ツイートの3行目

ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。毎朝6時に更新します。

【金】アドバイスの9割はその人が言いたいだけ

 

 おはようございます。最近はじめてmeijiのR−1を飲みました。「風邪をひかなくなる」だとか「インフルエンザ予防になる」だとか、いろいろと言われていますが、飲んでみて最初に思ったことは「おいしい」でした。R−1は、単純においしいです。基本的にはのむヨーグルトと同じなのですが、後味がとてもすっきりしていて、のどに膜が張るような感覚がありません。そして、何よりもサイズ感が絶妙です。多くもなく、少なくもない。これは免疫力どうのこうのとは違うところでリピーターになりそうです。どうも、インクです。

 

アドバイスの9割はその人が言いたいだけ

  アドバイスは恐ろしい。そう言い残してこの世を去った人を、これまでに何人も見てきました。「アドバイス」と聞くと、なんだか優しいイメージをもたれる方も多いと思います。相手のためを思った優しい声かけがアドバイス。人から人への思いやりの表れがアドバイス。きっとそう思われていることでしょう。

 

 だから恐ろしいのです。

 

  アドバイスの陰には、とてつもなく大きな「善意」が隠れています。いや、「善意」が前提として行われるのが「アドバイス」だと考えると、もはや隠れてすらいないのかもしれません。要するに、あらゆる「アドバイス」の出発点には「あなたのため」があるということです。

 これの何がおそろしいのかというと、「感謝されて当然」という関係性ができあがってしまうというところです。もちろん世の中には、とてもためになるアドバイスがたくさんあります。そんなアドバイスによって救われることもあるでしょう。しかし、世の中にはそれと同じくらいの数のクソみたいなアドバイスが存在します。時間を返してくれと、そう言いたくなるようなアドバイスもたくさんあることでしょう。

 しかし、そんなアドバイスでもありがたそうに、うんうんと頷きながら聞かなければなりません。なぜならアドバイス「自分のためを思ってわざわざ言ってくださっている」ことばだからです。どうですか。「アドバイス」のおそろしさが少しずつ分かってきていただけましたか。

f:id:taishiowawa:20191205225058p:plain

 まだしも、信用している相手からのアドバイスなら問題はないのかもしれません。「アドバイスしたい/されたい」の関係性が成立しているからです。もし、この関係性にないのであれば、そのアドバイスはもはやただの押し付けです。「善意」という名のもと行われる非常にタチの悪い押し付けです。

 ただの偏見ですが、そういう人に限って話が長かったりします。「あなたのため」だなんて言いながら、結局は自分が話したいだけなのです。うんうんと聞いてくれるのが嬉しくてたまらないのでしょう。相手を「善意」で押さえつけているという自覚がこれっぽっちもないのです。

 そして、そんなクソみたいなアドバイスを、本気にしてしまう真面目な人に時々出会うことがあります。いいですか。クソみたいなアドバイスはあなたにとってマイナスでしかありません。ただでさえあなたの貴重な時間が奪われているのです。その後にもずるずる引きずってしまうと、どれだけあなたの時間を無駄にすることになるのか分かったもんじゃありません。アドバイスなんて、所詮はその人が言いたいから言っているだけです。最低限、聞いているフリをしながら付き合ってあげて、解放された瞬間から、自分の時間を生きればいいのです。

 繰り返しになりますが、どうかクソみたいなアドバイスを真に受けて、時間という命を無駄にすることだけはやめてください。判断基準は「あなたのため」ということばです。「あなたのために言っているんだよ」と言ってくる人からはできるだけ距離をとりましょう。逆に「自分が話したいだけ」というスタンスをとる人の話には、耳を傾けてみてもいいかもしれません。

f:id:taishiowawa:20191205232614p:plain

 

 

  朝からクソクソと汚いことばを連呼して、クソすみませんでした。クソと言えばサンジの「クソお世話になりました」というセリフが有名ですね。「クソ」ということばはたしかに汚いことばなのかもしれませんが、結局はつかい方次第だというわけです。いい「クソ」と悪い「クソ」をつかい分けられるようになりたいものですね。それでは、週の最後の金曜日。最後までクソがんばりましょうクソ。

 

 

 

【木】子どもたちの作文を読んでいてやっぱりおもしろいのは正直な文章

 

 おはようございます。最近引用リツイートでコメントをくださる方が多くて、単純に嬉しく思っています。ありがとうございます。もちろんアクセス数を見れば、人が来てくださっていることは分かるのですが、やっぱりコメントをいただけると「ちゃんと読んでくれている人がいるんだなあ」と改めて実感が湧いてきます。

 「読みたいことを書けばいい」のもと更新していますので、決して誰かに向けて書いているつもりはないのですが、やはりコメントをいただけるのは嬉しいものです。コメントをいただくために書いているわけではないのですが、やはりコメントをいただけるのは嬉しいものです。コメントが1件もなくともきっと書き続けると思いますが、やはりコメントをいただけるのは嬉しいものです。しつこい人は嫌われてしまうので、このへんで止めておくことにします。ごめんなさい。どうも、インクです。

 

子どもたちの作文を読んでいてやっぱりおもしろいのは正直な文章

  子どものころ、作文が嫌いだった人はたくさんいるのではないでしょうか。何を書けばいいのか分からない。書きたいことが思いつかない。思いついても上手に書けない。せっかく書けたと思ったら赤ペンで訂正される。こんなものやってられるか!と思っても当然ですよね。

