ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【月】ここを逃すわけにはいかないので今日の記事をもって毎朝投稿はお休みします

 

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ここを逃すわけにはいかないので今日の記事をもって毎朝投稿は一旦お休みします

 

 おはようございます。毎朝投稿をはじめて、かれこれ1年以上が経過しました。はじめた理由は「なんとなく」です。なんとなくはじめたら、なんとなく「これなら続けられる」と思うようになりました。そしてなんとなく続けていたら、ここにたどり着きました。

 

 今では「インク」というアカウントにおける名刺がわりのようなものです。この名刺をもつことによって、一生出会うこともなかったであろう人たちと出会うことができました。ここで書いたことをおもしろがってくれる人たちがいなければ、もしかすると表現すること自体を諦めてしまっていたかもしれません。

 

 実を言うと、いま転職に向けて話を進めている企業さんと出会うきっかけも、このブログでした。きっかけというと大袈裟かもしれませんが、このブログがなければお話をする機会すらなかったのだろうなと思います。まさに「文字がここに連れてきた」です。

 

 そして、いよいよわかりやすい転換期がやってきました。それによって、転職をする4月までにやるべきことがあまりにもはっきりとしたのです。簡単に言えば「書くこと」よりも優先するべきものがみつかったということです。このまま書き続けようかとも思ったのですが、どうやらそんな余裕はなさそうです。

 

 だから本日をもって、毎朝投稿を休止しようと思います。長い間、本当にありがとうございました。文字が連れてきてくれたその先の世界を見にいくために、できることのすべてをやってみようと思います。改めて、本当にありがとうございました。

 

 どうも、インクでした。

 

【日】うまくいかないときは戻る。 これが意外と難しい。

 

 おはようございます。昔からマスクをつけることが苦手です。口と鼻の両方を覆われてしまうと、息苦しくてやってられません。しかも普段からメガネをかけているので、とにかく曇って仕方がないのです。

 そんなマスクが必需品として扱われる時代になってしまいました。どれだけ息苦しくても、小学校の先生が、つけないわけにはいきません。隙あらば鼻だけ出して、一生懸命に酸素を取り込んでいました。

 はじめは一時的なものだろうと思って何とかがんばって耐えていたのですが、どうやらマスクの時代が終わる気配を見せません。こうなれば、いかに「マシなマスク」をみつけるかという勝負になります。

 形から素材まで、いろいろと試しました。その結果、ようやく「マシなマスク」と出会うことができました。息苦しさもほどほどで、メガネも曇りづらい、そんなマスクです。「せっかくみつけたのに」だなんてことは言わないので、少しでも早くマスクを外せる世界になってほしいものです。どうも、インクです。

 

うまくいかないときは戻る。これが意外と難しい。

是非の初心忘るべからず。

時々の初心忘るべからず。

老後の初心忘るべからず。

 誰もが知っている「初心忘るべからず」は、世阿弥の『花鏡』に登場することばです。一般的には「はじめたころの志を忘れてはならない」という意味でつかわれることばですが、上の引用を見ていただければわかるとおり、3つのパートに分けられています。

 1つ目の「是非の初心忘るべからず」が、みなさんがよく知っている「はじめたころの志を忘れてはならない」という意味で用いられていることばです。

 2つ目の「時々の初心忘るべからず」は、また少し違って「年齢に合った挑戦をするということは、その段階における初心者だということなので、そのひとつひとつを忘れてはならない」という意味です。

 3つ目の「老後の初心忘るべからず」も同様に、前の2つとは少し違って「老後になってはじめてできることがあり、そこには必ず初心があるのだから、慢心してはならない」という意味で用いられています。

 要するに、人生には「初心」がいくつもあるというわけです。あまりこの例えは好みじゃないのですが、RPGでいうところのセーブポイントのようなものです。体力がすり減ったら、そこへ戻ってくるのです。

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 この「戻る」という行為が、意外と難しかったりします。やったらやった分だけ前に進んでいないと、不安になりますからね。言わば「戻る」ことで、自分の過去を否定しているかのように思えてしまうのです。

 教科学習でもまったく同じことが言えます。因数分解がわからなければ、式の展開に戻らなければなりません。式の展開がわからなければ、文字式のきまりに戻らなければなりません。後のことを考えると、無理に進もうとするよりも、戻った方がよいのです。

 頭ではよくわかっています。それでも、まわりの目が気になったり、自身のプライドが邪魔をしたりして、なかなか戻ることができません。こうしてうやむやにしたまま、前に進んでいるつもりになって、結局は大切なものを取りこぼしていくのです。

 その点で言えば、AIによる個別最適化学習は優秀ですよね。ひとりに1台のタブレットがあり、はじめから人によって違うことが前提にあるので、なんの抵抗もなく「戻る」という道に進むことができます。

