ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【水】悪気のない正義のヒーローが一番厄介

 

 おはようございます。電車に乗っていると、ついついいろいろな人の靴を見てしまいます。決して、靴で人を見定めようとしているわけではありませんよ。単純に種類がたくさんあっておもしろいのです。

 かつては「靴といえば ABC マート」だと思っていました。むしろ ABC マート以外のどこで靴を買えばよいのかがよくわかりませんでした。しかし、電車に乗っている人たちの足元を見ると ABC マートには絶対に並んでいないような靴を履いています。

 この人たちは一体、どこで靴を買っているのだろう。ずっとそんなことを思っていました。今でこそ洋服が好きになったので、その流れで靴にも多少は詳しくなりましたが、多くの人がどこで靴を買っているのかは未だによくわかっていません。

 靴選びって結構むずかしいんですよね。デザインは好みなのに、サイズがなかったり。色はいいのに、履き心地が悪かったり。迷っているうちに、いま履いている靴の限界が近づいてきてしまったり。

 みなさんは一体何を基準に靴を決めて、どこでお買い物をしているのでしょうか。問いかけておきながら何ですが、そこまで興味はないので、靴に関するコメントはご遠慮ください。どうも、インクです。

 

悪気のない正義のヒーローが一番厄介

 心の中で3回唱え、ヒーロー見参!ヒーロー見参!ヒーロー見参!そうすりゃオイラがやって来る!

 なんてことを言いながら、彼はいつもぼくを助けてくれました。ガキ大将がいじわるをしてきたときも、大きな犬に追いかけられたときも、算数の問題がわからなかったときも、彼はいつだってヒーローでした。

 そんな彼に助けられてばかりだったぼくも、もう随分と大きくなりました。今では大抵のものごとを話し合いで解決できるし、大型犬を優しく撫でてやることだってできます。数学は未だにちょっぴり苦手ですが、まあ、一生懸命がんばっています。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain

 心の中で3回唱え、ヒーロー見参!ヒーロー見参!ヒーロー見参!そうすりゃオイラがやって来る!

 また彼の声が聞こえてきます。僕が話し合いで解決しようとしていると、彼は恐怖で相手を追い払います。ぼくの方から撫でてやろうと近づいたのに、大きな音を立てて犬を怯えさせます。もう少しで解けそうだった数学の問題も、すべて解説してしまいました。そうです。彼は未だにヒーローなのです。

 去り際にはいつもこう言います。「困ったことがあったらいつでも呼べよな!」と。そして、満足そうな顔をしながら、彼はゆっくと帰っていくのです。

f:id:taishiowawa:20201208220354p:plain

 この文章を読んでくださっている方々は、もうわかってくださっていることでしょう。今のぼくは、べつに困ってもいないし、彼を呼んでもいません。

 しかし、彼には恩があります。困っていたころのぼくを助けてくれたことは、紛れもない事実です。彼には本当に感謝しています。だからこそ、彼の善意を無碍にはしたくありません。だって、ぼくを助ける彼は、あんなに生き生きとしているんだもの。

 だからぼくは彼に一生懸命「ありがとう」を伝えます。本当はもう弱虫なんかじゃないけれど。本当はもう自分で何とかできるけれど。彼の笑顔を守るためにも、精一杯に感謝をします。本当にありがとう。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain

 でもぼくは最近になって、彼のことを「嫌だな」と思ってしまいました。何度も言いますが、彼には本当に感謝しています。彼のことは本当に大好きです。

 それなのに、はっきりと「嫌だな」と思ってしまったのです。そんなふうに思ってしまった自分が、本当に嫌になりました。だって彼は、ぼくのために、ぼくを守るために、がんばってくれているんだもの。

 でもやっぱり嫌でした。彼の声が聞こえるたびに「またか」と思ってしまいます。そして「またか」と思ってしまうたびに、自分のことが嫌になるのです。

 心の中で3回唱え、ヒーロー見参!ヒーロー見参!ヒーロー見参!助けて、新しいヒーロー!

