ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【月】具体はすべて事例なのです

 

 おはようございます。昔は苦手だった電話が、今ではなんとも思わなくなりました。恥ずかしいとか緊張するとか、そのような感情は一切ありません。所詮は相手も自分と同じ人間だと言うことがわかるようになったからかもしれません。友だちだろうが、知らない人だろうが。上司だろうがオペレーターだろうが。結局はみんな同じ人間です。どれだけマニュアルどおりの対応であろうとも、丁寧すぎる対応であろうとも、結局は同じ人間なのです。我も人なり、彼も人なり。我何ぞ彼を畏れんや。どうも、あなたと同じ人間、インクです。

 

具体はすべて事例なのです

  目の前に時計があります。この「時計」というモノは、時間の進行を視覚的に把握できるように具体化されたひとつの事例です。もしも脳内で時間を把握することができるのであれば「時計」というモノは要らなくなります。

 目の前に部屋の鍵があります。この「部屋の鍵」というモノは、ひとつの空間への入場を一方的に制限するために具体化されたひとつの事例です。もしも絶対に他者が許可なくその空間に入ってこないということが保証されているのであれば「部屋の鍵」というモノは要らなくなります。

 目の前に階段があります。この「階段」というモノは、現在地よりも高低差がある場所へと移動するために具体化されたひとつの事例です。もしも人間に浮遊能力が備わっていたとしたら「階段」というモノは要らなくなります。

 目に見えるすべてのモノは、あくまでもひとつの具体例であり現在における最適解に過ぎないということです。もしも、時計以上に効率よく時間が把握できるモノが発見されたとしたら、時計の存在意義は失われてしまうでしょう。鍵においても階段においても同様です。別の最適解がみつかれば、現在のその形はいくらでも変化していくのです。

 言っていることはわかっていただけるかと思うのですが、どうしても人はこの感覚を忘れてしまいます。具体化され、モノとして目の前にあらわれた時点で、それを疑うことができなくなってしまうからです。

 要するに、目の前にあらわれた時点で、それ以上そのモノについて考えなくなってしまうということです。時計があれば見て時間を確認する。部屋の鍵があれば鍵穴に挿して施錠する。階段があれば段を踏み別のフロアへと移動する。わざわざそれぞれのモノに思いを馳せることなんてなくなってしまうのです。

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 ちなみに、このような「人がいかに抽象を具体化してきたか」を学ぶのが社会科という教科です。歴史を学べば、目の前にあるモノがただの具体例であり、時代によってその形は常に変わり続けているということがわかるはずです。

 逆に「人が具体化する前からすでに具体として存在していたもの」を学ぶのが理科という教科です。見方を変えるなら「すでに存在している具体を抽象化する教科」だと言うこともできるでしょう。化学や物理なんかが特にわかりやすいかもしれませんね。

 国語も算数、アプローチの方法がちがうだけで、結局やっていることは同じです。抽象を「文字」で具体化した文章を読みとったり、自分で書いたりするのが国語。具体を「数字」で抽象化するとことからはじまり、最終的には抽象の世界で論理を組み立てるのが算数。このような「具体と抽象の行き来」こそが思考であり学習なのです。

 もし、具体だけを切り離して「完成されたモノ」として捉えてしまったとしたら、その先に広がるモノが何もなくなってしまいます。それぞれのモノがただ点在しているだけで、汎用性も関連性も見出されないまま、最後を迎えることになってしまうのです。

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 学ぶことのおもしろさとは、繋がりの発見です。まったく関係がないように見えるモノとモノとが、抽象の世界で繋がります。抽象の世界で繋がると、これまでは見えていなかった規則性がみつかり、他のモノとも繋がるようになります。すると、こちらで身につけたモノの見方があちらに転用できるようになったり、こちらで発見した考え方をあちらの考え方と組み合わせてつかえるようになったり。繋がれば繋がるほど、思考はよりおもしろくなっていくのです。

 くり返しになりますが、今あなたが見ているすべてのモノはあくまでも事例です。具体化するために選択されたひとつの手段でしかありません。だれかが思考して、だれかが具体化したから、今ここにあります。あなたは何も考えなくてもそのモノに触れることができます。

 しかし、その表面に本質はありません。具体化の手順が洗練されていないモノならなおさらです。本質を見極める眼がなければ、そもそもそれがよいモノなのかわるいモノなのかも判断することができません。

 まずは「所詮はひとつの事例でしかない」ということを自覚しましょう。その上で、本質がどこにあるのかを徹底的に疑いましょう。これができるようにならなければ、いつまでも、誰かに与えられたモノの範囲でしか、ものごとを考えることのできない人間になってしまいます。

taishiowawa.hatenablog.com

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  はじめに書いた電話も「具体と抽象の行き来」ができるようになったからこそ、なんとも思わなくなりました。昔は相手を具体として捉えてしまっていましたが、それを「同じ人間」という抽象で捉えられるようになったからこそ、苦手意識を払拭することができたのです。

 本文ではなんだかえらそうなことを言いましたが、結局はこのブログだって「具体と抽象の行き来」の訓練です。以前から流行っている「インプット・アウトプット」にも近いものがあるでしょう。ただ「インプットするんだ!」「アウトプットするんだ!」と張り切りながら、具体を具体のままインプット・アウトプットしている人をよく見かけます。それではあまり意味がありません。

 しつこいですがインプット・アウトプットの過程には「具体と抽象の行き来」が必要です。さあ、あなたは今、この記事という具体を読んでくださったわけですが、抽象の世界にはたどり着きましたか。ここに書かれている文字列の本質を見抜くことができましたか。具体と抽象を行き来する機会は、生活のあらゆるところに潜んでいるのです。

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