 学校の先生は、クラス全員分のそんな作文を読まなければなりません。子どもたちには申し訳ないけれど、読む側もまったくおもしろくありません。書きたいとも思っていないのに、無理やり書かされた文章です。思ってもいない、それらしいことがつらつらと書かれた文章です。子どもの書く力うんぬん以前に、おもしろいはずがないのです

 

1.正直な文章はおもしろい

 前述のとおり、子どもたちの文章がつまらないと、最終的に苦しむのは先生です。それが分かっているので、うちのクラスでは何としてでもおもしろい文章を書かせようと努めます。そのために声を大にして言っているのが「正直に書きなさい」ということです。よい子のフリをする必要はない。楽しくなかったのなら楽しくなかったと書きなさい。と、そう伝えています。

 朝会の校長先生の話が長いと思ったのなら「校長先生の話が長い」と書けばいいのです。先生のギャグがすべっているのなら「先生のギャグはすべっている」と書けばいいのです。作文を書きたくないのなら「作文を書きたくない」と書けばいいのです。このような負の感情からスタートすると、文章はみるみるうちにおもしろくなります。

 「校長先生の話はいつもためなるので、とてもありがたいです」という作文と「校長先生の話はいつも長いので、あくびがでそうになります」という作文とでは、どちらの方が読んでみたいと思いますか。もしかすると意見が分かれるところなのかもしれませんが、個人的には圧倒的に後者の作文を読んでみたいと思います。

 ここまでの話は、決して「否定的な内容で書くこと」を勧めているわけではありません。肯定的な内容であれ、否定的な内容であれ、「正直な文章」がおもしろいということです。まずは正直に書かせること。これがすべてのスタートです。 

f:id:taishiowawa:20191205015156j:plain

 

2.正直な文章から離れてしまう原因

 正直な文章から離れてしまう一番の原因は「楽しかった」ということばだと思っています。作文において「楽しかった」ということばは、究極の便利アイテムです。子どもたちは、なんでもかんでもとにかく「楽しかったです」と書いておけばいいと思っています。「嬉しかった」や「おもしろかった」も同類です。思考停止につながることばたちです。

 そんなことばをみつけると、学校の先生はよく「どう楽しかったの?もっと詳しく書きなさい」と言いいます。しかし、それは不可能です。詳しく書くことなんてできません。なぜなら子どもたちは、便利だという理由でこのことばをつかっているにすぎないからです。冷静に考えてみると「楽しい」って、あまりにも漠然としたことばだと思いませんか。これまで「楽しい」ということばに頼りきってしまっていたからこそ、自分の感情を表現することばのバリエーションを、子どもたちはもっていないのです。

f:id:taishiowawa:20191204224614p:plain

 

3.NGワード

 だからこそ、作文を書くときは「楽しい」「嬉しい」「おもしろい」ということばをNGワードに設定します。そもそもつかってはいけないとなると、自ずと他のことばをさがし始めるようになります。それは「心が踊るような思いをしました」かもしれませんし、「思わず飛び跳ねたくなりました」かもしれません。同じ気持ちを表した表現でも、ことばの選び方次第で伝わり方が大きく異なるのは、もうお分かりいただけたかと思います。詩歌を書かせるときにも、上の三つに加えて「きれい」や「冬」ということばをNGワードに追加すれば、さらにおもしろくなると思います。ぜひ試してみてください。

 と、まるで自分の考えであるかのように話しましたが、この「NGワード」を設けるやり方は、弊ブログに名前が度々登場する「ぬまっち」こと沼田晶弘先生が実践されているものです。はじめて沼田先生の著書を読んだときには、あまりにも納得できて、思わず笑ってしまいました。ツイッターのリンクに加えて、このページの最後に書籍のリンクも貼っておきますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

twitter.com

 

 

 本当なら子どもたちが書いた実際の作文を、そのままここに貼り付けたいのですが、個人情報の問題もあり、なかなかそういうわけにもいきません。4月に書いた作文と比べると随分とおもしろい文章が書けるようになったんですよ。おかげで、読んでるこちらも楽しく読むことができるようになりました。

 途中にも書きましたが、子どもたちの作文がおもしろくないと、結局最後に苦しむのは先生です。「子どものため」だなんて言わずに、まずは自分のために「おもしろい文章」を書かせる努力をしてみてもいいのかもしれません。

 

 

 

【水】読解力が低下するのは文章よりもおもしろいコンテンツが他にたくさんあるから

 

 おはようございます。うちの自治体では、授業で個人持ちの電子機器を利用することが禁止されています。もちろん、理由は個人情報の漏洩を防ぐためです。iPadがつかえたらもっとできることがたくさんあるのになと思いつつ、ルールだから仕方のないところでもあります。

 そんな中、グレーゾーンなのがApple Watchです。タイマーやボイスメモなど、授業でつかうと便利な機能はたくさんあると思うのですが、一応「個人持ちの電子機器」という仲間には分類されるでしょう。先輩の先生につけている方がいるので問題ないのかなとも思いますが、自分がつけていくことでそれを指摘され、先輩の先生までつけてこられなくなってしまうのは嫌だなとも思います。