 

【今後の予定】

①12月9日(水)こきけんよう Vol.22

①12月18(金)スナックらいざ Vol.8

 

【ホームに戻る】

 

 

【火】ひとつ前の時代を生きてきた親が子を育てればそりゃあひとつずつズレていく

 

 おはようございます。かつて、国語の授業で「プロデューサー読み」という実践をしたことがあります。班ごとに割り当てられたプロデューサーが、音読の演出をすべて担います。プロデューサーが「ここは小さな声で読んで」と指示を出せば、ほかの子どもはその通りに従わなければなりません。口出しは禁止です。

 ほかの人たちをつかいながら、自分が思う作品世界を演出していくというわけです。3年生の教科書に載っている金子みすゞさんの『わたしと小鳥とすずと』で実践したときは、特におもしろかったです。

 大抵の班は、連ごとに分けて読んだり、声を出す人数を変えたりという工夫をしていたのですが、ひとつだけ変わった読み方をしている班がありました。

 はじめからおわりまで全員が声を出しているのですが、まったくのバラバラなのです。最初はただ下手くそなのかと思いました。ただ、ずっと聞いていると、どうやらわざとズラして読んでいるらしいのです。

 その意図をプロデューサーに聞いてみると、思わぬ答えが返ってきました。「この詩はわたしと小鳥とすずの違いを表しているから、僕たちも違いがわかるようにあえてズラして読んだ」とのことだったのです。

 アッパレですよね。このような想定外の回答を聞けることこそが、学校の先生という仕事のおもしろさだなと思いました。どうも、インクです。

 

ひとつ前の時代を生きてきた親が子を育てればそりゃあひとつずつズレていく

 多かれ少なかれ「誰もが受けてきた」という点において「教育」はとてもおもしろい分野だなと思います。親でなかろうと、学校の先生でなかろうと、専門家でなかろうと、誰だって自分の経験をもとにすれば「教育」について語ることができますからね。

 ただし裏返して見れば、それが「教育」という分野の危うさでもあります。誰もがわりとハッキリとした経験をもっているせいで、それらを基準にしてものごとを捉えようとしてしまうのです。

 さらに厄介なのが、多くの大人は「いま元気に生きている」という事実から、過去に自分が受けてきた教育を「よかったもの」として認識しようとします。そうでなければ、過去の自分を形成したものは一体何だったんだという話になってしまいますからね。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain

 このように、美化された「過去の教育観」をもって子育てをしているのが「親」という生き物です。決して批判しているわけではありませんよ。よいわるいではなく、これはただの事実なのです。

 親は、自分が受けてきた教育をもとに、子育てをするしかありません。しかも、自分自身がそれなりにやってこられたのなら、踏襲こそが安牌です。

 そして、そんな子育て観をさらに加速させるのが「ママ友」の存在です。いまの時代に「ママ友」だなんて言ったら怒られるのかもしれませんね。子どもを介して繋がる「保護者のネットワーク」です。

 「どうやらあそこの家の子は塾に通いはじめたらしい」とか「どうやらあそこの家ではドリルをやらせているらしい」とか。「うち」と「よそ」を比較しながら、遅れをとらないようにと親が必死になるのです。

f:id:taishiowawa:20201208022329p:plain

 そんなこともつゆ知らず、子どもたちは今という時代の最先端を生きています。親が子どものころにはなかったものを、見て、聞いて、触っています。

 ここのギャップにこそ、親の不安が生じます。単純に、子どもたちの生きている世界のことが、よくわからないのです。だからこそ、自分がわかる世界へと子どもを引っ張ってこようとします。塾はよく知っています。スイミングスクールも知っています。

 よく知らないものの中でも、どうやら英会話やプログラミングはこれから必要になるらしいです。これらを習わせておけば「未来のことを見通した子育てをしている親」になることができるかもしれません。

 「子どものため」を装いながら、結局は自分自身の不安を取り除きたいのです。自分の過去とは違うから不安で。「よそ」とは違うから不安で。そんな大きな不安の中で、子育ては進んでいくのです。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain
 何度も言いますが、世の中の親たちを批判しているわけではありません。むしろ、尊敬しています。本当にすごいですよ。ひとりの子どもを育てるって。

