ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【木】「疑う」は「考える」に限りなく近い

 

 おはようございます。コロナウイルスの影響によって、様々なイベントが中止や延期を発表しはじめました。如何せんこればかりはどうしようもありません。万が一その場所で感染が拡大されようものなら、主催者に責任はとれませんからね。だからこそ、このやり場のない感情を我々はどうにかして処理しなければなりません。週末を楽しみに1週間を乗り切ろうとしていたのに。これでは、まるで「休日をつかって成績処理をしなさい」という神様からのメッセージのようではありませんか。やってらんねえよ。それはさすがにやってらんねえ。蘭姉ちゃん。どうも、インクです。

 

「疑う」は「考える」に限りなく近い

 熟語は、構成に着目すると4つのグループに分けることができます。今からそれぞれのグループに属する熟語をいくつか紹介するので、どのような基準で分けられているのかを考えてみてください。準備はいいですか。いきますよ。それでは、レッツ熟語。

 

 【グループ 1】 上下、高低、前後、南北 など

 【グループ 2】 温暖、救助、身体、岩石 など

 【グループ 3】 花束、木刀、海底、再開 など

 【グループ 4】 着火、登山、読書、握手 など

 

 いかがでしょう。少し簡単すぎましたかね。「なんとなくわかった」じゃあダメですよ。ことばで正確に説明してください。いいですか。正解を発表しますよ。もう少し考えたい人は、まだスクロールせずにそのまま考えてみてください。もう大丈夫だという人だけ、どうぞ先へお進みください。それでは正解発表です。各グループはこのような基準で分けられていました。

 

 【グループ 1】対になる漢字の組み合わせ

   → 上下、高低、増減、前後、南北 など

 【グループ 2】似た意味の漢字の組み合わせ

   → 温暖、救助、身体、岩石、絵画 など

 【グループ 3】上の漢字が下の漢字を修飾している組み合わせ

   → 再開(ふたたび・はじめる)など

 【グループ 4】下の漢字が上の漢字の目的語・補語になる組み合わせ

   → 着火(つける・ひを)など

 

 正解できましたか。ちなみにこの内容は小学4年生で学習します。完全に忘れていた人は、4年生に笑われてしまう前にしっかりと復習しておきましょう。それではさっそく。「復習」はどのグループに入る熟語ですか。「復習」は(また・ならう)と上の字が下の字を修飾していることになるので【グループ3】ですね。この要領でいけば、ほとんどの熟語を上の4つに分けられると思います。ぜひ、身の回りの熟語もどのグループに入るのかを考えてみてください。今日はとても勉強になる熟語のお話でした。

 

f:id:taishiowawa:20200227022806p:plain

 

 さあ、今の熟語のお話を読んで「そうなんだ」と思っていてはいけません。それはただ知らなかったことを知っただけ(もしくは知っていたことを再確認しただけ)で、何も考えていないのと同じです。完全に受け身であり、頭はほとんど動いていません。

 考えるためには、提示された情報を疑ってみることが大切です。先ほどご紹介した熟語に関する4つのグループ。疑うべきポイントがあるとは思いませんか。「なんで?」と思うべきポイントがあるはずです。みつかりましたか。そうです。

 

 【グループ4】はどうしてこの順番なの?

 

 この疑問をもつべきです。だって、おかしくないですか。日本語の語順を考えるのならば「着火」ではなく「火着」でいいではないですか。「登山」も「山登」、「読書」も「書読」、「握手」も「手握」でいいではないですか。どうしてわざわざ順番を入れ替えるような構成になっているのでしょうか。【グループ4】なんてナシにして、【グループ3】にまとめてしまえばいいではありませんか。なぜ【グループ4】はこのような順番になっているのでしょう。

 言われてみれば、なんとなくそんな気がしてきましたか。どうしてこのような順番になっていると思いますか。ここに答えを書いてしまうと、結局は先ほどと同じように「知らなかったことを知っただけ」になってしまうので、あえて答えは書きません。考えてみてください。【グループ4】の熟語はどうして後ろの字を先に読むような順番になっているのか。答えがわかった方はぜひコメントに書いてみてください。

 

f:id:taishiowawa:20200227024019p:plain

 

 このように、「考える」という行為は「疑う」ところから始まります。逆に言えば、疑うことができなければ考えることもできません。要するに、先ほどの熟語のお話を「そうなんだ」で済ましていては、一向に考える機会はやってこないということです。

 そんな生活の中で、突如考えなければならない「困ったできごと」が起こるからこそ、みんなあたふたしてしまいます。ふだんから考えていない証拠です。みんな知らず知らずのうちに「当たり前」という枠に囲われて出られなくなっています。なんなら枠に囲われていることにすら気づいていないのかもしれません。

 「疑う」とは言わば、その枠を再認識する行為です。そして、その枠の外へと思いを馳せます。この習慣を身につけておかない限り、その枠はどんどんと小さく小さくなっていきます。そして、しまいには思い込みの激しいめんどくさいおじさんおばさんになってしまうというわけです。

 

www.inkhornterm.com

 

 先ほどは「当たり前」という枠のせいで考えられなくなっていると書きましたが、言い換えるとこれは「知識」のことです。知識があるせいで、考えることを止めてしまっているのです。要するに「オレはもう知っているから別に考えなくたっていい」というわけです。

 そもそも「考える」という行為は、脳に負荷をかける行為ですからね。生物学的に見れば、きっとできるだけ避けて通りたい行為なのではないでしょうか。ある意味、そのために知識があるのかもしれませんね。だとしたら、人間にとって「考える」という行為はどこまで必要なのでしょうか。かつてのように「お腹がすいたら食べる」だけではいけないのでしょうか。人間の「考える」という行為が生み出す価値とは一体なんなのでしょうね。