 人に迷惑をかけるリスクをとってまでApple Watchをつけて出勤したいかというと、そういうわけでもないので、結局はチプカシを左腕に巻いて毎日出勤しています。チプカシだって頑丈でかっこいいんだぜ。どうも、インクです。

 

読解力が低下するのは文章よりもおもしろいコンテンツが他にたくさんあるから

  昨日、OECDから2018年に実施された国際学習到達度調査こと「PISA調査」の結果が公表され、話題になっていました。基本的に時事ネタは、賞味期限が短いのであまり扱いたくはないのですが、仮にも「小学校の先生」を名乗っていますので、この調査結果に関しては少しだけ私見を述べたいと思います。

 「そもそもPISA調査ってなんじゃい」という方もいらっしゃると思いますので、文科省のホームページのスクリーンショットをそのまま貼っておきますね。また、下のリンクからは問題例も見れますので、興味のある方はぜひご覧ください。逆に、興味のない方は絶対に見ないでください。絶対にですよ。

f:id:taishiowawa:20191203210442p:plain

www.nier.go.jp

 

1.調査結果 

  問題例を見ていただいた方ならお分かりいただけたかと思いますが、2018年に行われた「PISA調査」では、学習者の「リテラシー能力」を試す問題が多く出題されました。ふたつの情報を比べて共通点をみつけたり、原因と結果の関係性として正しいものを選んだり、根拠を資料から引用して記述したり、という問題です。

① 求められた情報を探す

② 信憑性を判断する

③ 活用する

  主な流れとしては上記の通りです。誰もが情報を発信できる時代になったからこそ、溢れる情報を適切に処理していく能力が必要だということでしょう。なんなら情報量が少ない世界で育ってきた大人の方が、変化に対応していくために身につけなければならない力のような気もしますけどね。

 まあそれはさておき、このような調査の結果が、昨日公表されたわけです。ニュースの見出しはもっぱら以下のようなものばかりでした。

f:id:taishiowawa:20191203212807p:plain

 読解力の低下。この話でもちきりでした。読解力に関しては、前々回の調査(2012年)が過去最高の4位、前回の調査(2015年)が8位、そして今回の調査(2018年)ではガクっと下がって15位というわけです。順位の急落に「おいおい、日本人の読解力やばいんじゃねえの」と焦っているわけです。

   ちなみに文科省の担当者は「今回のPISA調査で読解力がなぜ低下しているのか要因を特定するのは難しい」というコメントを残したそうです。まさにこれですね。さすが文科省の人間です。こういうところは心得ているようですね。迂闊なことを言えないのは分りますが「よく分かんない」と言われてもなあ...。

 

2.文章よりもおもしろいコンテンツ

 読解力が低下した原因の分析としては「パソコンで解答するというテストの形式に慣れていなかったから」だとか「読書習慣がついていなかったから」だとか、いろいろと言われているようですが、単純に「文章よりもおもしろいコンテンツが身の周りにたくさんあるから」だと思っています。

 タブレットを開けば、YouTubeでいつでも動画を観ることができます。TVerで見逃したテレビ番組を観ることもできますし、Amazon PrimeNETFLIXで過去の映画やアニメをいくらでも観ることができます。Kindleをつかえばわざわざ本屋に行かなくてもマンガを読むことができまし、Nintendo SwitchPLAYSTATIONのゲームは信じられないほどのクオリティに進化し続けています。

 そんな数多くの新しいコンテンツと比べて、「文章」というコンテンツが未だに勝っていると思いますか。高尚で立派なイメージにふん反り返って、「文章」がコンテンツとして優秀だと思い込んではいませんか。「文章」はコンテンツの中でも違う土俵にあるものだと思ってはいませんか。

 読解力が低下したのは、文章よりもおもしろいコンテンツが身の周りにたくさんあるから。単純にそれだけなのではないでしょうか。「読解力」が低下した一方で「ゲーム力」は上がっているのかもしれません。

f:id:taishiowawa:20191203222435p:plain

 

3.読書は手軽じゃない

 そもそも、この話を進めるためには「読解力」に価値があるということを前提としなければなりません。ただ、そこから始めていると長くなってしまうので、今回は「読解力は高いほどいい」ものとして話を進めていきたいと思います。

 先ほど述べたように、今の時代、おもしろいコンテンツがあまりにも多すぎます。それらのコンテンツに勝つことができなければ、「読書」に割り当てられる時間が残るはずがありません。

 今人気のあるコンテンツのほとんどに共通するのが「手軽さ」です。YouTubeの動画を観るのなんて、サムネイルをタップすればおしまいです。しかも無料です。そして、おもしろくなければ簡単に止めることができます。そう考えると「文章」というコンテンツは決して手軽だとは言えません。

 何せ時間がかかります。読書に慣れていない人からすると、1日に1冊読むのも、かなり苦労するでしょう。しかも、本は有料です。「お金を払って買ったのにおもしろくない」という可能性も十分にありえます。「最後まで読んだけどおもしろくなかった」なんて最悪のパターンです。その間にお金も時間も失っているわけですからね。もちろんおもしろくなければ途中で止めればいいのですが、それでもお金が返ってくることはありません。メルカリに出品するにしても一手間かかってしまいます。