 ただ、だからこそ、子どもたちが生きている世界のことを、もっと知ってほしいなと思うのです。親が生きてきた世界とはまるっきり違っています。ことばも遊びも人間関係も、なにもかもが違うのです。

 知りもしないのに否定してしまってはなりません。善悪を判断するのも、ちゃんと知ってからにしましょう。過去の教育観との繋がりをみつけるためにも、まずは知らなければならないのです。

 今の価値観から引き剥がして過去の教育観に当てはめるのではなく、今の価値観と過去の教育観のハイブリッドを目指す必要があるのではないでしょうか。

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

【今後の予定】

①12月9日(水)こきけんよう Vol.22

①12月18(金)スナックらいざ Vol.8

 

【ホームに戻る】

 

 

【月】余剰時間をとりにいきたい

 

 おはようございます。本を読むスピードはわりとゆっくりです。文学的文章と説明的文章を合わせて、3冊くらいを同時並行して読むので、なんだかんだで1ヶ月近く読み続けているような本もあります。

 そんな中でも、昨日は珍しく夕方から2冊ほど、一気に読んでしまいました。「探求学舎」で有名な宝槻泰伸さんの本です。昨年、情熱大陸に出演されていたので、そこで知ったという方も多いかもしれません。

 筆者自身も「探求学舎」の存在は前々から知っていたのですが、ひょんなきっかけで今さらながら本を手に取ることになりました。読み終わったときに、まず思ったのは「やりたいと思っていたことを、すでにやっている人がいる」ということでした。

 それが何だか、嬉しくもあり悔しくもあり。教育関連の本を読んで、久しぶりによかったと思えた気がします。ほかにも著書は何冊かあるようなので、また読んでみようと思います。どうも、インクです。

 

余剰時間をとりにいきたい

 学校現場で過ごすうちに、もっともよろしくないと思うようになったのは「子どもたちを長く拘束するにも関わらず、評価してやれるポイントが限りなく少ない」というところでした。「それぞれによいところがある」だなんて言いながら、結局は「勉強」か「運動」しか、評価してやることができないのです。

 これがもし「学校では勉強と運動だけを評価します」と公言しているのなら、何も問題はないでしょう。ほかの部分は、学校以外が担っていけばよいわけですからね。棲み分けがはっきりします。

 しかし、現実はそういうわけにもいきません。学校は「勉強」と「運動」以外の部分も、カバーしようとしています。ついには「学びに向かう力・人間性等」だなんてことを言いはじめた次第です。

 とてもじゃないけど、学校はこれ以上のものを担うことはできません。ただでさえ、やれ外国語だの、やれプログラミング教育だの、やれキャリアパスポートだのと、やることはてんこ盛りにされているのです。

 いま以上に、評価するポイントを増やされてはたまったものではありません。だからこそ学校は、潔く諦めて、手放すものは手放していかなければならないと思うのです。もっと小さくなるしかありません。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain

 ただし、仮に手放すことができたとしても、次の問題が待ち受けています。それは「学校が手放したものを、地域が受け取め切れない」という問題です。

 そりゃそうです。これまでは、学校がやってくれていたのです。学校が「あれもこれもやりますよ」と言ってきたせいで、地域は「どうせ学校がやってくれるんでしょ」と思ってしまっているのです。

 実はこれ、なかなかにピンチです。なぜなら、学校が本当に小さくなる可能性が、目の前に迫ってきているからです。そうです。GIGA スクール構想です。

 AI 学習が本格的に導入されて、学習効率化が進めば、学校は本当に小さくなれるかもしれません。そんな未来がもう目の前に迫ってきているのです。

 ここでキーワードになるのが「余剰時間」です。学習が効率化されれば、必然的にその分の時間が浮いてきます。この「余剰時間」のつかい方こそが、これからの教育を決めるような気がしているのです。

f:id:taishiowawa:20201206215924p:plain
 ここからは完全に個人的な意見ですが、この「余剰時間」を、学校に委ねてはいけないと思うのです。学校がこの時間を囲んでしまうと、結局はおなじことをくり返す羽目になってしまいます。

