ツイートの3行目

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【日】結局どこかには正反対のそれらしい意見が存在している

 

 おはようございます。昨日の記事「【土】理科の実験は可能性を狭めていく活動」が、なんと弊ブログの100記事目でした。そろそろだなとは思っていたのですが、まさか更新してから気がつくとは。100だから何かあるというわけでもないのですが、やはり達成感のようなものはありますね。それと同時に「100記事も書いたのにまだまだ何も変わらないなあ」とも思っています。昔から人と仲良くなるのには時間がかかるタイプでしたので、これからも気長に書いていこうと思います。ここまでのご愛読ありがとうございました。今後とも何卒よろしくお願いいたします。どうも、インクです。

 

結局どこかには正反対のそれらしい意見が存在している

  100記事更新に対して、「100記事も書くなんてすごい」と思う人と「100記事なんてまだまだこれから」と思う人がいるでしょう。このように、人はそれぞれ違うので、結局どこかには正反対の意見が存在することになります。それがもっともみつけやすいのは書店です。特に新書コーナーにいくと正反対のことを主張しているタイトルの本がすぐにみつかることでしょう。

 睡眠に関する主張なんて分かりやすいですよね。早寝早起きの価値を主張している人もいれば、寝る間も惜しんで働くことの価値を主張している人もいます。仕事論なども意見が分かれやすいです。ひとつの仕事を長く続けている人は「長く続けるからこそ分かることがある」と主張し、すぐに辞めた人は「辞めることで新しい世界が広がった」と主張します。

 要するに何が言いたいのかというと、「人は自分の過去を肯定するために言いたいことを言う」ということです。早起きを続けてきた人は、自分の過去を肯定するために、早起きはいいものだと信じ込みたいのです。同様に、寝る間も惜しんで働いてきた人は、自分の過去を肯定するために、睡眠時間を削るのはいいことだと信じ込みたいのです。仕事を長く続けている人もすぐに辞めた人も同じです。自分のこれまでの行いはよかったのだと信じ込みたいのです。そして、それだけでは不安だから「これでよかったんだよね?」と他の人に同意を求めたくなるのです。

 たったそれだけのことです。えらそうに語っている人も、実際にえらい人も、結局は同じです。自分がやってきたことが間違っていなかったと認めてほしいのです。どうしてもことばに棘があるようで申し訳ないのですが、何もそのような人たちを否定するつもりはありません。なぜなら筆者自身も同じだからです。同じように自分の過去を肯定したいと思っていますし、それをたくさんの人に認めてほしいとも思っています。簡単に言えば、承認欲求です。これがなければ、そもそもこんなブログを更新することもないでしょう。

  つまり、世に溢れている意見の多くは、正しいも間違いもあったものではありません。発言者自身の自己愛であり自己防衛の表れです。つまるところ、その意見を聞いてどうするかは結局自分で決めるしかないということです。仕事を長く続ければそれを肯定する未来が、仕事をすぐに辞めればそれを肯定する未来が待っているだけです。他人に決められることではないのです。

 一番こわいのは、自分の過去を肯定したくてもできない状況に陥ったときです。誰のせいにもできなくなって「自分だけが悪い」と思い始めると、人は危ない状態だと言えるでしょう。過去を失うということは、未来を失うということでもあります。「今を生きろ」だなんて薄っぺらいことばがありますが、過去に対する自信を失った人が今や未来に希望をもてるはずがありません。過去があるからこそ今があり未来があるのです。どれだけ悲惨でどれだけ苦しい過去であれ、「そんな過去があったからこそ今の自分がある」と価値づけすることが大切です。そして、その価値づけには他者の協力が必要なことも多いです。だからこそ「これでよかったんだよね?」と不安になっている人がいれば「それでよかったんだよ」とそばで言える人になりたいと思います。

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  記事を書き終わったら、いつもはじめから声に出して読むようにしています。声に出して読みやすい文章はいい文章であることが多いからです。もちろん今日の記事も声に出して読んでみているわけですが、自分で書いたにも関わらず、グサグサと突き刺さってくるものがありました。

  学校の先生は、子どもたちの「過去」を認め、一緒に「今」をつくりあげていくのが仕事です。「今」は、彼らが大人になったときに「過去」として思い出されます。そんなときに、疑うことなくはじめから肯定できる「過去」として思い出してくれたらなと願っています。

 とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない  誰もって大人はだよ  僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ  つまり、子供たちは走っているときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ。

J.D.サリンジャー(1984年)『ライ麦畑でつかまえて野崎孝訳、白水社、269ページ 

 

 

 

 

それでよかったんだよ

 

【土】理科の実験は可能性を狭めていく活動

 

 おはようございます。コンビニの食べ物ってここ数年で急激においしくなりましたよね。特にセブンイレブンは本当にすごいなと思います。味がおいしいのはもちろんですが、他のコンビニと比べても圧倒的に「おいしそうに見せる」のが上手です。

 おすすめは「牛肉かき玉あんかけうどん」「ごまドレッシングの豚しゃぶパスタサラダ」「こだわりの特性豚まん」です。ただ、少し調べてみると、地域によっては売られていないところもあるみたいですね。全国にあるセブンイレブンですが、陳列されている商品は地域によって違う。学校もそうあるべきなのかもしれません。どうも、インクです。