 そんな両者を比べてみて、改めて考えていただきたいと思います。これだけ様々なコンテンツが溢れる時代に、「文章」というコンテンツに時間を割く理由があるのでしょうか。習慣として読書を知らない子どもたちに「読書」の価値を説明することができますか。

 

4.頑張らなければならないのは書き手

 今回の「読解力低下」という結果を受けて、本当に頑張らなければならないのは、学習者ではなく書き手です。今回の結果は、ある意味「文章」というコンテンツの敗北が知らされたようなものです。子どもたちの興味と時間は、とうの昔に他のコンテンツに奪われてしまっているのです。

 「本を読みなさい!」だなんて強引に取り戻そうとしても無駄です。結局、人の身体を動かすのは、心からの興味・関心です。この興味・関心を取り戻さなければ、きっとこのまま読解力は低下し続けることでしょう。

 だからこそ、本当に頑張らなければならないのは、文章の書き手なのです。思わず読みたくなるようなおもしろい文章を生み出さなければなりません。決して、今の書き手たちがつまらないと言っているわけではありません。素晴らしい文章は世の中にたくさんあります。だからこそ、頑張らなければならない人が、もうひとりいます。

 それは教師です。おもしろい文章と子どもたちを出会わせることができる数少ない大人です。書き手がおもしろい文章を生み出す。そして、教師がそれを子どもたちに伝える。どちらかだけが頑張ってもあまり意味がありません。本当に「読解力」を向上させたいのであれば、他のコンテンツにも勝るおもしろい文章を、子どもたちに届けることが重要になるのです。

 

 

 洋服の世界でも同じようなことが言えます。結局どれだけすてきな服をデザイナーが作り出そうとも、それがお客さんに届かなければなんの意味もありません。俗に言う「マーケティング」と呼ばれるものです。

 今の書き手の中に、読者に届くまでの動線をデザインすることができている人はほとんどいないと思います。よく弊ブログにも書いていますが、文章は読んでくれる人がいて始めて成立します。書いたらおしまい。放っておいたら勝手に誰かが読みにきてくれるというわけにはいかないのです。

 どうすれば読者のもとにこの文章が届くのか。どうすれば多くの人に読んでもらうことができるのか。そんな戦略的な視点を書き手が身に付けたら「文章」というコンテンツはよりおもしろくなるのかもしれません。

 

 

 

【火】迷惑をかけてはいけないのではなく、迷惑をかけてでもやりたいことなのかどうか

 

 おはようございます。学校から持ち帰ったたくさんの教材を、次の日にそのまま学校へ持って行く。そして、それをまた持ち帰り、次の日にまた持って行く。パンパンに詰まったリュックの中身は、きっと家で頑張ってやるだろうという自分への「過信」と、万が一必要になったときのためという「安心」です。そんな重い荷物を運ぶのは、筋力トレーニングのためでもあります。先生は日々、過信と安心を背負って、筋トレをしながら学校に通っているのです。どうも、インクです。

 

迷惑をかけてはいけないのではなく、迷惑をかけてでもやりたいことなのかどうか

 お待たせしました。いや、お待たせしすぎたのかもしれません。毎度お馴染み、大人気企画「学校でよく耳にすることばを疑ってみよう!」のコーナーです。ちなみに前回のテーマは「自分がやられて嫌なことは人にもしない」でした。まだ読んでいない方がいらっしゃいましたら、ぜひ読んでみてください。

taishiowawa.hatenablog.com

 それでは、早速ですが、本日のテーマに移りたいと思います。準備はよろしいですか?いきますよ?......本日のテーマはこちら!

 

「人に迷惑をかけてはいけません」

 

 まあ、よく聞くことばですよね。なんなら学校以外で耳にすることも多いかもしれません。逆に、自分が言ったことがあるという人もたくさんいるのではないでしょうか。今日はこのことば「人に迷惑をかけてはいけません」について疑っていこうと思います。 一緒になって考えていただけたら幸いです。

f:id:taishiowawa:20191202221932p:plain

 

1.人に迷惑をかけない人生

 そもそも「人に迷惑をかけない人生」ってどんな人生でしょうか。朝起きて、リモートワークで働いて、お腹が空いたらUber Eatsを頼んで、Amazon Primeで映画を観て、そして寝る。この人は誰にも迷惑をかけていないと言えるのかもしれません。

 「Uber Eatsの配達員を自分の都合で動かしているのだから、配達員に迷惑がかかっている」だなんて言い始めたらキリがないので、さすがにそこまで言うのはやめておきましょう。一応、配達員も報酬という対価をもらっているわけですから、「迷惑」と捉えるには少し無理がありますしね。

  仮にこんな生活が、一週間続き、一ヶ月続き、一年続き、ついには一生続いたとしましょう。果たしてこの人は幸せなのでしょうか。人と関わらず、変化もせず、ただ同じ「人に迷惑をかけない」日々を繰り返す。もちろん幸せの形は人によって違います。だから、もしかすると、このような生活を幸せだと感じる人もいるかもしれません。しかし、筆者からすれば、なんてつまらない人生なのだろうと思います。

 何も変えない。何にも変えられない。ありきたりな言い回しになってしまいますが、この人は一体なんのために生きているのでしょうか。何に向かって進んでいるのでしょうか。何が楽しいのでしょうか。果たして「人に迷惑をかけない人生」にどこまでの価値があるのでしょうか。

