ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【金】「自分は歩み寄っているのに」という思いが結果的に相手を遠ざける

 

 おはようございます。宅配便で荷物が届くとなんだか嬉しくなりませんか。自分で注文した荷物が、自分の家に届いただけなんですけどね。それでも不思議とわくわくしてしまいます。

 別にずっとほしかったものが届いたわけでもありません。ただの洗剤です。ただの洗剤が届いただけなのにこんなにも嬉しい気もちになるのです。ドラッグストアで同じ洗剤を買ったとしてもこの気もちを味わうことはできません。宅配でなければならないのです。

 きっと、がまくんも似たような気もちだったのでしょう。届く手紙の内容はすでに知っているわけですからね。それでも荷物が届くというのは、やっぱり嬉しいものなのです。このブログも「毎朝あなたのポストに届く」というシステムにすれば、またちがった価値が生まれるのかもしれません。どうも、インクです。

 

 「自分は歩み寄っているのに」という思いが結果的に相手を遠ざける

 ちがう考えをもった人間がひとつの場所に集まれば、必ず「合う/合わない」が生じます。「合わない人とは一切の関わりをもたない」というのが理想的ではありますが、どこかの集団に属すという形をとる限り、残念ながらそういうわけにもいきません。

 これからの付き合いのことも考えて、チームの平穏のことも考えて、大人として「うまく付き合っていく」という道を選ぶしかないのです。個人間で衝突してもかまわないのですが、チームに所属している限りどうしてもまわりの人に影響を及ぼしてしまいます。

 まわりの人を巻き込んででもぶつかるべきタイミングもあるのかもしれませんが、大抵の衝突にはそこまでの価値がありません。それがわかっているからこそ、大人たちは穏便にことを済ませながら生活をしているのです。価値のない衝突は自分がつかれるだけですからね。

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  と、このように大人ぶっていると、いずれはこんな感情が芽生えてくるようになります。「自分はこんなにも歩み寄っているのに、どうしてあの人はずっと変わろうとしないの!」です。きっと誰もが一度くらいはこの感情を抱いたことがあるはずです。

 ムカつきますもんね。そんな人。こっちは嫌でもがんばって歩み寄ろうとしているのに、一向に態度を変えようとしません。「それでも大人かよ」と思ってしまいます。 

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  ふだんからこのブログを読んでくださっている方なら、このつづきにどんな話がつづくのかはもうおわかりでしょう。そうです。「自分が歩み寄れば相手も歩み寄ってくれるはずだ」という前提がそもそもおかしいという話です。

 歩み寄っているつもりになっているのは自分です。変わったつもりになっているのも自分です。主語はすべて自分であり、自分が動けば相手もまったくおなじように動くとは限りません。なぜなら相手はちがう人間だからです。

 それにも関わらず、何かと理由をつけては相手もおなじようにするべきだと主張します。「大人として当然だ」とか「社会人としての常識だ」とか。それらも結局は自分の思い込みでしかありません。そんな自分の思い込みが相手にも当てはまると思っていること自体がまちがいなのです。

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 このような勘違いをしてしまう原因は、学校にあると思っています。学校で「みんなもがんばっているんだから、あなたもがんばりなさい」と教えられるのです。言い換えるなら「あなたが辛いときはみんなも辛い。だからがんばりなさい」と教えられるというわけです。

 この理屈、まったく意味がわかりません。文字で見ると、なおさら意味がわかりません。まずは「あなたが辛いときはみんなも辛い」ですが、そんなわけがありません。何度も言いますが、自分とみんなはまったくちがう人間です。

 運動が苦手な自分がリレーを辛いと思っているときに、運動が得意なあの子はリレーを楽しいと思っています。歌が得意な自分が音楽を楽しいと思っているときに、歌が苦手なあの子は歌を辛いと思っています。「自分が辛いときはみんなも辛い」という考え方は、あまりにも傲慢です。漫才なら「そんなわけがないだろ」とツッコまれていることでしょう。

 しかも、その後ろに「だからがんばりなさい」ということばがつづきます。これはもはや謎です。「あなたが辛いときはみんなも辛い」ということと「がんばる」ということにはなんの因果関係もありません。そのくせして「だから」という接続語で繋いでいます。 国語のテストならバツをつけられてしまうでしょう。

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 それでも学校ではこれがまかり通ってしまいます。なぜだかわかりますか。そうです。みんながひとつの塊である方が、大人にとっては都合がいいからです。ひとりだけ違う方向に進まれては、集団としては非常に扱いづらくなるのです。

 だからこそ、ひとつの塊から抜け出そうとする子どもがいれば「わがままだ」とか「甘えだ」とか言って、塊の中へ押し返そうとします。先ほどの謎理論も、ここから生まれる発想だというわけです。

 筆者自身がこのような大人の都合に苦しめられてきた子どもだったので、この謎理論を全力で否定したくなってしまうのですが、学校の先生として子どもたちの前に立ったときにこのような発想に至ってしまう理由もなんとなくわかってしまいます。

 学校の先生は常に「ひとりひとりの得意・不得意を把握して力を伸ばそう」という考えと「集団としてことを前に進めよう」という考えの板挟みにあるのです。何度も言うように、だからといって謎理論が通用するとは思いません。ただそれと同時に、全員がある程度おなじ方向を向いていなければ、学校の先生という仕事が成り立たないというのも事実なのです。

 言い訳がましくなってしまうのがとても悔しいのですが、言ってしまえば「一斉指導の限界」です。「複数人の子どもにひとりの大人がつく」という形をとり続けるかぎり、ある程度の多様性は排除せざるを得ないのです。

 しかし、これまたおなじことを何度も言うようですが、そんなものはただの大人の都合です。子どもからすれば知ったこっちゃありません。どうしてそんな屁理屈で自分の個性が制限されなくてはならないのでしょう。どうして多様な個性に良し悪しを決められなければならないのでしょう。どうしてまったくちがう人間がおなじだと思わなければならないのでしょう。

 「子どものため」ということばがいくらでも飛び交う学校の中には、実は「大人のため」のルールが山のようにあります。現状として大人たちは、そんなルールまでをも「子どものため」だと信じ込んでいます。長い歴史を積み重ねることでおかしなことになってしまっているのでしょう。まずは、それらが「大人のため」にあるものだと自覚するところからはじめなければならないのではないでしょうか。

taishiowawa.hatenablog.com

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【お知らせ】

 いよいよ明日になりました。6人でべらべらとしゃべる。ただそれだけです。それだけなのですが、きっとおもしろくなるのだろうなと思っています。聞くだけにはなってしまいますが、騙されたと思ってぜひ遊びにきてみてください。「自分が行っていいのかな」とか「まったく絡みがないけど大丈夫かな」とか、そんなことを考える必要は一切ありません。ツイッターのDMにあなたから参加希望の連絡が入ることを心よりお待ちしております。

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