ツイートの3行目

ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。毎朝6時に更新します。

【日】おもしろい大人と子どもを繋げたい

 

 おはようございます。週末になると必ず映画館へ行くようになりました。これまでは、映画に対してあまりよい印象をもっていませんでした。大衆向けにつくられたものがほとんどで、興行収入ばかりを気にしている。家族づれや学生が多くて、落ち着いて観ることができない。誰かと一緒に観に行くもので、ひとりで観に行くものではない。そんな印象をもっていました。

 単純に、知らなかったのです。服が好きになったときにも同じことを思いました。ちゃんと調べればおもしろい世界が広がっています。ただ単純に、自分が知らなかっただけなのです。きっと服や映画のように、見逃してしまっているおもしろいものが世の中にはたくさんあるはずです。思い返せば、文学も音楽も漫画もお笑いも、同じように出会ってきました。食わず嫌いで損をしてしまわないように気をつけたいものです。次は何と出会えるのだろう。どうも、インクです。

 

おもしろい大人と子どもを繋げたい

  小学校の先生をしていますが、自分が先生に向いているだなんて一度たりとも思ったことはありません。先生になって初めて向いていないことに気がついたわけではなく、はじめから向いていないことがわかった上で先生になりました。よく若手の先生が「自分は先生に向いていない」と嘆いていますが、向いているとか向いていないとか、もはやどうだっていいと思っています。むしろ、向いていない人間が混ざっていなければ、業界として本当に終わってしまうのではないかとさえ思います。

 このブログを読んでいただいている方ならよくご存知かと思いますが、筆者は子どものころから学校が嫌いでした。クラスと呼ばれる集団が嫌いでした。先生と呼ばれる大人が嫌いでした。だから先生になりました。お世話になった先生のように自分もなりたいと思ったわけではありません。子どもが好きだったわけでもありません。

taishiowawa.hatenablog.com

 そんなもやもやとした子どものころに、文学と出会い、音楽と出会い、漫画と出会い、お笑いと出会いました。これらに出会ったことで得られたもっとも大きな価値は「この世界にはおもしろい大人がいる」という確信でした。はるか遠くかもしれないけれど、確実におもしろい大人はいる。そう思えたのです。当時は、それだけが未来への希望だったかもしれません。

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 子どもたちが明るい未来を見据えるためには、未来を生きている大人たちが楽しそうにしていなければなりません。つまらなさそうな大人の姿を見て、未来に希望をもてるはずがないのです。子どもたちは、以下のような大人のセリフを聞いて育つことによって、未来への希望を失っていきます。

 

 ① はあ、今日も疲れた

 ② あなたのために働いてくれている

 

 ① は家で親から聞くセリフ、② は学校で先生から聞くセリフです。親から「はあ、今日も疲れた」というセリフを聞くせいで「大人は大変なんだ」というイメージが定着します。先生から「あなたのために働いてくれている」というセリフを聞くせいで「仕事は嫌々するものなんだ」というイメージが定着します。こうして「大人になりたくない子ども」が生まれます。

 筆者は、なんとか遠くに「おもしろい大人」の存在を確認することができたからこそ、ギリギリ前を向いてここまで来ることができました。しかし、そんな大人に出会うことができなければ、子どもたちはどうなってしまうのでしょうか。

 だから先生になりました。自分が「おもしろい大人」として子どもたちの前に立つことができれば、あのときに出会った作家やミュージシャンや漫画家や芸人になれるかもしれません。本当に教育を変えたければ大人がひたすらおもしろそうに生きるしかないのです。しかし、そう簡単に「おもしろい大人」になることはできません。そのために試行錯誤しているわけです。ここで2020年の抱負に繋がります。

 自分が「おもしろい大人」になるためには「おもしろい大人」を知らなければなりません。これまでは子どもだったので、遠くにいる「おもしろい大人」を望遠鏡で覗くことしかできませんでした。しかし、今ならそんな大人たちに会いに行くことができます。そんな大人たちとの出会いを通して、自分自身もおもしろくなれるような気がするのです。

 それともうひとつ。学校の先生になってみて、自分ひとりでできることの小ささを実感しました。どれだけ自分が「おもしろい大人」になろうとも、その姿を見せられるのは1年でたったの30人です。一生かけて働き続けても1000人程度にしかなりません。もちろん目の前の30人を力の限り大切にしたいとは思いますが、世の中にはもっとたくさんのこどもたちがいます。そんな子どもたちにも「おもしろい大人」の存在に気づいてほしい。大人になることを楽しみにしてほしい。そう思うようになりました。

 やりたいことは何かと聞かれたら、「おもしろい大人と子どもを繋げたい」と答えます。そのためには、大人の協力が必要です。だからこうしてブログを書いています。まずは大人がおもしろく生きること。そしてそんな姿を子どもたちに見せつけること。なにも具体的ではありませんが、そんな世界をつくっていきます。「我こそはおもしろい大人だぞ」という方はぜひご協力のほどよろしくお願いします。

taishiowawa.hatenablog.com

 

 

 と、こんなことを言っていますが、最優先事項は自分自身がおもしろく生きることです。自分がおもしろく生きていないのに「おもしろい大人」が協力してくれるはずがありません。自分がおもしろく生きていないのに、子どもたちに「おもしろい大人」を見せつけることができるはずがありません。まずは自分、次に大人、そして子どもの順番です。すまんな子どもたち。君たちは最後だ!