 

理科の実験は可能性を狭めていく活動

  小学校の理科では、4年生から理科室をつかった本格的な実験が始まります。最初の単元は「ものの温度と体積」です。空気・水・金属を温めたり冷やしたりして、体積の変化を観察します。温めた空気の体積を調べる実験は以下の3種類です。

  1. 丸底フラスコの口に栓をして温める。
  2. 栓をした丸底フラスコの口を下に向けて温める。
  3. へこませたペットボトルやマヨネーズの容器を温める。

 もちろん、これらの実験の結果は「栓が飛ぶ/ペットボトルやマヨネーズの容器が膨らむ」です。そこから分かることは「空気を温めると体積が大きくなる」ということです。実験を終えたときに、子どもたちがこれらの事実を理解していればOKというわけです。

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1.結果は教科書に書いてある

 理科の授業の傾向としては、「実験結果の予想」に焦点が当てられることがとても多いです。子どもたちからたくさんの予想が出る授業が「いい授業」とされがちです。きっと「予想を立てる」という活動が、理科的な思考を育むと思われているのでしょう。いざ実験が始まってしまったら、決められた手順で手を動かすしかありませんからね。「結果」も事実が出るわけですから、思考の余地がありません。だからこそ先生たちは「予想」を、必死で考えさせようとするのでしょう。しかし、子どものころにこんなことを思ったことはありませんでしたか。

教科書に結果が書いてあるのにどうしてわざわざ実験するんだろう

 今の子どもたちは、塾に通っていたり、通信教育を受けていたりしているので、実験をする前から「空気を温めると体積が大きくなる」という事実を知っています。そのような状態で、予想を立てたところであまり意味がありません。既知の事実に基づく予想を立ててもただの予定調和ですし、わざと違う予想を立てるのもおかしな話です。

 つまり、先生のねらいとは裏腹に、結局「予想を立てる」という活動でも子どもたちの思考は働いていません。「予想を立てなさい」と言われるから予想を立て、「この手順に従って実験しなさい」と言われるから実験をしているに過ぎないのです。

 

2.どんな実験をすればいい?

 前述の通り、実験結果を予想する活動にはそこまで期待ができません。だからといって、何も考えずに実験を進めてしまうとただの作業になってしまいます。子どもたちの思考を揺さぶれる場所はどこにあるんだろう。そんなことを考えながら理科の授業をしていたのですが、ふと「実験結果よりも実験方法やその過程を考えさせた方がおもしろいんじゃないか」と思うようになりました。

 つまり、「空気を温めたらどうなると思う?」と問うのではなく、「空気を温めたときの変化を調べるためにはどんな実験をすればいいと思う?」と問うのです。もちろん子どもたちは、普段の生活で、意図的に空気を温めようと思ったことなんて一度もありません。どうすれば空気を温めることができるんだろう。ここで子どもたちの思考は動き始めます。たとえばこんな意見が出てきます。

・風船をストーブの上におく

・ビーチボールをお風呂に浮かべる

・膨らませたビニール袋を作って暖房をつける

 こんなことを考えていく過程で、実は2つの大切な要点をおさえていることになります。それは、実験として「変化がわかりやすいものでなくてはならない」ということ。そして、そのためにも「変化を予想しなければならない」ということです。要するに、「実験方法を考える」という活動の中に「実験結果を予想する」という活動も内包されているのです。

  1. 丸底フラスコの口に栓をして温める。

 もちろん、子たちが考えた実験方法をすべて実行に移せるのが理想なのですが、時数の問題もありますので、なかなかそういうわけにはいきません。だから、実験方法を十分に考えた後に「じゃあ今からこんな実験をするよ」と上記の実験方法を説明します。

 すると、子どもたちは「ああ!なるほどな!そういうことか!」という反応を示します。 子どもたちの思考の中に「フラスコ」という概念は存在しないので、必然的に生活経験の中でしか考えることができません。言わば、教科書に載っている実験は抽象化された状態なのです。変化がもっとも分かりやすく表れる最適解です。

 あらかじめ自分たちで実験方法を考えるという活動をしているからこそ、その抽象化された最適解を目にしたときに「ああ!なるほどな!そういうことか!」という反応が生まれるのです。

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3.実験をするからには理由がある

 はじめに書いたように空気を温める実験は、ぜんぶで3種類行います。ここで考えなければならないのが「どうして3種類も行うのか」ということです。もう一度、実験内容をコピペしておきますね。

  1. 丸底フラスコの口にせんをして温める。
  2. 栓をした丸底フラスコの口を下に向けて温める。
  3. へこませたペットボトルやマヨネーズの容器を温める。

 お分かりの通り、1番の実験をすると、栓がポンッと飛び出します。もちろん理由は、フラスコの中の空気の体積が大きくなったからです。子どもたちも同じように答えます。はじめから知っていた事実どおりの結果が出たに過ぎません。

