ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【金】教科は何を扱うのかの違いであって結局はぜんぶ同じ

 

 おはようございます。昨日は午後から出張だったので、定時に終わってそのまま家に帰りました。17時に解放されるって素晴らしいですね。まだ1日が終わっていないあのかんじ。なんだってできる気がします。まあ、気がつけば22時になっているわけなんですけどね。家に帰れば、時計の針のスピードがはやくなるので不思議なものです。比喩ではありませんよ。本当です。じっくりと時計の針を観察してみてください。本当にはやくなっていますから。本当なんですって!どうして信じてくれないんですか!この分からずや!どうも、インクです。

 

教科は何を扱うのかの違いであって結局はぜんぶ同じ

 「教科」と聞いて何を思い浮かべますか。国語、算数、社会、理科、英語…など。ちなみに生物や歴史は「教科」ではありません。「科目」です。まあ、なんだっていいんですけどね。本題が始まってもいないのにいきなり脱線しますが「教科」って色をもっていますよね。国語は赤、算数は青、理科は緑で、社会は茶色、英語はピンクといったところでしょうか。ん、理科は紫だろって?…いいでしょう。許可します。え、社会は黄色だろって?…まあ、いいでしょう。許可します。なになに、英語は黄色だろって?…それは違うでしょ。笑わせないでください。絶対に違うでしょ。英語が黄色だなんて絶対に認めないからな!

 

 お付き合いいただきありがとうございました。前置きはこのくらいにしておきましょう。ここからが本題です。教科が分かれている理由は、それぞれで扱っているものが異なるからです。ごちゃ混ぜにしてしまうと、思考の整理がしづらくなってしまいますからね。似たものどうしを「教科」というセットにして学習しているというわけです。ほとんど同義ですが、専門性を高めるという理由もあるみたいですね。各教科、とても奥が深いので簡単に言い表せるものではありませんが、強いてひとことで説明するのなら次のように表現するかと思います。

 

国語・・・届かないものに一生懸命手を伸ばす

算数・・・美しさを追い求める

社会・・・人がつくったものを知る

理科・・・人がつくったもの以外を知る

英語・・・外を知り内を見つめる

 

 きっと経験を積めば、それぞれの教科の捉え方も変わってくるのだと思います。あくまでもひとりの若手の個人的な見解だと思っておいてください。むしろ、みなさんの意見を聞いてみたいと思っています。なんてことを言っても、実際に教えてくれる人なんてほとんどいないのでしょうけどね。ああ、誰か教えてくれないかなあ。各教科のイメージを教えてくれる人はいないかなあ。リプライでもコメントでもいいから、誰か教えてくれないかなあ。

 

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 そんな扱うものが異なる「教科」ですが、根っこはぜんぶ同じです。あくまでも整理するために分けているだけであって、根本的には同じです。教科学習とは「内容の学び」ではなく「考え方の学び」なのです。

 ことばは「人がつくったもの」ですから、社会という教科に内包されます。一方でそんな社会は、ことばを通して学びます。当然、国語と英語もよく似ています。そして、英語はその国の社会と強く結びついています。文章の論理性と計算の論理性もよく似ています。説明文なんてほとんど計算みたいなものです。理科の実験と計算もよく似ています。求めたい結果を想定してその過程を考えます。植物を育てるだなんてまさに社会です。人の手でつくってみることを通して自然の偉大さを知っていきます。

 要するにぜんぶ同じです。国語も算数も理科も社会も英語も、ぜんぶ同じなのです。「教科」というグループ分けに慣れてしまうと、これをよく忘れてしまいます。教科担任制が一般的な中学校や高校となるとなおさらです。授業をする先生が変わってしまうので、子どもたちもまったくの別物として捉えてしまいます。

 本当の学習の喜びとは、まったく関係がないと思っていたものが繋がるときに発生する火花です。国語と算数がつながる。算数と理科がつながる。遊びと勉強がつながる。勉強と趣味がつながる。これがおもしろいのです。俗に言う「あたまのいい人」はこれらの「関連づけ」がとても上手です。ありとあらゆるものを関連付けながら語ることができます。音楽が好きな人が、文化や歴史を絡めて語っているのと同じようなものです。世界のあらゆるものごとは根っこで繋がっているのです。ただし、その根っこが見たくて深くまで潜りすぎてしまうと、今度は帰ってこれなくなってしまうかもしれないので注意が必要なんですけどね。

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 本当に「あたまのいい人」どうしの会話をそばで聴いていると、ほとんどがメタファーで進んでいきます。ことばの裏に含まれた意味を読み取っていることを前提として会話が進んでいきます。それができるのは、先ほど述べた「関連づけ」ができているからなのでしょう。ただ「関連づけ」ができていればいいというわけでもありません。それらを共有できてこそはじめて会話は成立します。「関連づけ」が行われたときに生じた過程を、相手もなぞることができなければなりません。いつかはそんな会話ができるようになりたいものですね。