなってしまっているものがあるのではないかと指摘しています。その上で、総合的で幅広い視野をもった「新しい博物学」を推奨しているのが「『新しい博物学』の時代」という文章です。

 細かく読んでいくと、根拠の内容に違和感を覚えるところもあるのですが、言っていること自体は本当にそのとおりだなと思います。本来は文系も理系もおなじものであり、勝手にその間に壁をつくったのは、わたしたち人間です。いちど壁ができてしまうと、それが当たり前になり「どうしてそこに壁をつくったのか」ということを思い出せなくなってしまいます。

 

「文系」と「理系」をわけることで

どのようなよいことがあり

何が見えなくなっているのでしょう。 

 

「国語」と「算数」をわけることで

どのようなよいことがあり

何が見えなくなっているのでしょう。 

 

「自分のクラス」と「他のクラス」をわけることで

どのようなよいことがあり

何が見えなくなっているのでしょう。 

 

「月曜日」と「火曜日」をわけることで

どのようなよいことがあり

何が見えなくなっているのでしょう。 

 

「男」と「女」をわけることで

どのようなよいことがあり

何が見えなくなっているのでしょう。 

 

「生」と「死」をわけることで

どのようなよいことがあり

何が見えなくなっているのでしょう。 

 

 わたしたちのまわりには、思っている以上にたくさんの壁が存在します。それらの壁は人間が長い時間をかけて築き上げてきた賜物です。生まれたときにはすでに存在していた壁も、たくさんあることでしょう。

 改めて考えなければならないのは「本当にいまの時代にもその壁は必要なのか」ということです。先ほども述べたとおり、はじめから存在している壁を疑うことって、とても難しいです。言わば、自分の思考が一体なにに影響を受けて形成されているのかを自覚するということですからね。

 そんな壁をぶち壊すともなればなおさらです。多くの人は、その壁の中での生活が当たり前だと思っていますからね。本気で壊そうと思うのであれば、巨人たちのような強引な手段をつかわなければならないときもあるのかもしれません。

 また、それが本当に壊すべき壁なのかどうかを判断することも、まあ難しいですからね。だからまずは、自分ひとりが通れるだけのトンネルを掘れたらそれでいいのかもしれません。壁のむこうもこちらも、結局はおなじ地面で繋がっているわけですからね。本当はぜんぶ同じものなのです。

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