 しかし、この実験だけで「空気を温めると体積が大きくなる」と言い切ることはできないのです。ここが理科実験の肝だと言えるでしょう。この実験だけだと「空気を温めると上に移動する」という可能性も十分に考えられるのです。空気が勢いよく上に移動したから栓が飛んだというわけです。正確な空気の性質を調べようと思ったら、これらの可能性を狭めていく必要があります。

 だから、フラスコの口を下に向けて同じ実験を行います(2番)。それでも栓が飛ぶのなら 「空気を温めると体積が大きくなる」、栓が飛ばないのなら「空気を温めると上に移動する」という事実が出てきます。ここまでして、はじめてひとつの事実に絞り込むことができるのです。

 子どもたちには、この「実験を行う必然性」を考えさせなければなりません。もし、1番の実験を終えた段階で「空気を温めると上に移動する」という意見が出てこなければ、先に2番の実験方法を提示して「今からこんな実験をするんだけどなんのためにすると思う?」と聞いてみるといいかもしれません。理科の実験は、結果を出すことに価値があるのではなく、「あらゆる可能性を洗い出して、それを狭める方法を考えていく」ことに価値があるのです。

3.へこませたペットボトルやマヨネーズの容器を温める。

 それでは、最後のひとつは読者の皆様も一緒に考えてみてください。1番と2番の実験を通して「空気を温めると体積が大きくなる」というひとつの事実に絞り込むことができました。それなのに、どうしてわざわざ3番のような実験をするのでしょうか。時間を割いて実験をするからには、必ず何かしらの理由があるはずなのです。身の周りにあるものをつかったただの「確認」ではありません。ぜひ考えてみてください。

 

 

 理科の実験は楽しいので、どうしても「楽しい」だけで終わってしまいがちです。もちろん「楽しい」という感動体験は大切ですが、やはり考えなければ意味がありません。よく「生活と結びつけなければならない」と言われますが、本当の意味で生活と結びつくのは、実験から導き出された結果ではなく、その過程で経験した考え方です。「あらゆる可能性を洗い出して、それを狭める方法を考えていく」という考え方はきっといろいろな場面で生きてくることになるでしょう。

 他教科でも同じです。教科書に書かれた事実を勉強しているわけではありません。よく「オレは日本に住み続けるから英語なんて勉強しなくてもいい」だとか「大人になって二次関数をつかうことなんてない」だとか言っていますが、そうではないのです。私たちは勉強を通して、それぞれの「考え方」を学んでいるのです。

 

 

 

【金】アドバイスの9割はその人が言いたいだけ

 

 おはようございます。最近はじめてmeijiのR−1を飲みました。「風邪をひかなくなる」だとか「インフルエンザ予防になる」だとか、いろいろと言われていますが、飲んでみて最初に思ったことは「おいしい」でした。R−1は、単純においしいです。基本的にはのむヨーグルトと同じなのですが、後味がとてもすっきりしていて、のどに膜が張るような感覚がありません。そして、何よりもサイズ感が絶妙です。多くもなく、少なくもない。これは免疫力どうのこうのとは違うところでリピーターになりそうです。どうも、インクです。

 

アドバイスの9割はその人が言いたいだけ

  アドバイスは恐ろしい。そう言い残してこの世を去った人を、これまでに何人も見てきました。「アドバイス」と聞くと、なんだか優しいイメージをもたれる方も多いと思います。相手のためを思った優しい声かけがアドバイス。人から人への思いやりの表れがアドバイス。きっとそう思われていることでしょう。

 

 だから恐ろしいのです。

 

  アドバイスの陰には、とてつもなく大きな「善意」が隠れています。いや、「善意」が前提として行われるのが「アドバイス」だと考えると、もはや隠れてすらいないのかもしれません。要するに、あらゆる「アドバイス」の出発点には「あなたのため」があるということです。

 これの何がおそろしいのかというと、「感謝されて当然」という関係性ができあがってしまうというところです。もちろん世の中には、とてもためになるアドバイスがたくさんあります。そんなアドバイスによって救われることもあるでしょう。しかし、世の中にはそれと同じくらいの数のクソみたいなアドバイスが存在します。時間を返してくれと、そう言いたくなるようなアドバイスもたくさんあることでしょう。

 しかし、そんなアドバイスでもありがたそうに、うんうんと頷きながら聞かなければなりません。なぜならアドバイス「自分のためを思ってわざわざ言ってくださっている」ことばだからです。どうですか。「アドバイス」のおそろしさが少しずつ分かってきていただけましたか。

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 まだしも、信用している相手からのアドバイスなら問題はないのかもしれません。「アドバイスしたい/されたい」の関係性が成立しているからです。もし、この関係性にないのであれば、そのアドバイスはもはやただの押し付けです。「善意」という名のもと行われる非常にタチの悪い押し付けです。

 ただの偏見ですが、そういう人に限って話が長かったりします。「あなたのため」だなんて言いながら、結局は自分が話したいだけなのです。うんうんと聞いてくれるのが嬉しくてたまらないのでしょう。相手を「善意」で押さえつけているという自覚がこれっぽっちもないのです。