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 学級経営においても、戻ることは大切です。いちどできるようになったことは、時間が経てばできなくなってしまうものです。そんなとき、学校の先生は子どもたちに向かってネチネチと嫌味を言いはじめます。

 「できたことができなくなるのは、サボっていることと同じです」とか「できないことに怒っているんじゃなくて、できるのにやらないことに先生は怒っているんです」とか。そりゃあ、できなくもなりますよ。

 学校での時間は「生活」ですからね。常に全力を注いでがんばりつづけられるわけではありません。そこには必ず波があって、上がり幅と下がり幅の差分が、集団としての成長を表しているのです。

 だからここでも同じです。できていたところまで、躊躇うことなく戻ります。当時はなぜできたのかを考え、そのときの感覚をもういちど思い出すわけです。

 このときに、学級目標に立ち返ることができたらベストです。ちゃんと機能しているのなら、これが可能なはずです。ところが、それっぽい曖昧な学級目標を立ててしまっていたら、立ち返るポイントにはなりません。だから結構大切なんですよ、学級目標って。

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 これらができるようになれば、今度は意図してセーブポイントをつくるようになりはじめます。世阿弥の言う「時々の初心」を意識化していくのです。

 そうしておけば、うまくいかないときに素早く戻ってくることができます。何度も言いますが、迷ったり躊躇ったりしている時間はもったいないですからね。

 うまくいかなかったらすぐに戻ること。ものごとを前に進めていくためには、実はとても大切なことなのです。あなたは、戻ることのできる明確なポイントをいくつもっていますか。また、いざというときには、躊躇わずにそこへ戻ることができますか。

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【今後の予定】

①12月16日(水)こきけんよう Vol.23

①12月18(金)スナックらいざ Vol.8

 

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【土】評価に指導を合わせようという節がある

 

 おはようございます。成績処理が生活を侵食する季節になりました。過去の記録やメモを引っ張り出して、ああでもないこうでもないと言いながら 「よくできる/できる/もう少し」を入力していきます。

 当然ですが「もう少し」だなんて成績をつけたくはありません。みんな本当に頑張っているんだもの。どうしてこんなに小さな子どもに「もう少し」だなんて酷いことを言わなければならないのでしょう。

 それでもやっぱり、わかりやすくできていないところがあると「もう少し」をつけざるをえなくなるわけです。それもまた「子どものため」なのだそうです。

 まったく違う子どもたちを、同じ基準で評価することに、どこまでの価値があるんでしょうね。この仕事だけは、毎学期のように本当に苦痛です。どうか間に受けないでね、子どもたち。どうも、インクです。

 

評価に指導を合わせようという節がある

 学校の先生は記述式の問題を嫌います。なぜなら、丸つけがめんどくさいからです。どこまでがAで、どこまでがBで、どこまでがCなのか。評価基準を明確にすることが、とても難しいのです。

 仮にラインを決めたとしても、すぐに例外が出てきますからね。「この回答はどうする?」を、クラス間で常に確認しなければならなくなってしまいます。

 要するに「子どもたちの学びになるか」よりも「評価がしやすいか」が優先されるというわけです。このような逆転現象は、本当によく見られます。

 たとえば、書く活動のほとんどは、これに当たるのではないでしょうか。書いたものが残っていれば、先生はあとから評価することができますからね。

 それに、成果物として書いたものが残っていれば、勉強した感を出すこともできます。だから「とりあえず書かせておこう」が横行するというわけです。

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 当然、よいことだとは言えません。しかし「時間がない」という状況がつづく限り、この逆転現象がなくなることもないのだろうなと思います。

 記述問題よりも、選択問題を。話すことよりも、書くことを。自分に合った学習よりも、みんなで合わせた学習を。「評価がとりやすいかどうか」という基準で、指導の内容が決められていくのです。

 ここ数年でよく耳にするようになったことばに「指導と評価の一体化」というものがあります。こまめに「形成的評価」をとることで、指導方法を改善し、その新しい指導方法の成果をもういちど評価するというやり方です。簡単に言えば、細かく評価をとって、指導方法もアップデートしていこうぜという話です。

 ずっと思っているのですが、どうして今さらになってこんなことが言われているのでしょうね。ものすごく当たり前のことのような気がしてなりません。

 子どもたちからのフィードバックを経て、授業を改善していくのは当然です。肌感でやってきたことを、明確なものにしようということなのでしょうか。

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 ちなみに、この「形成的評価」をものすごく得意としているのがAIです。即時に正誤判断を行い、その蓄積によって、適切な課題を選出します。

 被評価者において、この「即時性」はものすごく大切です。1週間前にやったテストを返されても、それはもはや自分とは切り離された存在です。

 まあ、だからこそ、こまめな「形成的評価」をとって、子どもたちに改善の余地を与えようということなのでしょう。そもそも評価って、改善のためにありますからね。学期末に「総括的評価」として成績表をわたされたって、子どもたちからすれば過去の産物であり、次に繋がるものではないわけです。