 少なくともはじめのうちは、地域が担うか、もしくは地域が学校に参入していかなければならないと思うわけです。これはべつに、学校に「余剰時間」を任せられる実力がないと言っているわけではありません。

 実力云々に関係なく、単純に学校がこれ以上にパイを取ってはいけないような気がするのです。せっかくの小さくなるチャンスです。勇気をもって、手放すものは手放していかなければなりません。

 そんなことを考えながら小学校の先生をしている筆者は、ふたつの選択に迫らることになります。ひとつは、このまま教員をつづけて、内部から手放していく活動を促進すること。そしてもうひとつは、外部からこの「余剰時間」をとりにいくことです。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain

 おわかりのとおり、筆者はふたつ目の道に進むことに決めました。もしかすると学校は手放すことを拒むかもしれませんが、それと同時に、必然的に生じる「余剰時間」の扱い方に困るだろうとも思うのです。

 このタイミングこそが、学校から「余剰時間」を奪い取る数少ないチャンスです。「奪い取る」と言うと聞こえは悪いかもしれませんが、それが学校のためにもなるはずだと信じています。

 この計画を実行させようと思ったら、急ピッチで、受け取り手である「地域」の準備を整えなければなりません。「学校がやってくれるんでしょ」だなんてことを言っている場合ではないのです。

 ここ数年の勝負だと思っています。今は名もない小学校教員のひとりごとですが、この計画が実現されるころには大きなムーブメントになっているはずです。

 絶対にひとりではできません。学校の内の力も、外の力も必要になってきます。自分の身の置き場も含めて何とか場を整えようと思うので、いざというときは協力してくださいね。よろしくお願いします。

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

【今後の予定】

①12月9日(水)こきけんよう Vol.22

 

【ホームに戻る】

 

 

【日】子どもにとっての「模範」ではなく「生き方のサンプル」であればいい

 

 おはようございます。昨日は家で成績処理をしていたのですが、そのせいで映画の開始時刻に見事に遅れてしまいました。正確に言うならば、家を出る時点ですでに間に合わないことが確定してしまったのです。

 途中から入る嫌な客になるか。はたまた今日は諦めるか。いろいろと考えながら、もういちど映画館のホームページを開きました。するとどうやら、レイトショーでもういちど上映があるとのことでした。

 誰も座っていない空席に1800円を払えるくらいには大人になったつもりです。チケットをもういちど買い直し、次の上映を観に行くことにしました。

 なんだかんだで、レイトショーを観に行くのははじめてだったかもしれません。いつも以上に空いていて、とても快適に過ごすことができました。

 きっとこういう偶然から、新しい選択肢が増えていくものなのでしょう。次のレイトショーは、選んで来ようと思います。どうも、インクです。

 

子どもにとっての「模範」ではなく「生き方のサンプル」であればいい

 おもしろい大人と子どもを繋げたい。ずっとそう思ってきました。大人がおもしろそうに生きている姿は、子どもにとって「未来への希望」ですからね。

 ただ最近になって、また新しい説が浮上してきました。それは「人間は皆おもしろい説」です。冗談でも何でもありません。「本当は全員おもしろいんじゃないか」と、そう思うようになったのです。

 仮にこの説を前提とするならば、話はすこし変わってきます。「おもしろい大人と子どもを繋げたい」ではなく「できるだけたくさんの大人と子どもを繋げたい」になります。全員がおもしろいわけですからね。

 できるだけたくさんの大人に触れることができれば、子どもたちはさまざまな可能性に思いを馳せながら歩みを進めることができるようになるのです。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain
 べつに大人が「子どもたちの模範になろう」だなんて思う必要はありません。選ぶのは子どもたち自身です。「生き方のサンプル」として、そのままの姿で子どもたちの前に立てば、それでよいのです。