 そして、そんなクソみたいなアドバイスを、本気にしてしまう真面目な人に時々出会うことがあります。いいですか。クソみたいなアドバイスはあなたにとってマイナスでしかありません。ただでさえあなたの貴重な時間が奪われているのです。その後にもずるずる引きずってしまうと、どれだけあなたの時間を無駄にすることになるのか分かったもんじゃありません。アドバイスなんて、所詮はその人が言いたいから言っているだけです。最低限、聞いているフリをしながら付き合ってあげて、解放された瞬間から、自分の時間を生きればいいのです。

 繰り返しになりますが、どうかクソみたいなアドバイスを真に受けて、時間という命を無駄にすることだけはやめてください。判断基準は「あなたのため」ということばです。「あなたのために言っているんだよ」と言ってくる人からはできるだけ距離をとりましょう。逆に「自分が話したいだけ」というスタンスを自覚している人の話には、耳を傾けてみてもいいかもしれません。

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  朝からクソクソと汚いことばを連呼して、クソすみませんでした。クソと言えばサンジの「クソお世話になりました」というセリフが有名ですね。「クソ」ということばはたしかに汚いことばなのかもしれませんが、結局はつかい方次第だというわけです。いい「クソ」と悪い「クソ」をつかい分けられるようになりたいものですね。それでは、週の最後の金曜日。最後までクソがんばりましょうクソ。

 

 

 

【木】子どもたちの作文を読んでいてやっぱりおもしろいのは正直な文章

 

 おはようございます。最近引用リツイートでコメントをくださる方が多くて、単純に嬉しく思っています。ありがとうございます。もちろんアクセス数を見れば、人が来てくださっていることは分かるのですが、やっぱりコメントをいただけると「ちゃんと読んでくれている人がいるんだなあ」と改めて実感が湧いてきます。

 「読みたいことを書けばいい」のもと更新していますので、決して誰かに向けて書いているつもりはないのですが、やはりコメントをいただけるのは嬉しいものです。コメントをいただくために書いているわけではないのですが、やはりコメントをいただけるのは嬉しいものです。コメントが1件もなくともきっと書き続けると思いますが、やはりコメントをいただけるのは嬉しいものです。しつこい人は嫌われてしまうので、このへんで止めておくことにします。ごめんなさい。どうも、インクです。

 

子どもたちの作文を読んでいてやっぱりおもしろいのは正直な文章

  子どものころ、作文が嫌いだった人はたくさんいるのではないでしょうか。何を書けばいいのか分からない。書きたいことが思いつかない。思いついても上手に書けない。せっかく書けたと思ったら赤ペンで訂正される。こんなものやってられるか!と思っても当然ですよね。

 学校の先生は、クラス全員分のそんな作文を読まなければなりません。子どもたちには申し訳ないけれど、読む側もまったくおもしろくありません。書きたいとも思っていないのに、無理やり書かされた文章です。思ってもいない、それらしいことがつらつらと書かれた文章です。子どもの書く力うんぬん以前に、おもしろいはずがないのです

 

1.正直な文章はおもしろい

 前述のとおり、子どもたちの文章がつまらないと、最終的に苦しむのは先生です。それが分かっているので、うちのクラスでは何としてでもおもしろい文章を書かせようと努めます。そのために声を大にして言っているのが「正直に書きなさい」ということです。よい子のフリをする必要はない。楽しくなかったのなら楽しくなかったと書きなさい。と、そう伝えています。

 朝会の校長先生の話が長いと思ったのなら「校長先生の話が長い」と書けばいいのです。先生のギャグがすべっているのなら「先生のギャグはすべっている」と書けばいいのです。作文を書きたくないのなら「作文を書きたくない」と書けばいいのです。このような負の感情からスタートすると、文章はみるみるうちにおもしろくなります。

 「校長先生の話はいつもためなるので、とてもありがたいです」という作文と「校長先生の話はいつも長いので、あくびがでそうになります」という作文とでは、どちらの方が読んでみたいと思いますか。もしかすると意見が分かれるところなのかもしれませんが、個人的には圧倒的に後者の作文を読んでみたいと思います。

 ここまでの話は、決して「否定的な内容で書くこと」を勧めているわけではありません。肯定的な内容であれ、否定的な内容であれ、「正直な文章」がおもしろいということです。まずは正直に書かせること。これがすべてのスタートです。 

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2.正直な文章から離れてしまう原因

 正直な文章から離れてしまう一番の原因は「楽しかった」ということばだと思っています。作文において「楽しかった」ということばは、究極の便利アイテムです。子どもたちは、なんでもかんでもとにかく「楽しかったです」と書いておけばいいと思っています。「嬉しかった」や「おもしろかった」も同類です。思考停止につながることばたちです。

 そんなことばをみつけると、学校の先生はよく「どう楽しかったの?もっと詳しく書きなさい」と言いいます。しかし、それは不可能です。詳しく書くことなんてできません。なぜなら子どもたちは、便利だという理由でこのことばをつかっているにすぎないからです。冷静に考えてみると「楽しい」って、あまりにも漠然としたことばだと思いませんか。これまで「楽しい」ということばに頼りきってしまっていたからこそ、自分の感情を表現することばのバリエーションを、子どもたちはもっていないのです。