 

2.迷惑をかけてでもやりたい

  お分かりかとは思いますが、前述したような現代的なリモートワーカーはかなり極端な例です。実在する人の人生を辿るのであれば、本当の意味で、人に迷惑をかけずに生きることなんてできません。必ずどこかで、誰かには迷惑をかけることになるでしょう。それは親かもしれないし、先生かもしれないし、はたまた友だちかもしれません。

 そんな「迷惑をかける」という行為が、それほどダメなことなのでしょうか。学校で「人に迷惑をかけてはいけません」ということばがよく登場するのは、子どもが何か間違ったことをしてしまったときです。「自分だけが困るのなら好きにしたらいいけれど、人に迷惑がかかることはしたらダメでしょ!」と、こう言うわけです。本当にそうなのでしょうか。

 先ほど述べた通り、人が生きていくためには、必ずどこかで誰かに迷惑をかけなければなりません。迷惑をかけずに生きていくことなんて不可能です。だからこそ、子どもが何か間違ったことをしてしまったときに、かけることばは「迷惑をかけてはいけません」ではなく、「迷惑をかけてでもやりたかったことなの?」という問いかけなのではないでしょうか。 

 たとえば、みんなが真剣に作文を書いている途中に、隣の友だちにちょっかいをかけた子どもがいたとします。 きっと、集中力が切れて、少し構ってほしかったのでしょう。しかし、隣の友だちは真剣に書いているわけですから、その行為は「迷惑」です。そんなときに先生は「迷惑をかけてでもやりたかったことなの?」と問いかけます。この例に限らず、ほとんどの場合においてはNOという返事がかえってくるでしょう。

 「迷惑をかけてはいけません」だと、漠然としていて、よく分からないのです。「いけません」ということばは一方的な禁止ですから、言ってしまえば考える余地がありません。だから同じことを繰り返すのです。一方で「迷惑をかけてもやりたかったことなの?」と問えば、聞かれた側は考えます。自分の行動をふり返ります。その上で、判断するので、同じことを繰り返すことがなくなるのです。

f:id:taishiowawa:20191203062813p:plain

 

3.迷惑をかけても許される人 

 「迷惑をかけてでもやりたかったことなの?」という問いに対して、堂々とYESと答えられるのであれば、それはもう遠慮なく迷惑をかければいいと思います。本気で「野球選手になりたい」と努力している人に、多少の迷惑をかけられても、嫌な顔をする人なんていません。むしろ、そんな場での「迷惑」は「応援」に姿を変えていきます。

 ここで必要になるのが「信用」です。あの人は本当によくがんばっているから、迷惑をかけられても別になんとも思わないよ。と、こう思ってもらえる人であるかとうかです。これらの「信用」は、もちろん日頃の態度で形成されます。

 つまり、日頃から「迷惑をかけてでもやりたかったことではないこと」で迷惑をかけていると、いざ本気で何かをやりたいと思ったときに、誰にも協力してもらえなくなるのです。だからこそ、大人たちは、スモールステップを飛び越えて、「人に迷惑をかけてはいけません」と言うのです。大人は子どもに「迷惑をかけても許される信用のある人」になってほしいと思っているのです。「迷惑をかけてはいけません」ということばは、この思いをすっとばしてしまうから、少し気をつけなければならないことばだなと思いました。

 

 

 改めて本当にことばというものはおもしろいですね。特に「習慣」の中に紛れ込んで、誰もが何も考えずにつかっている「話しことば」は、疑ってみるといろんなものが出てきます。化石を発掘しているようです。もし「このことばもよく聞くけど、改めて考えてみるとおかしくね?」というようなことばがあれば、ぜひ教えてください。それでは、よい火曜日をお過ごしください。

 

 

 

【月】大人の約束は「また」「いつか」「いずれ」が多いから寂しい

 

 おはようございます。いつだって月曜日はやってきます。律儀なことに、時間通りにやってきます。数秒の誤差もありません。もしかすると、10分前にはやってきて待ち構えているのかもしれません。決まった時間になると突如姿を現します。たまには遅刻したってかまわないのに。どうも、インクです。

 

大人の約束は「また」「いつか」「いずれ」が多いから寂しい

  子どもたちと過ごしていると、「今日遊べる?」「遊べる!」「おっけい!じゃあ、〇〇公園な!」というような会話をよく耳にします。正直言って、うらやましい。学校から帰ったら、ランドセルを置いて(えらい子は宿題を済ませて)、自転車で公園に向かいます。公園に行くと、はじめから約束していたメンバー以外の友だちも遊んでいます。最終的にはみんな一緒になって、暗くなるまで走り回ります。なんてうらやましい。

 いつかからか、友だちと遊ぶときには財布を持つようになりました。今となっては財布を持たずに遊ぶことができなくなってしまいました。本来は彼らと同じように、お金なんかなくたって楽しく遊べたはずなのに。どうしてこうなってしまったのでしょう。

f:id:taishiowawa:20191201180747p:plain

 

1.今日遊べる?