 大人がそこに立っているだけで、それは「生きていける」という証明になります。そんな「生きていける」というサンプルをたくさん集めれば集めるほど、未来への希望を失わずに済むようになるわけです。

 しかし、いまの子どもたちが出会っている大人は、かなり限られています。家族か学校の先生かといったところでしょう。もちろん親戚とよく会う子がいたり、習いごとをしている子がいたりもするのでしょうが、そうだとしてもやっぱり少ないと思うのです。

f:id:taishiowawa:20201206085523p:plain
 出会う大人の数が少ないと、その大人たちの「模範でなくてはならない」という意識が強くなります。学校の先生なんてまさにです。担任の先生は、そのクラスにいる30人の模範になろうとするわけです。

 筆者自身も小学校の先生をしているわけですが、クラスの子どもが、みんな自分のような大人になることを目指されてはたまったもんじゃありません。

 くり返しになりますが、先生の生き方だって所詮はひとつのサンプルです。だから、むしろその生き方をしっかりと見せてやらなければなりません。

 そのために、年が変われば担任の先生も変わる仕組みになっているのです。いろいろな「生き方のサンプル」を見せてやらなければならないわけです。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain

 それにも関わらず、先生の多くが「模範的な大人」であろうとします。極端ことを言えば、それだと担任が毎年変わる意味がありません。学校に行っても1種類の大人にしか会えないわけですからね。

 また、親の意識も強くなってきています。子どもたちが出会う大人を親が選んでいるのです。そのせいで、いわゆる「変な大人」は子どもたちに近づくことすらできません。下手すりゃ警察沙汰です。

 「変な大人」から学ぶことって、本当はたくさんあるんですけどね。もちろん、そんな「変な大人」とずっと一緒にいればいいというわけでもありません。

 できるだけたくさんの種類の大人に出会って、たくさんの「生き方のサンプル」を集めてほしいのです。あの生き方でも生きているし、この生き方でも生きていける。じゃあ、ぼくはこう生きよう。じゃあ、わたしはこう生きよう。そう思ってほしいのです。

 今日の記事は、はじめからおわりまでずっと同じことを言っていましたね。子どもたちの未来のためにも、できるだけたくさんの大人に触れてほしい。

 それを実現させようと思ったら、繋ぐ人間が信用を得ていなければなりません。まずは安心感を。その上で、いろいろな種類の「変な大人」を。

 

【今後の予定】

①12月9日(水)こきけんよう Vol.22

 

【ホームに戻る】

 

 

【土】「全然怒らないのになぜかみんな話を聞く」と子どもが家で言っているらしい

 

 おはようございます。先週、2学期の個別懇談会が終わりました。1学期にもおなじことを書いた気がしますが、おもしろいんですよね。個別懇談会って。

 続けていろいろな人と話すので、なかなかにエネルギーをつかうのですが、とにかく「子どもたちが愛されている」ということを実感させられます。

 保護者の方々は、あれやこれやと悩みながら、距離感を考えながら、子育てをされています。小学校の先生としていろいろな悩みを聞くわけですが、いちばんよく耳にするのは「時間のつかい方」についてです。

 「ずっとゲームをしていて宿題をやる時間がいつも遅くなってしまう」とか「そろそろ風呂に入りなさいと言うたびにいつもケンカになってしまう」とか。

 ひとつの傾向として、このようなことで悩んでいる家庭では、寝る時間が決まっていません。寝る時間をずるずると引き伸ばせてしまうからこそ、お風呂の時間も宿題の時間もあと回しになってしまうのです。

 ちなみに、うちは20時に寝かされていました。小学6年生までです。いま思えばすごいことですね。当時は「なんでこんなにはやく」と思っていましたが、いまでは感謝しています。朝起きることになんの抵抗もありませんからね。どうも、インクです。

 

「全然怒らないのになぜかみんな話を聞く」と子どもが家で言っているらしい

 子どもたちの言う「優しい先生」というのは「怒らない先生」のことを指します。本当は「怒る先生」が優しいことだってあるはずなんですけどね。

 この「怒る/怒らない」に関しては、教員の中でもよく話題に上がります。「怒るときは怒らなければならない」だとか「怒る先生がいるからこそ成り立っている」だとか。決着のつかない言い争いです。

