ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【水】手段をそろえるということはよりよい手段の模索をやめるということ

 

 おはようございます。6月に入って本格的に授業がスタートした学校も多いのではないでしょうか。そうなると、職員室で過ごす時間と教室で過ごす時間の割合が大きく変化してきます。

 当たり前ですが、教室で子どもたちと過ごす時間が長くなるわけですね。これがまあ楽しいんですよ。子どもたちと過ごすために仕事をしているわけですからね。職員室になんて帰りたくなくなってしまいます。

 べつに人間関係に難を抱えているわけではありません。単純に職員室という場所が苦手なのだと思います。教室に直行して教室から直帰したいくらいです。そんなことを考えながら今日も定時退勤を目指してがんばるわけです。どうも、インクです。

 

手段をそろえるということはよりよい手段の模索をやめるということ

 学校には「そろえる」という文化があります。隣のクラスと授業の進度をそろえる。隣のクラスと使用する教材をそろえる。隣のクラスと宿題の内容をそろえる。隣のクラスと生活のルールをそろえる。

 もはや先生どうしの「相談」や「情報交換」の目的が「そろえる」になってしまっています。どうしてそんなにそろえたがるのかというと、苦情を防止するためです。「あのクラスだけどうして」とか「うちのクラスはやっていないのに」とか。クラス格差が生まれてしまうことをおそれているというわけです。

 「そちらはそちらでまた別のおもしろいことをすればいいじゃない」という話なのですが、どうやらそういうわけにもいかないみたいです。「他のクラスがうらやましい」になってしまうと、学級経営がしづらくなるんですって。

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 そのほかにも「教育の機会均等」だとか「みんな平等」だとか、いろいろと理由をつけてとにかくそろえたがるわけです。普段からこのブログを読んでくださっている方ならもうおわかりかと思いますが、筆者はこの「そろえる」がかなり苦手です。

 「好きなようにやらせてくれ」といつも思っています。どうしてちがう人間がおなじ授業をしなければならないのでしょう。どうしてちがう人間がおなじ先生を演じなければならないのでしょう。子どもたちだってひとりひとりちがうわけですから、ちがう授業をして当然ではありませんか。そんなにそろえたいのならそっちが合わせてきやがれってんだいという話です。

 やはりおなじことをしておけば安心できるのでしょう。「本当にこのやり方でいいのかな?」という不安を忘れて「隣のクラスとおなじだから大丈夫でしょ!」と思えるのでしょう。本当にそれが子どもたちのための授業だと言えるのでしょうか。

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 「そろえる」ということが「よりよい手段の模索をやめる」になってしまっているような気がしてならないのです。本当にそれがよいのかをロクに考えもせずに「よいと言われていること」を一生懸命そろえようとしています。

 毎日音読させるとよい。毎授業めあてを書くとよい。毎授業ふりかえりを書くとよい。黒板は端から端まできれいに書くとよい。その黒板をノートに写させるとよい。発表は挙手させるとよい。姿勢正しく座らせるとよい。教科書をつかうとよい。

 別にこれらの手段を否定しているわけではありません。「本当にそれがよいのかを考えたのか?」という話です。その上で「よりよい手段があるのではないか」という話なのです。いいや、「あるのではないか」ではありません。絶対にあるはずです。

 目の前にいる子どもは毎年のように変わるのです。何なら毎日変わっていると言っても過言ではありません。そんな子どもにおなじ手段で向き合おうとしていること自体がおかしな話です。最適解を探り続ければ、手段なんていくらでも変化するはずなのです。

 それにも関わらず「そろえる」という道を選んでしまうと、よりよいと思われる手段が適切なのかどうかを確かめることすらできません。「そろえる」という枠の中でもがくしかなくなってしまうのです。こうなれば「そろえる」はもはや重荷でしかありません。

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 ここまでの話を踏まえると「それぞれがよりよい手段を模索して、それらを共有し、利用するかどうかは各自が判断する」という形がもっとも理想的なのではないでしょうか。

 途中でも述べたように、先生どうしの「相談」や「情報交換」の目的が「そろえる」になってしまっています。「そろえる」ために話をしてしまっているのです。

 だからこそ「相談」や「情報交換」に嫌気がさしてしまいます。本来「相談」や「情報交換」は、選択肢を増やすために行うのです。選択肢が増えれば、最適解をみつけられる可能性も高まります。また、既存のものと組み合わせて利用することもできるでしょう。

 贅沢を言うならば「やってみてどうだったか」までを共有できたらいいですね。他者の経験を聞くことで、実践する前のイメージトレーニングがしやすくなるというわけです。

 何度も言いますが、その手段を選ぶのかどうかは個人の判断です。むしろ、この判断を下すために担任がいます。こんなにもそろえてしまうのなら、もはやだれでもいいではありませんか。よりよい手段を模索して、相談を通して精査し、それをすぐに試すことができる。そして、反省を生かして改善を積み重ねる。そんな授業のサイクルがつくれたらいいものです。

taishiowawa.hatenablog.com

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2020.6.26.21:00

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