おはようございます。「今日はなんの日でしょう? 正解はうちのお父さんの誕生日でした!」と教えてくれる子どもたちを見ていると、人は本来だれかに何かを伝えたい生き物なんだなと改めて思います。このブログももしかすると、みなさんに向かって「うちのお父さんの誕生日」を伝え続けているようなものなのかもしれません。今日はなんの日でしょう? どうも、インクです。
やり方を変えずに「がんばれがんばれ」と言いつづけても仕方がない
やり方を変えずに「がんばれがんばれ」と言いつづけても仕方がない
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年2月21日
応援って難しいですよね。「がんばれ!」とことばにすることが応援なのでしょうか。三三七拍子をすることが応援なのでしょうか。心の中で相手を思うことが応援なのでしょうか。そばにいてあげることが応援なのでしょうか。差し入れをすることが応援なのでしょうか。金銭的支援をすることが応援なのでしょうか。元気の出る歌をうたうことが応援なのでしょうか。一発ギャグで笑わせてあげることが応援なのでしょうか。千羽鶴を贈ることが応援なのでしょうか。もしくは、何もしないことが応援なのでしょうか。
どうして応援が難しいのかというと、相手の思いを組み込むことのない一方的な行為だからです。言ってしまえば、善意の押し付けです。「相手は喜んでくれるだろう」というなんの確証もない予想だけを頼りにして動かなければなりません。
さらに言えば、相手は応援されることを前提として動いているわけではありません。だから、そもそも「こんな風に応援してほしい」という願望をもっていないのです。つまり、何もないところに善意を抱えて突撃していくのが「応援」だということになります。考えれば考えるほどハイリスクな行為ですね。
応援から得られる結果は次の2パターンしかありません。「思っていたよりも喜んでもらえた」か「思っていたよりも喜んでもらえなかった」のどちらかです。薄々おわかりかとは思いますが、とにかく厄介なのは後者です。思っていたよりも喜んでもらえなかったとき、応援した人はこんなことを言い始めます。
一生懸命がんばったのに
思っていたよりも喜んでもらえなかった
気もちはわかります。気もちはわかるのですが、いやいや待てよと言わざるを得ません。先ほど確認したように、応援とは一方的な行為です。相手の思いは一切組み込まれていません。それにも関わらず、この言い草はあまりにも卑怯ではありませんか。まるで、大きく喜ばなかった相手が悪いかのように聞こえてしまいます。
あなたが勝手に考えて、勝手にやったことではありませんか。どれだけ相手のためにやったことだったとしても、もしかしたら相手にとっては迷惑だったという可能性だってあるのです。すこしだけでも喜んでもらえたのならよかったではありませんか。勝手に期待されて、勝手にがっかりされたら、それはむしろ相手がかわいそうです。
実は、学校の先生の仕事と「応援」はよく似ています。なんなら同じと言ってもいいのかもしれません。一方的に、先生が子どもたちを応援する場所。それが学校です。先生がいなくても子どもは存在するけれど、子どもがいないと先生は存在することができません。子どもたち、いつもありがとう。それにも関わらず、やはり授業や学級経営がうまくいかないと、職員室からはこんな声が聞こえてくるようになります。
一生懸命がんばっているのに
子どもたちが言うことを聞いてくれない
理由はとても簡単です。子どもたちがあなたに応援してほしいと思っていないから。ただそれだけです。あなたの「がんばれ!」はプレッシャーなのです。「がんばれ!」と言われても具体的に何をすればよいのかがよくわかりません。あなたの三三七拍子は暑苦しいのです。聞いているこちらが恥ずかしくなってしまいます。あなたの差し入れはお刺身なのです。はやく食べないとすぐにダメになってしまいます。
そんな応援は迷惑です。むしろない方がありがたいくらいです。それでもあなたは「がんばれ!」と言い続けます。それでもあなたは三三七拍子をし続けます。それでもあなたはお刺身の差し入れをし続けます。そのくせして「一生懸命がんばっているのに子どもが言うことを聞いてくれない」だなんてことを言っているのです。そりゃあ、そんな応援されたくねえよという話です。それを態度で表しているはずなのに、ずっと続けられてはそりゃあ嫌にもなりますよ。
すみません。随分と厳しいことを書いてしまったので、彼らもついついあなたの応援をしはじめてしまいました。なんだか偉そうに聞こえてしまったかもしれませんが、同じ学校の先生として「一生懸命がんばっているのに子どもが言うことを聞いてくれない」という気もちは痛いほどわかります。痛すぎて泣きそうなくらいです。自分で書きながら、自分の首がしまっていくものですからおそろしい限りです。
ただ、これだけは自信をもって言うことができます。うまくいかないときに「自分は先生に向いていない」だとか「自分を変えなきゃいけない」だとか、そんなことを考えても仕方がありません。むしろ袋小路になってしまうだけです。先生に向いているとか向いていないとか、そんなことは関係ありません。「自分を変えなきゃいけない」といくら思ったところで、人はそう簡単には変わりません。
変えなきゃいけないのは人間性ではなく「やり方」です。応援のやり方が間違ってる。ただそれだけなのです。泣いている赤ちゃんに対して「静かにしなさい!」と言い続けているのと同じです。やり方を間違えたまま応援し続けたらそりゃあしんどいですよ。「一生懸命やっているのにどうして」とも思いますよ。くり返しになりますが、変えるべきなのはやり方です。赤ちゃんを泣き止ませたければ、それに適したやり方があるはずなのです。
具体的にどんなやり方をとればよいのかというと、それはもう勉強するしかありません。本を読んでもいいし先輩に教えてもらってもいいし。はたまた人のブログを読んでみてもいいのかもしれません。オススメは「ツイートの3行目」というブログです。おもしろい記事がたくさんあるのでぜひ読んでみてください。
仮に適したやり方がわからなくても、「今のやり方は間違っている」ということには気がついているのなら、何でもよいからとにかく変えてみるというのもありだと思います。人はどうしても心配をする生き物なので、次の移住先が決まらないとなかなか動こうとしません。しかし、今のやり方が間違っていると気がつけているのなら、「とにかく変えてみる」という選択肢をえらんでみてもよいのではないでしょうか。