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3.NGワード

 だからこそ、作文を書くときは「楽しい」「嬉しい」「おもしろい」ということばをNGワードに設定します。そもそもつかってはいけないとなると、自ずと他のことばをさがし始めるようになります。それは「心が踊るような思いをしました」かもしれませんし、「思わず飛び跳ねたくなりました」かもしれません。同じ気持ちを表した表現でも、ことばの選び方次第で伝わり方が大きく異なるのは、もうお分かりいただけたかと思います。詩歌を書かせるときにも、上の三つに加えて「きれい」や「冬」ということばをNGワードに追加すれば、さらにおもしろくなると思います。ぜひ試してみてください。

 と、まるで自分の考えであるかのように話しましたが、この「NGワード」を設けるやり方は、弊ブログに名前が度々登場する「ぬまっち」こと沼田晶弘先生が実践されているものです。はじめて沼田先生の著書を読んだときには、あまりにも納得できて、思わず笑ってしまいました。ツイッターのリンクに加えて、このページの最後に書籍のリンクも貼っておきますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

twitter.com

 

 

 本当なら子どもたちが書いた実際の作文を、そのままここに貼り付けたいのですが、個人情報の問題もあり、なかなかそういうわけにもいきません。4月に書いた作文と比べると随分とおもしろい文章が書けるようになったんですよ。おかげで、読んでるこちらも楽しく読むことができるようになりました。

 途中にも書きましたが、子どもたちの作文がおもしろくないと、結局最後に苦しむのは先生です。「子どものため」だなんて言わずに、まずは自分のために「おもしろい文章」を書かせる努力をしてみてもいいのかもしれません。

 

 

 

【水】読解力が低下するのは文章よりもおもしろいコンテンツが他にたくさんあるから

 

 おはようございます。うちの自治体では、授業で個人持ちの電子機器を利用することが禁止されています。もちろん、理由は個人情報の漏洩を防ぐためです。iPadがつかえたらもっとできることがたくさんあるのになと思いつつ、ルールだから仕方のないところでもあります。

 そんな中、グレーゾーンなのがApple Watchです。タイマーやボイスメモなど、授業でつかうと便利な機能はたくさんあると思うのですが、一応「個人持ちの電子機器」という仲間には分類されるでしょう。先輩の先生につけている方がいるので問題ないのかなとも思いますが、自分がつけていくことでそれを指摘され、先輩の先生までつけてこられなくなってしまうのは嫌だなとも思います。

 人に迷惑をかけるリスクをとってまでApple Watchをつけて出勤したいかというと、そういうわけでもないので、結局はチプカシを左腕に巻いて毎日出勤しています。チプカシだって頑丈でかっこいいんだぜ。どうも、インクです。

 

読解力が低下するのは文章よりもおもしろいコンテンツが他にたくさんあるから

  昨日、OECDから2018年に実施された国際学習到達度調査こと「PISA調査」の結果が公表され、話題になっていました。基本的に時事ネタは、賞味期限が短いのであまり扱いたくはないのですが、仮にも「小学校の先生」を名乗っていますので、この調査結果に関しては少しだけ私見を述べたいと思います。

 「そもそもPISA調査ってなんじゃい」という方もいらっしゃると思いますので、文科省のホームページのスクリーンショットをそのまま貼っておきますね。また、下のリンクからは問題例も見れますので、興味のある方はぜひご覧ください。逆に、興味のない方は絶対に見ないでください。絶対にですよ。

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www.nier.go.jp

 

1.調査結果 

  問題例を見ていただいた方ならお分かりいただけたかと思いますが、2018年に行われた「PISA調査」では、学習者の「リテラシー能力」を試す問題が多く出題されました。ふたつの情報を比べて共通点をみつけたり、原因と結果の関係性として正しいものを選んだり、根拠を資料から引用して記述したり、という問題です。

① 求められた情報を探す

② 信憑性を判断する

③ 活用する

  主な流れとしては上記の通りです。誰もが情報を発信できる時代になったからこそ、溢れる情報を適切に処理していく能力が必要だということでしょう。なんなら情報量が少ない世界で育ってきた大人の方が、変化に対応していくために身につけなければならない力のような気もしますけどね。

 まあそれはさておき、このような調査の結果が、昨日公表されたわけです。ニュースの見出しはもっぱら以下のようなものばかりでした。

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 読解力の低下。この話でもちきりでした。読解力に関しては、前々回の調査(2012年)が過去最高の4位、前回の調査(2015年)が8位、そして今回の調査(2018年)ではガクっと下がって15位というわけです。順位の急落に「おいおい、日本人の読解力やばいんじゃねえの」と焦っているわけです。

   ちなみに文科省の担当者は「今回のPISA調査で読解力がなぜ低下しているのか要因を特定するのは難しい」というコメントを残したそうです。まさにこれですね。さすが文科省の人間です。こういうところは心得ているようですね。迂闊なことを言えないのは分りますが「よく分かんない」と言われてもなあ...。

 