 なかなか大人では難しいですよね。相手は忙しいんじゃないか。急に誘うのは失礼なんじゃないか。立場的に強要することになってしまうんじゃないか。こんなことを考えて、「今日遊べる?」は、よほど近い関係の人ではないと言いづらいことばだと思います。仮に言えたとしても、断られてしまうことが多いでしょう。どうやら大人の世界には「あぽいんとめんと」と呼ばれるものが存在するらいです。難しいですね。

 だからと言って、具体的な日付を決めようとすると、しつこいヤツだと思われてしまうかもしれません。しつこいなあ、本当は行きたくないのになあ。そう思われているかもしれません。だからこそ、誘うときはやんわりと誘うことになってしまいます。

またごはんにでも行きましょう!

いつかこうして集まれたらいいですね!

いずれタイミングが合えば遊びましょう!

  そして、これらの「また」「いつか」「いずれ」がやってくることはありません。これらのことばが意味するのは「さようなら」なのです。「I'ill be back」ということばを残して炎の中に消えていったシュワちゃんと同じです。ターミネーターですら消えていくのです。生身の人間である我々が生きて再会できるはずがありません。

f:id:taishiowawa:20191201210624p:plain

 

 

2.そこに行けば誰かがいる

 さらに、うらやましいのが「公園に行けば誰かがいる」という状況です。筆者も昔はよく、なんの約束もせずに公園に行ったものです。この公園にいなくても、あの公園に行けば誰かいるだろう、と公園をハシゴすることもよくありました。

 そのときは、それが当たり前だったのでなんとも思っていませんでしたが、大人になって振り返ってみると、なんてうらやましい状況なのだろうと思います。あそこに行けば誰かがいる。大人になった今、そんな場所の存在がとてもうらやましく思います。ある種、擬似的なソレがツイッターなのかもしれませんが、ツイッターはむしろ寂しさを助長するような気さえします。

 どこかのお店の常連にでもなれば、それが実現できるのかもしれませんが、なかなか勇気が出ません。行動しないと始まらない。そんなことは分かっているのだけれど、なかなか足が動かぬものです。

f:id:taishiowawa:20191201210933p:plain

 

 

 だいぶ暗くなってきました。そろそろ帰る時間ですね。現実の世界で「そこに行けば誰かがいる」という場所をつくろうと思えば、どうしても土地に縛られてしまいます。「気軽さ」が肝になるので、集まれる人は自ずと近くに住んでいる人に限定されてしまいます。

 そんな制限をなくすことができるのが、インターネットです。先ほど書いた通り、ツイッターではどうしても、人と人とが会っているというよりかは、同じ道をすれ違っているというような感覚になるので、もっと別のところでそんな場所をつくれないものかと考えています。そこに行けば誰かがいる。いつかそんな場所をつくりたいと思います。

 

それでは、くれぐれも門限には遅れないように気をつけてお帰りください。

f:id:taishiowawa:20191201213428j:plain

 

 

 

【日】うちのクラスの体育は怒ったら退場

 

 おはようございます。前にも書いたかもしれませんが、最近座ったまま寝てしまうことがよくあります。22時ごろからの記憶がなくなり、気がつけば夜中の3時です。なんの授業準備もできていません。お風呂にも入っていません。身体はバキバキです。お風呂に入って、準備をして、布団に入り直すにはあまりにも微妙な時間です。だからといって、ここで寝ておかなければ、夕方の職員会議でウトウトする可能性が高まります。こんなときの正しい選択が未だに分かりません。どうすればよいのでしょうか。「いや、はじめから布団に入って寝ろよ」だなんて言わないでくださいね。コミュニケーションにおいては、正論がいつだって最適解だとは限りません。どうも、インクです。

 

うちのクラスの体育は怒ったら退場

 子ども間のトラブルが起こりやすい教科第1位は間違いなく「体育」です。特に、チームに分かれて行うサッカーやバスケやバレーといった類の球技は、トラブルがよく起こります。そんなトラブルの原因は大きくふたつに分けられます。ひとつ目は「ルール違反」、ふたつ目は「チーム内格差」です。逆に言えば、教師が先手を打ってこのふたつさえ抑えておけば、平和な体育ができあがるというわけです。それではひとつずつ考えていきましょう。

 

1.ルール違反

 まず、大前提として、子どもたちはルールを守ろうとするものとします。もし、意図的にルールを破ろうとする子どもがいるのなら、それは「体育」以前の問題になってきますので、今日の記事では「守ろうとする」を前提として話を進めさせてください。

 その上で、トラブルが起こるのはどんなときかと言うと、「ルールを理解しきれていなかった子ども」や「ルールを間違えてしまった子ども」への過剰な反応が起こったときです。わざとルールを違反したわけではないのに、まるで悪者であるかのように攻撃されてしまうのです。そりゃあ当人は「そんなに言わなくてもいいじゃないか!」と思います。そこから揉めごとへと発展していくのです。

 他にも、そもそも違反したのかしていないのかで揉めることもよくあります。「今のライン出てたよ!」「いや、出てなかったよ!」「いや、絶対に出てた!」というやつです。基本的にはいくつかのコートで試合を同時進行するので、各コートに審判を配置することは不可能です。だから、子どもたちは、自分たちで判断しなければならなくなります。これがまた、なかなか難しいんですよね。本気になって、熱くなるほど、このパターンのトラブルは発生するようになります。

 

