ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】いつだってそうやって頑張って考えて探してきたじゃないか

 

 おはようございます。毎朝更新をはじめて、今日でちょうど300日になりました。だから何なんだという話なのですが、せっかくのキリのよい数字です。昔のことを思い出しながら、これまでには書いてこなかったようなものを書いてみたいと思います。

 ここまで読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。今のところ、やめる予定はありませんので、これからも「ツイートの3行目」をどうぞよろしくお願いします。どうも、インクです。

 

いつだってそうやって頑張って考えて探してきたじゃないか

 人は理由を求めます。理由があると安心することができるからです。見ず知らずの人が、自分の家のインターホンを鳴らしていたらすこし不安になるでしょう。しかし、その人が緑色のキャップをかぶってダンボールを抱えていればきっと安心するはずです。

 おなじ「見ず知らずの人」なのに、どうしてこのような違いが生まれるのかというと、後者には「荷物を届けに来た」というインターホンを押した理由があるからです。正確に言えば、インターホンを押した理由がわかるから安心することができるのです。

 理由がわかると、理解した気になれます。一度理解してしまえば、怖れる必要がなくなります。科学なんてまさにその積み重ねです。現象の理由を探し、論理的に説明することで、安心しようとしているのです。

 筆者が大好きな寺田寅彦は、随筆『化け物』の中で、科学について次のように述べています。

 

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『寺田寅彦随筆集 第二巻』岩波書店、1984年、P.194

 昔の人は多くの自然界の不可解な化け物の所業として説明した。やはり一種の作業仮説である。雷電の現象は虎の皮の褌を着けた鬼の悪ふざけとして説明されたが、今日では空中電気と称する怪物の活動だと言われている。空中電気というとわかったような顔をする人は多いがしかし雨滴の生成分裂によっていかに電気の分離蓄積が起こり、いかにして放電が起こるかは専門家にもまだよくはわからない。今年のグラスコーの科学者の大会でシンプソンとウィルソンと二人の学者が大議論をやったそうであるが、これはまさにこの化け物の正体に関する問題についてであった。結局はただ昔の化け物が名前と姿を変えただけの事である。

 

  もちろん、この随筆が発表された年から、時は随分と進んでいるので「雷電」の捉え方も大きく変わっているでしょう。ただ、この「化け物が名前と姿を変えただけ」という言い回しは、今でも的を射たことばだと言うことができるのではないでしょうか。

 我々は「化け物」を「名前をつけた別のもの」に置き換えて、理解したつもりになっているだけなのです。もちろん、そのおかげでもたらされた恩恵もたくさんあるのかもしれません。しかし、そのように考えるのであれば、それと同時に、失ってきたものもおなじくらいあるはずなのです。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain  突然、話が重くなって申し訳ないのですが、人が理由を求めるものに「他人の死」が挙げられます。自死ともなればなおさらです。「いじめが原因なのではないか」とか「家族との関係が原因なのではないか」とか「業績の低下が原因なのではないか」とか。とにかく理由がなければ安心することができないのです。

 場合によっては、当人が遺言をのこしているということもあるでしょう。ちなみに、太宰治は「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」という遺言をのこしています。

 筆者は、この理由が正確なものではないと思っています。べつに太宰が嘘を書いたと言っているわけではありません。生きている人間に、死を選んだ人間の思いなんて汲み取れるはずがないということです。どれだけ思い当たる節があろうとも、どれだけ本人が遺言をのこしていようとも、生きている人間が想像する理由は、きっとすべて間違っています。

 勝手に想像して、勝手に言いふらして、勝手に安心して。すこし言い方はきついですが、そこで安心している人たちは、自死を選んだ人にとっての「生を選ぶ理由」になりえなかったわけですからね。どれだけ理由を想像したところで、化け物が名前と姿を変えただけのことなのです。

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 そんなことを考えていると「生きろ」だとか「死ぬな」だとか、そう簡単には言えなくなってしまいます。そもそも、死を目の前にした人に、今さらそんなことばが届くはずがありません。

 むしろ、そんなことばが彼らを苦しめている可能性だって考えられます。仮に、全身全霊をかけてその選択を止められたとして、今後もその人を守っているだけの力が自分にあるのでしょうか。自信をもって「はい」と答えることはできません。

 それでもやっぱり「生きる」という道を選んでほしいのであれば、きっとその手段は「がんばれ」と言うことではありません。なんなら「その人のためを思って行うこと」ですらないのかもしれません。「生きた方がよい」というその価値観自体があなたのものであり「相手も同じように思うべきだ」というのは、ただの押し付けですからね。

 ほかの人が想像する理由なんて、どうせ全部まちがっています。そして、きっとその理由は誰のせいでもないのでしょう。残念ながら、見ず知らずのあなたの気もちなんて到底わかりっこありません。見知っていてもわかりっこありません。

 ただ、もしかすると化け物の名前と姿を変えるだけで得られる安心もあるのかもしれません。明日も明後日も明々後日も、こうして文章を書いています。また読みに来てください。

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