2.文章よりもおもしろいコンテンツ

 読解力が低下した原因の分析としては「パソコンで解答するというテストの形式に慣れていなかったから」だとか「読書習慣がついていなかったから」だとか、いろいろと言われているようですが、単純に「文章よりもおもしろいコンテンツが身の周りにたくさんあるから」だと思っています。

 タブレットを開けば、YouTubeでいつでも動画を観ることができます。TVerで見逃したテレビ番組を観ることもできますし、Amazon PrimeNETFLIXで過去の映画やアニメをいくらでも観ることができます。Kindleをつかえばわざわざ本屋に行かなくてもマンガを読むことができまし、Nintendo SwitchPLAYSTATIONのゲームは信じられないほどのクオリティに進化し続けています。

 そんな数多くの新しいコンテンツと比べて、「文章」というコンテンツが未だに勝っていると思いますか。高尚で立派なイメージにふん反り返って、「文章」がコンテンツとして優秀だと思い込んではいませんか。「文章」はコンテンツの中でも違う土俵にあるものだと思ってはいませんか。

 読解力が低下したのは、文章よりもおもしろいコンテンツが身の周りにたくさんあるから。単純にそれだけなのではないでしょうか。「読解力」が低下した一方で「ゲーム力」は上がっているのかもしれません。

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3.読書は手軽じゃない

 そもそも、この話を進めるためには「読解力」に価値があるということを前提としなければなりません。ただ、そこから始めていると長くなってしまうので、今回は「読解力は高いほどいい」ものとして話を進めていきたいと思います。

 先ほど述べたように、今の時代、おもしろいコンテンツがあまりにも多すぎます。それらのコンテンツに勝つことができなければ、「読書」に割り当てられる時間が残るはずがありません。

 今人気のあるコンテンツのほとんどに共通するのが「手軽さ」です。YouTubeの動画を観るのなんて、サムネイルをタップすればおしまいです。しかも無料です。そして、おもしろくなければ簡単に止めることができます。そう考えると「文章」というコンテンツは決して手軽だとは言えません。

 何せ時間がかかります。読書に慣れていない人からすると、1日に1冊読むのも、かなり苦労するでしょう。しかも、本は有料です。「お金を払って買ったのにおもしろくない」という可能性も十分にありえます。「最後まで読んだけどおもしろくなかった」なんて最悪のパターンです。その間にお金も時間も失っているわけですからね。もちろんおもしろくなければ途中で止めればいいのですが、それでもお金が返ってくることはありません。メルカリに出品するにしても一手間かかってしまいます。

 そんな両者を比べてみて、改めて考えていただきたいと思います。これだけ様々なコンテンツが溢れる時代に、「文章」というコンテンツに時間を割く理由があるのでしょうか。習慣として読書を知らない子どもたちに「読書」の価値を説明することができますか。

 

4.頑張らなければならないのは書き手

 今回の「読解力低下」という結果を受けて、本当に頑張らなければならないのは、学習者ではなく書き手です。今回の結果は、ある意味「文章」というコンテンツの敗北が知らされたようなものです。子どもたちの興味と時間は、とうの昔に他のコンテンツに奪われてしまっているのです。

 「本を読みなさい!」だなんて強引に取り戻そうとしても無駄です。結局、人の身体を動かすのは、心からの興味・関心です。この興味・関心を取り戻さなければ、きっとこのまま読解力は低下し続けることでしょう。

 だからこそ、本当に頑張らなければならないのは、文章の書き手なのです。思わず読みたくなるようなおもしろい文章を生み出さなければなりません。決して、今の書き手たちがつまらないと言っているわけではありません。素晴らしい文章は世の中にたくさんあります。だからこそ、頑張らなければならない人が、もうひとりいます。

 それは教師です。おもしろい文章と子どもたちを出会わせることができる数少ない大人です。書き手がおもしろい文章を生み出す。そして、教師がそれを子どもたちに伝える。どちらかだけが頑張ってもあまり意味がありません。本当に「読解力」を向上させたいのであれば、他のコンテンツにも勝るおもしろい文章を、子どもたちに届けることが重要になるのです。

 

 

 洋服の世界でも同じようなことが言えます。結局どれだけすてきな服をデザイナーが作り出そうとも、それがお客さんに届かなければなんの意味もありません。俗に言う「マーケティング」と呼ばれるものです。

 今の書き手の中に、読者に届くまでの動線をデザインすることができている人はほとんどいないと思います。よく弊ブログにも書いていますが、文章は読んでくれる人がいて始めて成立します。書いたらおしまい。放っておいたら勝手に誰かが読みにきてくれるというわけにはいかないのです。

 どうすれば読者のもとにこの文章が届くのか。どうすれば多くの人に読んでもらうことができるのか。そんな戦略的な視点を書き手が身に付けたら「文章」というコンテンツはよりおもしろくなるのかもしれません。

 

 

 

【火】迷惑をかけてはいけないのではなく、迷惑をかけてでもやりたいことなのかどうか

 

 おはようございます。学校から持ち帰ったたくさんの教材を、次の日にそのまま学校へ持って行く。そして、それをまた持ち帰り、次の日にまた持って行く。パンパンに詰まったリュックの中身は、きっと家で頑張ってやるだろうという自分への「過信」と、万が一必要になったときのためという「安心」です。そんな重い荷物を運ぶのは、筋力トレーニングのためでもあります。先生は日々、過信と安心を背負って、筋トレをしながら学校に通っているのです。どうも、インクです。