2.チーム内格差

 これは、おそらくほとんどの人が経験したことのある問題なのではないでしょうか。まさに「熱量の違い」から生まれるトラブルです。「上手なヤツが出しゃばるパターン」「下手なヤツが意固地になるパターン」の2種類があります。両者の熱量の差が大きくなればなるほど、怒りのボルテージは上がっていきます。

taishiowawa.hatenablog.com

 まず、大抵の場合は上手なヤツが出しゃばるところから始まります。調子に乗って自分だけがボールを触ろうと動くのです。そんな気持ちが強いものだから、思い通りにいかなかったら人のせいにしはじめます。「アイツが下手だから、オレが活躍できないんだ」と、こういうわけです。とてもタチが悪いですね。

 当然、まわりの子どもたちは、その子と同じチームであることが嫌になっていきます。いつも自分のことしか考えていない。ミスをしたら責められる。終わったあともずっと機嫌が悪い。するとどうなるかというと、「もういいわ」「勝手にやってくれ」と思い始めるのです。要するに、「やる気を出さない」という抵抗を始めるのです。

 これで熱量格差の完成です。「自分のことばかり考えているアイツとはやりたくない」「やる気がないアイツとはやりたくない」、こうしてトラブルは大きくなっていくのです。こんな「体育」がおもしろいはずがありません。おもしろくもない「体育」が学びになるはずがありません。

 

3.手立て

 はじめに書いたように、このふたつを防止するためには、先手を打つことがとても重要になります。始まってからだと、子どもたちの熱量が高まっていて、半ば強引に抑え込むしかなくなってしまうからです。 

taishiowawa.hatenablog.com

 先ほども貼り付けたこの記事にも書いたとおり、熱量の違いは打ち合わせ不足から発生します。打ち合わせが不足したまま試合を始めてしまうから、トラブルに繋がっていきます。だからこそ、球技が行われている期間中は、頻繁に教室で作戦会議を行います。1回目の作戦会議は教師主導で行います。ざっくりとした内容は以下の通りです。

 君たちは、今回の体育のサッカーで、ワールドカップを目指しているわけではない。今回の体育で勝つために血の滲むような努力を重ねてきたわけでもない。そんな体育で、ぷんすか怒りはじめる人が出てくると絶対におもしろくなくなる。だから、どんな理由であれ怒りはじめた人は退場ね。

 これを、初回の運動場に出る前に伝えます。反論の余地を残していないので、全員が頷いて、運動場へ出発します。もちろん初回ですので、ルールの食い違いや、こういうときはどうしたらいいんだろう?という疑問が多く出てきます。それを逐一、作戦会議で解消していくのです。この形が定着すると「どうせ後で話し合えばいいから、とりあえず今はじゃんけんで決めようか」と考えるようになります。なにせ、その場で怒ってしまうと退場させられてしまいますからね。

f:id:taishiowawa:20191130210729p:plain

 すると、当然トラブルは減っていきます。トラブルが減ると「体育」はおもしろくなっていきます。おもしろくなっていくと、技能を身につけるためのチャンスが増え、体育的な観点での思考に力を入れるようになっていきます。すべてのねらいはここにあります。退場させることが目的でも、トラブルを減らすことが目的でもありません。体育を通して身につけるべきことに、全力で向かわせるための手立てです。必要のない障壁は、教師が先手を打つことで取り除くことができるのです。むしろ、それこそが教師の仕事だと言うこともできるのではないでしょうか。

 2回目以降の作戦会議では、「おもしろくないことがあった人は、どうすればおもしろくなると思う?」と問いかけます。不満を「文句」ではなく「提案」として吐き出させます。すると「守備ばかりやらされておもしろくなさそうにしていた人がいたから、攻撃と交代する時間を決めればいいと思う」というような意見が出てきます。しかし、大抵その対象になっているような子どもは「下手なヤツ」であることが多いです。「自分が攻撃に参加して、ミスをしたら責められる」と思っています。そして、実際に責められてしまうことも往々にしてあり得ます。しかし、このままでは、一部の人は楽しいかもしれないけれど、その子は楽しくないままだ。と、こういう考えになっていくわけです。

 ちなみにうちのクラスでは「オールどんまい」がキーワードになりました。失敗してもオールどんまい。むしろ他の人の失敗を責めたヤツが責められる。そんな空気ができあがっていきました。これをもし、教師が主導になって「失敗した人にもプラスの声かけができたらいいね」だなんて言っても、効果はほとんどありません。そうするべき必然性を、体験を通して実感していないからです。しかし、子どもたちの思考の流れにこれらを組み込むことができたら「前回の作戦会議を活かして失敗した人にもプラスの声かけをしてみたら、みんなが楽しめるようになった」という因果関係を得られるのです。自分たちで思考して出した結果は、人に言われて出した結果とは、わけが違います。こうして「みんながおもしろい体育」ができあがっていくのです。

 

 

 さらにおもしろいことに「みんながおもしろい体育」が成立すると、怪我がなくなります。体育をしていると、足に引っかかって転んだり、振り向き際にぶつかったりと、ある程度仕方のない怪我も起こるのですが、そんな怪我でさえなくなります。全員の熱量のバランスが整うと、怪我の発生件数も自ずと減っていくのです。

