ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】行事は停滞を防ぐためにある

 

 おはようございます。マラソンを終えてから、まったく走らなくなってしまいました。走りたいという思いはあるのですが、目標がなくなってしまったこととと、この寒さにやられて、なかなか動き出せずにいます。年末年始はたくさん食べることになると思うので、体型維持のためにも走らないといけませんね。終業式を無事乗り越えることができたら、再び走り始めようと思います。みなさんが証人です。「結局走ってねえだろコイツ」と思ったらご指摘ください。よろしくお願いします。どうも、インクです。

 

行事は停滞を防ぐためにある

 「停まれど気づかば衰退し」ということばをご存知ですか。自然主義を代表する明治の詩人、浅野尚成が残したことばです。浅野は幼年、明治維新を経て大きく変化する日本で育ちました。ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。街ゆく人の見た目や風景だけでなく、価値観そのものが天変地異を起こす。そんな時代でした。

 ところが、浅野の中年期は華やかなものではありませんでした。世はまさに嵐が去ったあとの静けさです。ざんぎり頭はもう何も珍しくはありません。文明開化の音も聴こえてくることはありません。そこにあるのは「停滞」です。大きな変化の中で生まれ育ったからこそ、少しの変化では何も感じなくなってしまっていたのです。

 それでも、町の人々は幸せそうに暮らしていました。変化の少ない平穏な日々。浅野の母も口癖のように「こんな日々がずっと続けばいいのに」と言っていたようです。しかし、浅野は違いました。停まっているように見える、そんな人々の生活が、少しずつ少しずつ衰退していることに気がついていたのです。そしてそれと同時に、そんな生活に腰を据えてのんびりしている人々に危機感を抱いたのでした。

 ここから生まれたのが、はじめに紹介したことば「停まれど気づかば衰退し」です。当時の人々には、なかなか理解してもらえなかったのでしょう。きっと孤独だったのだろうなと思います。やはり孤独から生まれることばはおもしろいものが多いですね。

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  いかがでしょう。ここまでの話はぜんぶウソです。明からさまでもつまらない。しかし、分かりづらすぎてもそれはそれでつまらない。読み手に気付かれるか気付かれないかのギリギリを攻めるという書き手のほんの遊び心でした。

 気になった方はぜひ調べてみてください。どこぞのフォトコンテストの入賞者が出てくるはずです。ごめんなさい、浅野尚成さん。優秀賞を受賞された滝の写真、とてもすてきでした。

 

 

  今日の本題は「学校行事」についてです。働き方改革に伴い、行事のあり方について議論される機会が多くなっています。よく主張されている意見はざっくり分けると以下のふたつです。

  1. 子どもたちの成長のためにも行事は必要だ
  2. 時数を確保するためにも行事は不必要だ

  最近の流れとしては、2番の方を耳にすることが多いのかもしれません。時数の確保だけでなく、「先生の負担が大きすぎる」だとか「子どもではなく大人のために行われてしまっている」だとか、様々な意見が飛び交っています。実際に行事がどんどんと縮小されている学校も多いのではないでしょうか。

 その一方で、筆者は行事がわりと必要なのではないかと思っています。行事の目的は、一時の混沌です。謝肉祭です。カーニバルです。非日常体験です。子どもたちの成長は、あとから付随するものであって、本来の目的ではありません。ウォルト・ディズニーも言っています。

現状維持では、後退するばかりである

 そんな維持された現状を一時的に破壊するのが「行事」なのです。スクラップ&ビルドのスクラップですね。この破壊があるからこそ、日常はこの先にも続いていくのです。なんだか矛盾したことを言っているように聞こえるかもしれませんが、我々は生まれたときから、行事とともに生活を送っています。

 お正月にはおせちを食べて、節分には豆をまき、お盆になるとお墓参りをし、ハロウィンになると仮装をします。クリスマスにはサンタさんがやってきて、そしてまた次のお正月がやってきます。ぜんぶ違うことをしているように見えて、目的は同じです。一時の混沌をもたらして停滞を破壊することです。

 スポーツだって同じです。ワールドカップやオリンピック、WBCなんかもすべて停滞を破壊することが目的ですです。教育業界も同じです。先日結果が発表されて、話題になった「PISA調査」なんてまさにです。順位なんてなんだってかまいません。停滞が破壊されれば、その時点で目的は達成されているのです。

 仕事で言えば昇進。お給料で言えばボーナス。恋愛で言えば告白。家族で言えば出産。すべてが停滞の破壊です。人に寿命があることも、もしかするとそういう理由なのかもしれません。

 ちなみに、世のおもしろい人たちは、この「停滞の破壊」を自ら進んで行っています。会ったこともない人に自ら会いにいって破壊する人。行ったこともない土地に赴いて破壊する人。やったこともないことに果敢に挑戦して破壊する人。この人たちはきっと、意識しているかどうかは別にして、停滞することの恐ろしさを知っているのだと思います。

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  話を「学校行事」に戻しましょう。要するに、学校行事もこの役割を担っているということです。成功するとか失敗するとか、子どものためとか大人のためとか、そんなことはどうだってかまいません。停滞が崩れればそれでいいのです。

 しかし、この「行事」がなくなってしまうと、学校生活は間違いなく「停滞」します。先ほどのディズニーのことばにもあったように、停滞は後退です。きっとどこかでほころびが生まれ、ものごとが悪い方向へと進み始めます。

 それを防ぐためには、変化が必要なわけですが、担任の先生が変化を生み出し続けるのはなかなかに大変です。もちろん意図的に変化を生み出すことは大切ですし、教師にとって必要な力であると言えるでしょう。ただ、学校行事の埋め合わせまで担わないといけないとなると、それこそ業務が大変なことになるでしょう。目先のラクに食いついて決断してしまうと、後々痛い目を見るような気がしてなりません。

 考えるのであれば、行事の中身の改善です。行事そのものを完全にやめてしまうべきではありません。子どもも大人も関係なく、日常を保つためには、それを破壊する混沌が必要なのです。どうせ破壊するのならおもしろく、それこそ「子供の成長」というおこぼれまでもらえる、そんなやり方で破壊していけたらいいのではないでしょうか。

 

  

 このブログを始めたきっかけも、停滞を破壊したかったからでした。しかし、毎日更新を始めるようになって、そろそろ日常の中に組み込まれるようになってきました。だからこそ、先日もツイートしましたが、2020年の抱負は「人に会う」にしようと思います。遠慮なくずかずかと会いに行こうと思いますので、ウェルカムな人はぜひともよろしくお願いします。それではお正月に向かって、堅実に停滞した日常を歩みましょう。