 筆者の場合は単純に、怒ることが苦手です。普段の生活においても「怒り」という感情がほとんどありません。子どもたちに対してイライラするということもありません。そもそもが「ない」のです。

 だから、子どものことを怒ろうとすると、すべてが嘘になってしまいます。「ときには演技も必要だ」という意見もよくわかりますが、思いをしっかりと伝えなければならない場面で、わざわざ嘘をついてまで熱量を演出する必要があるのでしょうか。

f:id:taishiowawa:20201205075139p:plain
 その嘘は、絶対にバレると思うんですよね。筆者自身も初任のころに怒ろうとしたことがあるのですが、とにかくうまくいきませんでした。目に見えて空回りしているし、そんな自分が恥ずかしくもなるし。慣れないことはしないもんだなと思いました。

 そこからは、いかにして「怒る」という手段をつかわずに熱量を伝えるかを必死になって考えました。子どもたちが間違ったことをしたときには、絶対に怒らなければならないわけではありませんからね。

 「怒る」という行為はあくまでも手段です。目的にしてしまってはなりません。あらかじめ断っておきますが「怒ると叱るとでは違うんだよ」という類の意見はもう勘弁してください。耳にタコが棲みつきます。

 さらに言うならば「怒る」という手段を否定しているわけでもありません。上手につかえるのなら、自由につかえばよいでしょう。ただ、マナーとして、他者に押し付けようとしてんじゃねえぞとは思います。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain

 そんなこんなで試行錯誤をしながら教員生活を送ってきたわけですが、今年の個別懇談会で、今日の記事のタイトルにもなっていることばを聞きました。

 クラスの子が家で「先生は全然怒らないのに、なぜかみんな話を聞く」と言っていたそうなのです。このことばを聞いて、いろいろなことを考えました。

 まずはやっぱり、子どもたちの言動の動機としては「怒られないようにするため」が大きかったのだろうなということです。家でも学校でも「怒られるかどうか」という基準で自分の言動を決めているのです。

 たしかに怒られると「いまのはダメだったんだな」と思うことができるわけですが、言い換えるなら「考える必要がなくなる」ということでもあります。

 「よい/わるい」の判断を、大人に委ねているわけですからね。いや、大人に委ねるというより、大人が奪っていると言った方が正しいのかもしれません。

f:id:taishiowawa:20201205075433p:plain

 どうして大人が、子どもの考える機会を「怒る」ことを通して奪ってしまうのかと言うと「どうせ子どもにはわからない」と思い込んでいるからです。簡単に言えば、子どもをバカにしているのです。

 たしかに子どもたちは、できないことも多いです。そりゃそうです。生きてきた時間が短いわけですからね。ただ、だからこそ、自分でできるようになるためのサポートをしてやらなければなりません。

 「怒る」という行為で、善悪の判断基準をトラウマとして埋め込むことはできるのかもしれませんが、それを繰り返していても仕方がありません。

 言ってしまえば、子どもたちは「ダメだったら大人が判断して怒ってくれるから、自分で考えなくてもいいや」という思考になってしまうのです。

f:id:taishiowawa:20201128073737j:plain
 しかも、大人は大人で「怒る」ということを通して、子どもの中に「自分の存在」を植え付けようとします。「ぼくのために怒ってくれてありがとう」だなんてセリフを言わせることで、自分の存在価値を子どもの中に見出そうとするわけです。

 子どもを利用しているということですね。「何回言っても聞かないんですよ」だなんてことをブーブーと言いながら、本当は大人が救われているのです。

 大人が離れてやらないと、子どもはいつまでも甘えてきます。子どもがいつまでも甘えると、大人はますます子どもから離れられなくなってしまいます。

 

苛立つのを

子どものせいにするな 

なにもかも下手だったのはわたくし

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

 

【今後の予定】

①12月9日(水)こきけんよう Vol.22

 

【ホームに戻る】