 

迷惑をかけてはいけないのではなく、迷惑をかけてでもやりたいことなのかどうか

 お待たせしました。いや、お待たせしすぎたのかもしれません。毎度お馴染み、大人気企画「学校でよく耳にすることばを疑ってみよう!」のコーナーです。ちなみに前回のテーマは「自分がやられて嫌なことは人にもしない」でした。まだ読んでいない方がいらっしゃいましたら、ぜひ読んでみてください。

taishiowawa.hatenablog.com

 それでは、早速ですが、本日のテーマに移りたいと思います。準備はよろしいですか?いきますよ?......本日のテーマはこちら!

 

「人に迷惑をかけてはいけません」

 

 まあ、よく聞くことばですよね。なんなら学校以外で耳にすることも多いかもしれません。逆に、自分が言ったことがあるという人もたくさんいるのではないでしょうか。今日はこのことば「人に迷惑をかけてはいけません」について疑っていこうと思います。 一緒になって考えていただけたら幸いです。

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1.人に迷惑をかけない人生

 そもそも「人に迷惑をかけない人生」ってどんな人生でしょうか。朝起きて、リモートワークで働いて、お腹が空いたらUber Eatsを頼んで、Amazon Primeで映画を観て、そして寝る。この人は誰にも迷惑をかけていないと言えるのかもしれません。

 「Uber Eatsの配達員を自分の都合で動かしているのだから、配達員に迷惑がかかっている」だなんて言い始めたらキリがないので、さすがにそこまで言うのはやめておきましょう。一応、配達員も報酬という対価をもらっているわけですから、「迷惑」と捉えるには少し無理がありますしね。

  仮にこんな生活が、一週間続き、一ヶ月続き、一年続き、ついには一生続いたとしましょう。果たしてこの人は幸せなのでしょうか。人と関わらず、変化もせず、ただ同じ「人に迷惑をかけない」日々を繰り返す。もちろん幸せの形は人によって違います。だから、もしかすると、このような生活を幸せだと感じる人もいるかもしれません。しかし、筆者からすれば、なんてつまらない人生なのだろうと思います。

 何も変えない。何にも変えられない。ありきたりな言い回しになってしまいますが、この人は一体なんのために生きているのでしょうか。何に向かって進んでいるのでしょうか。何が楽しいのでしょうか。果たして「人に迷惑をかけない人生」にどこまでの価値があるのでしょうか。

 

2.迷惑をかけてでもやりたい

  お分かりかとは思いますが、前述したような現代的なリモートワーカーはかなり極端な例です。実在する人の人生を辿るのであれば、本当の意味で、人に迷惑をかけずに生きることなんてできません。必ずどこかで、誰かには迷惑をかけることになるでしょう。それは親かもしれないし、先生かもしれないし、はたまた友だちかもしれません。

 そんな「迷惑をかける」という行為が、それほどダメなことなのでしょうか。学校で「人に迷惑をかけてはいけません」ということばがよく登場するのは、子どもが何か間違ったことをしてしまったときです。「自分だけが困るのなら好きにしたらいいけれど、人に迷惑がかかることはしたらダメでしょ!」と、こう言うわけです。本当にそうなのでしょうか。

 先ほど述べた通り、人が生きていくためには、必ずどこかで誰かに迷惑をかけなければなりません。迷惑をかけずに生きていくことなんて不可能です。だからこそ、子どもが何か間違ったことをしてしまったときに、かけることばは「迷惑をかけてはいけません」ではなく、「迷惑をかけてでもやりたかったことなの?」という問いかけなのではないでしょうか。 

 たとえば、みんなが真剣に作文を書いている途中に、隣の友だちにちょっかいをかけた子どもがいたとします。 きっと、集中力が切れて、少し構ってほしかったのでしょう。しかし、隣の友だちは真剣に書いているわけですから、その行為は「迷惑」です。そんなときに先生は「迷惑をかけてでもやりたかったことなの?」と問いかけます。この例に限らず、ほとんどの場合においてはNOという返事がかえってくるでしょう。

 「迷惑をかけてはいけません」だと、漠然としていて、よく分からないのです。「いけません」ということばは一方的な禁止ですから、言ってしまえば考える余地がありません。だから同じことを繰り返すのです。一方で「迷惑をかけてもやりたかったことなの?」と問えば、聞かれた側は考えます。自分の行動をふり返ります。その上で、判断するので、同じことを繰り返すことがなくなるのです。

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3.迷惑をかけても許される人 

 「迷惑をかけてでもやりたかったことなの?」という問いに対して、堂々とYESと答えられるのであれば、それはもう遠慮なく迷惑をかければいいと思います。本気で「野球選手になりたい」と努力している人に、多少の迷惑をかけられても、嫌な顔をする人なんていません。むしろ、そんな場での「迷惑」は「応援」に姿を変えていきます。

