おはようございます。『2001年宇宙の旅』を観てから、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』がやけに耳にのこっています。
有名な曲なのでもちろん聴いたことはありましたし、フリードリヒ・ニーチェの著書が題材であることも知っていました。映画の中で流れてくるとこんなにも印象にのこるものなのですね。
最近で言うと androp が Creepy Nuts とのフューチャリングでサンプリングしていました。「最近」だなんて言ってしまいましたが、確認すると2017年の曲でした。もうあれが3年前か。「海で泳ぐ奴サメに喰われろ。肝試し行く奴は呪われろ」で、笑わされた記憶があります。どうも、インクです。
人に対して当たりが強くなる原因のほとんどはその人自身の不安感
人に対して当たりが強くなる原因のほとんどはその人自身の不安感
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年7月28日
人に対して当たりが強くなってしまう原因のほとんどは、その人自身の不安感だと思っています。そして、その人が不安になる原因のほとんどが、他人との比較から生まれる劣等感だと思っています。
「他の人と比べて自分は全然できていない」とか「わたしなんてどうせ無理だから」とか。そんな不安感を拭うために、ベクトルが他者に向くのです。
だれかのせいにすることで、自分の心を必死に守っているのでしょう。他者の間違いを指摘することで、自分の正しさを必死に保っているのでしょう。そうしなければ、自分の足で立っていられないのです。
子どもたちの間でもこの現象はよく見られます。集団で生活する限り、他者との比較は避けて通れませんからね。比較の中で不安感を強く抱いた子どもほど、ほかの人に「注意」をしようとします。
「静かにしてください」とか「時間なので座りましょう」とか。学校の先生でなくても容易に想像することができるのではないでしょうか。
彼らは相手のことを思って言っているつもりなのかもしれませんが、根本にあるものはその子自身の不安感です。他者に注意をすることで、自分を保っているのです。もちろん自覚はないでしょうけどね。
時々、先生がここを煽ってしまうことがあります。「自分たちで声を掛け合いなさい」とか「友だちなんだから注意してあげなさい」とか。たしかに言っていること自体は間違っていないのかもしれませんが、この煽りはよく考えてつかわなければなりません。
他者に注意をすることに味をしめて、自分を確立することを覚えてしまうと、だんだん粗さがしをはじめるようになってしまいます。注意するポイントを一生懸命さがすようになるのです。
するとどうなるのかというと「お前に言われたくない」とか「なんでオレだけに言うんだ」とか「言い方がキツい」とか、いろいろなところで摩擦が発生するようになります。
しかし、もうそのころには完全に味をしめて、自分が正義だと思い込んでしまっているので、一歩たりとも引こうとしません。俗に言うところの「委員長タイプ」というやつです。
本能的には自分が不安であることに気がついているのでしょう。さらには、その原因が自分にあるということも、きっとわかっているのでしょう。そんな事実を隠すために、このような行動にでるのです。自分でも意識したくないのです。だれかのせいだと思い込んで余計なストレスを抱え込みたくないのです。
しかし、いちど自分の不安感を他者にぶつけはじめると、それこそ「委員長タイプ」のように癖づいてしまい、負のスパイラルから抜け出せなくなってしまいます。なんどもなんども同じように他者にぶつけるようになってしまうのです。
しかも、この人たちは厄介なことに「自分たちはわるいことをしていない」と思っています。いやむしろ、正しいことをしているとすら思っているかもしれません。そのくらい思っていなければ、他者に強く当たることなんてできませんからね。
不安を感じれば他者に当たり、また不安を感じれば他者に当たり。こうして、その人自身は信用を失い、まわりの人たちは嫌な思いをすることになってしまうのです。
先ほども述べたように、いちどこのループに入ってしまうと、なかなか抜け出せなくなてしまうので、なるべくはやめに不安感を解消する方法を身につけておかなければなりません。
もちろんその方法は人によってすこしずつ変わると思いますが、基本的には「まあ、いいや」や「何とかなるか」という思いが不安を解消していくのではないかと思っています。
字面だけを見ると、なんだか適当な気がするかもしれませんが、これらの思いは決してマイナスなものとは限りません。「(こんなところで自分のエネルギーをつかっても仕方がないから)まあ、いいや」かもしれませんし「(自分には他にも大切な場所があるから)何とかなるか」かもしれません。
このように「まあ、いいや」や「何とかなるか」という思いは、自分の思いをいろいろなところへ分散させておくことで成立するものなのです。「仮にこっちがダメだったとしてもこっちがあるから大丈夫」というふうに。
反対に、ひとつのものにズブズブとのめり込んでしまうと「それを失うわけにはいかない」という思いが強くなり、不安感も大きくなるのだと思います。
世界が狭くなると、相対的にそこでのできごとも大きく感じるようになりますからね。できるだけ引いた視点をもち、心を分散させておくことが大切なのだと思います。先ほど述べた「仮にこっちがダメだったとしてもこっちがあるから大丈夫」という思いは、リスクをとった挑戦のきっかけにもなりますからね。