 ただし途中でも述べましたが、いまの学校でこまめな「形成的評価」をとり、子どもたちに還元していくには限界があります。先生がサボっているというわけではありません。単純に無理があるのです。

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 ひとりの先生に対して、子どもたちは30人いるわけですからね。ひとりひとり改善するポイントが違えば、改善方法も違います。個人によって枝分かれしていく学習を、大人ひとりで追えるわけがありません。

 だからこそ、白黒ハッキリしないグレーの中に落とし込み、全体を前に進めていくのです。何度も言いますが、先生が手を抜いているわけではありません。

 いまのシステムでは、この手段をとることしかできないのです。その上で評価をとらなければならないとなると、どうしても「評価がとりやすいもの」を指導することになってしまうというわけです。

 いまの学校がこんなにもややこしいことになっているのは「一斉指導」と「個別指導」がごちゃ混ぜになっているからです。「臨機応変につかい分けろ!」と言われているわけですが、そんな無茶な要望に学校の先生はよく対応していると思います。

 これからの学校はもっと小さくならなければなりません。学校がやるべきことは何なのかを明確にして、地域と分業していかなければならないのです。

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【金】考えているかどうかは「どんな質問をするか」に表れる

 

 おはようございます。洋服にガッツリとハマっていたころに、ぼんやりと「次はインテリアだろうな」と思っていました。洋服よりも長くつかうことが前提にあるため、選択がさらに難しくなるわけです。

 価格も高いですからね。「買ったはいいもののイマイチだな」を、そう簡単にはできなくなります。ただきっと、洋服でもそうだったように、ちゃんと探せばすてきな家具がたくさんみつかるものなのでしょう。

 いまの部屋に置いてある家具には、なんの思い入れもありません。予算優先で買いそろえたものばかりです。そもそも自分が家にいませんからね。インテリアなんてべつに何でもいいやと思ってしまっています。

 だからこそ、ハマるととことんハマるのでしょう。いちどでいいから、徹底的にこだわって部屋をつくってみたいものです。どうも、インクです。

 

考えているかどうかは「どんな質問をするか」に表れる

 日常的なコミュニケーションにおける「質問」は、知らないことを知るための手段ではなく、相手の内にあるものを引き出すための手段だと思っています。

 自分が聞くのではなく、相手に喋らせるのです。言い換えるなら、他者から「問われなければ出てこなかったであろうことば」を引き出すというわけです。その結果として「自分が聞く」が成立します。

 このような質問をしようと思ったら、当然ですが、相手の話をよく理解しなければなりません。その上で、その場の趣旨に合った問いを立てなければなりません。これがまあ、なかなかに難しいわけです。

 世の中には「してはいけない質問」や「するべきではない質問」が、わりとたくさんありますからね。しかも、それらの地雷は人によって違います。

 だからといって、わかりやすい安全地帯ばかりを攻めていてはおもしろくありません。とっくにほかの誰かによって踏み固められているでしょうからね。

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 ギリギリのところを攻めなければ、結局は過去にされた質問への回答をくり返すだけになってしまいます。餅屋に餅のことを聞いたって、詳しくてわかりやすい専門的な「情報」が返ってくるだけなのです。

 もちろん中には、そんな「情報」を得るためにする質問もありますよ。ただそれは、コミュニケーションというよりも、聞き取りであり情報収集です。質問者は「その人」ではなく「餅屋」に用事があるのです。

 では、どうすれば「その人」にギリギリの質問をぶつけることができるのかという話になるわけですが、やはりまずは相手に興味を抱かなければなりません。

 日本を代表する哲学者である西田幾多郎は「物を知るにはこれを愛さねばならず、物を愛すにはこれを知らねばならない」と述べています。演技をして、自分の感情に嘘をつけという意味ではありません。

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 心の底から「その人」に興味を抱かなければならないのです。存在そのものに敬意を表するわけです。結局はこれができた方がお互いにハッピーですからね。

 最近で言えば、キングコングの梶原雄太さんことカジサックさんが、この点に関しては本当にお上手です。ゲストを招いてトークをするような動画を観ていると、質問から相槌まで、本当に見事です。

 決しておだてられているわけでもないのに、相手はおそらく気持ちがいいと思うんですよね。それは単純に、敬意を前提として接してくれているからです。

 そして、それが正直な思いから生まれてくるものであるからです。ご自身でも「変わった」とおっしゃっていましたが、こんなに聞き上手だとは思っていなかったので、はじめて観たときは驚きました。そして、そりゃあ登録者も増えるよなと思いました。

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 ここまでで述べてきた「質問者としての能力」こそが「コミュニケーション能力」と呼ばれているものの正体なのではないかと思っています。