 ここで必要になるのが「信用」です。あの人は本当によくがんばっているから、迷惑をかけられても別になんとも思わないよ。と、こう思ってもらえる人であるかとうかです。これらの「信用」は、もちろん日頃の態度で形成されます。

 つまり、日頃から「迷惑をかけてでもやりたかったことではないこと」で迷惑をかけていると、いざ本気で何かをやりたいと思ったときに、誰にも協力してもらえなくなるのです。だからこそ、大人たちは、スモールステップを飛び越えて、「人に迷惑をかけてはいけません」と言うのです。大人は子どもに「迷惑をかけても許される信用のある人」になってほしいと思っているのです。「迷惑をかけてはいけません」ということばは、この思いをすっとばしてしまうから、少し気をつけなければならないことばだなと思いました。

 

 

 改めて本当にことばというものはおもしろいですね。特に「習慣」の中に紛れ込んで、誰もが何も考えずにつかっている「話しことば」は、疑ってみるといろんなものが出てきます。化石を発掘しているようです。もし「このことばもよく聞くけど、改めて考えてみるとおかしくね?」というようなことばがあれば、ぜひ教えてください。それでは、よい火曜日をお過ごしください。

 

 

 

【月】大人の約束は「また」「いつか」「いずれ」が多いから寂しい

 

 おはようございます。いつだって月曜日はやってきます。律儀なことに、時間通りにやってきます。数秒の誤差もありません。もしかすると、10分前にはやってきて待ち構えているのかもしれません。決まった時間になると突如姿を現します。たまには遅刻したってかまわないのに。どうも、インクです。

 

大人の約束は「また」「いつか」「いずれ」が多いから寂しい

  子どもたちと過ごしていると、「今日遊べる?」「遊べる!」「おっけい!じゃあ、〇〇公園な!」というような会話をよく耳にします。正直言って、うらやましい。学校から帰ったら、ランドセルを置いて(えらい子は宿題を済ませて)、自転車で公園に向かいます。公園に行くと、はじめから約束していたメンバー以外の友だちも遊んでいます。最終的にはみんな一緒になって、暗くなるまで走り回ります。なんてうらやましい。

 いつかからか、友だちと遊ぶときには財布を持つようになりました。今となっては財布を持たずに遊ぶことができなくなってしまいました。本来は彼らと同じように、お金なんかなくたって楽しく遊べたはずなのに。どうしてこうなってしまったのでしょう。

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1.今日遊べる?

 なかなか大人では難しいですよね。相手は忙しいんじゃないか。急に誘うのは失礼なんじゃないか。立場的に強要することになってしまうんじゃないか。こんなことを考えて、「今日遊べる?」は、よほど近い関係の人ではないと言いづらいことばだと思います。仮に言えたとしても、断られてしまうことが多いでしょう。どうやら大人の世界には「あぽいんとめんと」と呼ばれるものが存在するらいです。難しいですね。

 だからと言って、具体的な日付を決めようとすると、しつこいヤツだと思われてしまうかもしれません。しつこいなあ、本当は行きたくないのになあ。そう思われているかもしれません。だからこそ、誘うときはやんわりと誘うことになってしまいます。

またごはんにでも行きましょう!

いつかこうして集まれたらいいですね!

いずれタイミングが合えば遊びましょう!

  そして、これらの「また」「いつか」「いずれ」がやってくることはありません。これらのことばが意味するのは「さようなら」なのです。「I'ill be back」ということばを残して炎の中に消えていったシュワちゃんと同じです。ターミネーターですら消えていくのです。生身の人間である我々が生きて再会できるはずがありません。

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2.そこに行けば誰かがいる

 さらに、うらやましいのが「公園に行けば誰かがいる」という状況です。筆者も昔はよく、なんの約束もせずに公園に行ったものです。この公園にいなくても、あの公園に行けば誰かいるだろう、と公園をハシゴすることもよくありました。

 そのときは、それが当たり前だったのでなんとも思っていませんでしたが、大人になって振り返ってみると、なんてうらやましい状況なのだろうと思います。あそこに行けば誰かがいる。大人になった今、そんな場所の存在がとてもうらやましく思います。ある種、擬似的なソレがツイッターなのかもしれませんが、ツイッターはむしろ寂しさを助長するような気さえします。

 どこかのお店の常連にでもなれば、それが実現できるのかもしれませんが、なかなか勇気が出ません。行動しないと始まらない。そんなことは分かっているのだけれど、なかなか足が動かぬものです。

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 だいぶ暗くなってきました。そろそろ帰る時間ですね。現実の世界で「そこに行けば誰かがいる」という場所をつくろうと思えば、どうしても土地に縛られてしまいます。「気軽さ」が肝になるので、集まれる人は自ずと近くに住んでいる人に限定されてしまいます。

 そんな制限をなくすことができるのが、インターネットです。先ほど書いた通り、ツイッターではどうしても、人と人とが会っているというよりかは、同じ道をすれ違っているというような感覚になるので、もっと別のところでそんな場所をつくれないものかと考えています。そこに行けば誰かがいる。いつかそんな場所をつくりたいと思います。

 

それでは、くれぐれも門限には遅れないように気をつけてお帰りください。

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