 

 

【土】潜って拾ってまた浮かぶ

 

 おはようございます。安い毛布を買ってしまったので、毛が抜けて仕方がありません。黒いTシャツを着て寝ようものなら、起きたときには一面に模様がついています。寝具選びは大切だという話はよく耳にしますが、毛布一枚といえども侮ってはいけないのかもしれません。ただ、冬にしかつかわない毛布に、はたしてどれだけのお金をかけることができるのか。かなり難しい判断ですよね。マフラーや手袋にも同じことが言えると思います。みなさんは冬にしかつかわないアイテムに何かこだわりをもっていますか。どうも、インクです。

 

潜って拾ってまた浮かぶ

 

 桜桃が出た。

 私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったらよろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。

 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で去勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。

 

太宰治(1989)『人間失格・桜桃』角川書店

 

  全部ぶっ壊して書く。こうして書き上げられた作品はたくさんの人々を魅了してきました。その要因はたくさんあると思いますが、ひとつ挙げるとしたら「人々が容易に踏み入ることのできない深みに潜り込んでいたから」だと思っています。至極かんたんなことばで言うのなら「希少価値」です。多くの人が恐れて近づかない場所に自らずかずかと踏み込んで、そんな世界のようすを「文章」という形で大衆に広めました。

 深く潜ると、陸にいる人たちからはその姿が見えなくなります。私生活はまさに「作者、目下の生活に厭な雲あり」だったのでしょう。ただし、そんな深みから浅瀬に届けられる作品にはたくさんのファンがつきました。

 

小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。

 

 そんな太宰は、よく知られているとおり、1948年に自ら命を絶っています。玉川上水から遺体が引き上げられたのは 、太宰の誕生日である6月19日。今では、はじめに引用した作品にちなんで「桜桃忌」と呼ばれています。

 体調不良が原因だとか、ダウン症の息子が原因だとか、憶測がいろいろと飛び交っていますが、生きている人間が想像する自殺の理由なんてどうせどれも間違っています。むしろ、それを本当に理解できる人間がいたのなら、きっとその人は自殺なんてしていません。だからこそ、1998年に公開された太宰の遺書にもこのように書かれています。

 

小説を書くのがいやになったから死ぬのです

 

  これはきっと本当です。本当でありながら、嘘が混ざっています。その嘘は「諦め」と呼んでもいいのかもしれません。「どうせ理解してもらえない」と思っていたのでしょう。不貞腐れているわけではありません。ただの真実です。深みに潜り続けた結果、太宰のまわりにはもう誰も人がいませんでした。それと同時に、まわりの人からも、もう太宰の姿が見えていなかったのです。「生きている人間が想像する自殺の理由なんてどうせどれも間違っている」とはこういうことです。上から覗き込む水中は光の反射で歪んで見えます。深くなればもう上からは見えません。だから太宰は死んだのです。

 

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  かの有名なロックバンド、ニルヴァーナカート・コバーンもきっと太宰と同じです。フジファブリック志村正彦も同じなのではないでしょうか。誰にも見えない深いところへ潜り込んだまま帰ってこなかった人たちです。

 フィクションにはなりますが、小学6年生が国語で学習する立松和平の『海の命』に登場する「太一のおとう」も同様です。海の深くに棲む「瀬の主」に立ち向かい、帰らぬ人となりました。

 

 一方で『ライ麦畑でつかまえて』の著者であるJ.D.サリンジャーは、これがわかっていたのか、1967年の『ハプワースト16、1924年』という作品を最後に、パタリと発表をやめています。

 また、かの有名なデザイナー、マルタン・マルジェラも、2008年のコレクションを最後に自身のブランドとの関わりを絶っています。

 荒川弘の漫画『鋼の錬金術師』におけるエルリック兄弟も同じです。「真理」に限りなく近づき、代償を差し出しながら「ただの人間」として現実世界へと戻ります。

 先ほども取り上げた『海の命』でいうところの「太一」です。「瀬の主」に出会うものの、立ち向かうことなく地上へと戻るのです。

 

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 どちらの生き方が正しいのかはわかりません。生きている限り「命は大切だよ」と教えられますが、太宰やカートや志村の死が悪いものなのかというと、そうは言い切れないような気もします。少なからず、彼らが遺した作品が今でも多くの人々を魅了し続けているのことは事実です。そういう意味ではやはり「死」には魅力があるのだろうなと思います。「死」に近い危うい人っておもしろいですからね。

 

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