 これまた偉そうに語ってしまいましたが、筆者は体育を専門にしているわけではありません。勘の鋭い方はもうお気づきかもしれませんが、なんなら「体育」はただのメタファーでしかありません。ひとつの比喩です。寓話です。本当に「体育」のことが知りたいのなら、きっともっといい方法がたくさんあると思います。ただ、間違いなく言えることは、教師が先手を打つことで防ぐことのできるトラブルがあるということです。あらゆる教科において、子どもの思考の流れに沿った必然性をつくっていけるといいですね。

  

 

 

【土】Beatlesの凄さと戦争の恐ろしさは似ている

 

 おはようございます。たとえ自分が注文したものだったとしても、荷物が届くって嬉しいですよね。「その時間帯は家にいなければならない」だとか「コンビニに出かけた隙に不在連絡票が入っていた」だとか、文句を言われることが多い宅配便ですが、結局はそれらも含めて「荷物を待つ」という行為は幸せなことなのだと思います。

 届くかどうかも分からない荷物を待つのは「かなしい気持ち」かもしれませんが、届くと分かっている荷物を待つのは「しあわせな気持ち」なのです。たとえ、配達員が「かたつむりくん」だったとしてもです。どうも、インクです。

 

Beatlesの凄さと戦争の恐ろしさは似ている

 昨日まで、世界中の誰もが知っていたビートルズ

今日僕以外の誰も知らないー。

というコピーがつけられている映画『イエスタデイ』を先日鑑賞してきました。ビートルズのメンバーのドキュメンタリーではなく、ビートルズの曲を存分に使用したオリジナルストーリーでした。エド・シーランが本人役で出演したことも話題になっていましたね。ビートルズに関する知識の浅深に関わらず、誰にとっても分かりやすい映画だったと思います。

f:id:taishiowawa:20191130045335j:plain

映画『イエスタデイ』公式サイト

 そんなビートルズですが、映画のコピーにもある通り、世界中の誰もが知っていることが前提になるほど、とんでもないバンドです。シンプルなコード進行にキャッチーなメロディ。ビートルズの曲を一度も聴いたことがないという人は、まったくと言ってもいいほどいないでしょう。

 私たちはそんなビートルズの「凄さ」を知っています。曲を聴いたら分かる「凄さ」ももちろんですが、「ファンが気絶した」「来日の際は厳戒態勢が敷かれた」などのエピソードからもその「凄さ」を知っています。

 しかし、当然「若者」と呼ばれる世代の人々は、「体験」としてビートルズを知りません。なんせ50年前に解散したバンドですからね。 彼らの残した「作品」と語り継がれる「エピソード」からしか、その「凄さ」を判断することができないのです。

 この感覚は「戦争」とよく似ています。戦争も、「体験」としては知りません。子どもの頃から、とにかく「戦争は恐ろしいものなんだ」と教え込まれてきたから、まるで知っているような気になっているだけです。ほんとうの恐ろしさは、やはり実際に体験した人にしか分からないものなのです。

 ビートルズもきっと凄かったのでしょう。「凄かった」ということばでは収まりきらないくらい凄かったのだと思います。ただ、どれだけ熱く語られようとも、若者はビートルズを知りません。どれだけ曲を聴いて、その曲に惹かれようとも、もう知ることはできないのです。

 この映画を観終わったあと、そんなことを思いました。「知識」として知っていることと、「体験」として知っていることは、やはり違います。天と地ほど違います。私たちは、しばしばこの「知っている」を混同させてしまいます。人間は賢いからこそ、簡単に「知ったつもり」になってしまうのです。

 そう考えると、人生において、本当の意味で「知る」ことができるものは案外限られているのかもしれません。今という同じ時代に存在するものしか「体験」として知ることはできませんからね。「人生は移動距離で決まる」だなんてことばを聞いたことがありますが、やはり自らの足で「体験」を集めることが大切なのかもしれません。

 座っているだけでは見逃してしまう、今に散らばる「小さなビートルズ」を可能な限り集めていきたいものです。お金は「体験」に換えていこう。そんなことを思った映画でした。まだ公開している映画館もあるみたいなので、気になった方はぜひ足を運んでみてください。

 

 

  もっとも古いビートルズの記憶は『All You Need Is Love』です。車の中でかかっていたことを今でもはっきりと覚えています。当時は「ビートルズ」なんて知らずに、この曲を聴いていました。やっぱり耳にこびりつくんですよね。特に、歌詞の「All You Need Is Love」の後に続く「テッテテレレー」の部分(こんなので伝わるのか?)がとても好きでした。

 その後、ちゃんと「The Beatles」を認識した上で曲を聴くようになったのは、ロックにハマった中学生のころでした。それでもおそらく「にわか」の域を超えてはいませんが、いろんな音楽を聴くようになったからこそ、改めて「ビートルズって凄いんだな」と思った記憶があります。

 今でも時々聴きたくなることはありますが、昔ほどの熱量をもって音楽に向き合うことはできなくなってしまいました。しかし、考え方によっては、それでも聴き続けている曲は、それだけ自分にとって大切なものだったということなのでしょう。

 先ほど紹介した『All You Need Is Love』に加えて、お気に入りの曲をもう2曲紹介して終わろうと思います。選曲からにわか加減が溢れてしまいますが、何度も言う通り、筆者はにわかです。くれぐれもその点、ご了承ください。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com