 存在そのものに敬意を表した上で、相手の内にあることばを引き出す能力です。相手の目線に立てば「優秀な鏡」と言うこともできるのかもしれません。

 知られざる自己を写す「優秀な鏡」です。質問に答えるという行為を通して、はじめて自分を知るのです。かの有名なソクラテスが行っていたとされる「問答法」にも近いものがあるのかもしれません。

 大人は子どもにとっての「優秀な鏡」であってやらねばならないのです。そう考えるとやはり「どんな質問をするのか」って、とても大切ですよね。

 回答のための前フリのような扱い方をされるわけですが、実は質問にこそ「その人が考えているのかどうか」がたっぷりと詰め込まれているのです。

 

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【木】新しいタネを蒔くことを止めてはいけない

 

 おはようございます。パソコンの iTunes には、中学生のころから集めてきた曲がたくさん詰まっています。とぎどき全曲シャッフルで再生することがあるのですが、まあ懐かしい曲が流れてくるわけです。

 The Pillows の「 advice 」が流れてきたり、さよならポニーテールの「無気力スイッチ」が流れてきたり。BURGER NUDS の「 ANALYZE 」が流れてきたり、THE BLUE HERB の「路上」が流れてきたり。

 ストリーミングなんて存在していない時代に、よくもこんなに多くの曲を集めたものです。当時は取り憑かれたかのように、音楽を聴いていましたからね。

 ツタヤやタワレコに足繁く通ったり、新曲の初公開に合わせてラジオのチューニングを合わせたり。当時のような熱量はもうありませんが、きっとこのころのストックが今に生きているのだと思います。

 こうして人は「時代遅れ」になっていくのでしょう。まあ「新しい曲=価値がある」というわけではありませんからね。ストックをリピートしながらも、必要があればいつでも掘り進められるようにだけはしておこうと思います。どうも、インクです。

 

新しいタネを蒔くことを止めてはいけない

 ものごとが軌道に乗りはじめると、人は「現状維持」を求めるようになります。そりゃそうですよね。調子がよいのなら、それを維持しようとして当然です。しかし、なかなか上手くはいきません。

 かの有名なウォルトディズニー爺さんも「現状維持では衰退するばかりである」と言っています。ゲーテ爺さんは「前進しない人は後退しているのだ」と言い、ナイチンゲール婆さんは「進歩しつづけない限りは後退していることになるのです」と言っています。

 世を去った偉大な爺さん婆さんたちが口を揃えて言っているということは、まあ、そういうことなのでしょう。現状維持は衰退。学校の先生でいうところの「学級経営」にも、まったく同じことが言えますね。

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 ちょうど今くらいの時期は、良くも悪くも4月からの蓄積が、わかりやすく表に出はじめる時期です。せっかくなので「良い例」で話を進めましょう。

 4月から蒔いてきたタネが芽を出し、子どもたちが効率よくものごとを進められるようになったり、先を見通して自ら動けるようになったりします。

 しかしそんな状態に満足して、担任が「現状維持」を望んでしまうと、クラスの雰囲気はわかりやすく低迷していきます。できることが増えたことで、できないことが目立ちはじめ、そこで摩擦が生じます。

 できている人ができていない人に強く言ってしまったり、そもそも言っている当人も、できているつもりになっているだけで実際はできていなかったり。

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 だからこそ、担任は新しいタネを蒔くことを止めてはなりません。不変箇所を意識しながらも、つねに可変箇所を確保しておく必要があるのです。

 不変箇所は子どもたちの安心感に、可変箇所は子どもたちの好奇心や向上心に繋がります。不変箇所ばかりでは、子どもたちが安心感に甘んじるようになります。反対に、可変箇所ばかりでは、子どもたちが紐の切れた凧のように飛んで行ってしまいます。

 このバランス感覚こそが「担任の力量」だというわけです。そして、これがまた難しいわけです。不変箇所にブレがあったり、可変箇所が合わなかったり。

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 今回はたまたま学級経営を例に挙げて話しましたが、たぶんこれ、あらゆるものごとに当てはまります。変わらなぎても変わりすぎてもダメなのです。

 このようなことを考えるときは、いつもテレビ番組のテロップをイメージします。大抵のテレビ番組は画面の隅に、不変箇所があるんですよね。番組のタイトルだったり、いまのお話のテーマだったり。

 そんな不変箇所があるからこそ、演者たちが堂々と可変箇所を担うことができるのです。視聴者にとっても同じです。不変箇所があるおかげで、安心して可変箇所を楽しむことができるというわけです。

 だからこそ、蒔いた種が芽を出して不変的な土台になったときに、また新たな可変箇所が必要になってきます。そのためにタネを蒔くことを止めてはならないのです。現状維持では後退するばかりです。

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