ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【水】迂闊な共感は相手との距離を遠ざける

 

 おはようございます。家から学校に行くまでに、大小あわせて28個の信号があります。この日はそのうちの16個の信号にひっかかりました。しかも大信号はとことん赤色でした。右折をするために、ひとつの信号を2回待つこともありました。 

 まあ、べつに急いでいるわけではなかったのでかまわないのですが、やはり信号というものは青色に光っている方が気もちのよいものです。子どものころに誰もがやったことがあるはずです。自転車に乗っていちども足をつかずに家までたどり着けるかというゲーム。あれとおなじですね。

 当然ですが、今日もその道をとおって学校へと向かいます。はたして今日は、何個の信号に引っかかるのでしょう。寸分のくるいもなくドンピシャで正解した方には、信号を1機プレゼントいたします。押しボタン式や時差式もとりそろえておりますので、お好きな信号をお選びください。たくさんのご応募をお待ちしております。どうも、インクです。

 

迂闊な共感は相手との距離を遠ざける

 人の気もちを考えなさい。人の気もちが想像できる人になりなさい。このようなことばを誰もがいちどは耳にしたことがあるでしょう。たしかに、他者をおもう想像力が喜びを生んだり楽しさを生んだりすることもあるでしょう。

 ただし、ひとつだけ絶対に忘れてはならないのが、それはただの想像でしかないということです。こうすれば相手は喜んでくれるだろう。こうすれば相手は嫌な思いをしてしまうだろう。これらはすべて、ただの個人の想像でしかありません。

 他人の気もちなんてわかるはずがないのです。納豆が大好きな人がいる一方で、死んでも食べたくないと思っている人もいます。陽の光をあびて爽やかな気もちになる人がいる一方で、新たな1日のはじまりを憂鬱に思う人もいます。可能な限り怪我を避ける人がいる一方で、痛みに安心感を覚える人もいます。

 そんな他人に対して、たったひとりの人間が、自分の尺度だけで「相手の気もちを想像する」だなんてあまりにも傲慢だとは思いませんか。むしろ「相手の気もちを理解することができる」と思っていることに恐ろしさすら感じます。

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 小学校の道徳の教材に、よくこんなお話があります。ひとりぼっちの子に「いっしょにあそぼうよ」と声をかけて、みんなで楽しく遊んだよ。だからあなたもひとりぼっちの子がいたら勇気を出して声をかけてあげようね。というお話です。

 本当に気もちがわるいですね。ひとりぼっちは寂しいことで、「いっしょにあそぼうよ」と声をかけてあげたら誰もが喜ぶと思っているのです。なんども同じことを言って申し訳ないのですが、大人数で遊ぶことが好きな子どももいれば嫌いな子どももいます。おにごっこは好きだけどドッジボールは嫌いという子どももいるでしょうし、室内での遊びは好きだけど屋外での遊びは嫌いという子どももいるでしょう。

 それらを全部ひとまとめにして、ひとりぼっちの子は「本当はみんなに混ざりたいけど混ざれないだけなんだ」と勝手に決めつけているのです。

 「みんなちがってみんないい」だなんて言いながら、道徳という正解を掲げて相手の気もちを決めつけているというわけです。

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 そんなことを思いながら、ツイッターやブログやZOOMやと、いろいろなことをしているのですが、最近気がついたことがひとつありました。それは「相手の気もちなんてわからないからこそ、自分の気もちを表現しなければならない」ということです。

 相手の尺度で勝手に想像されて決めつけられたら嫌ではありませんか。相手の頭の中のことなので、その想像が合っているのか間違っているのかもわかりません。上に書いたように「相手の気もちなんてわかるはずがないのに決めつけるのはおかしい!」と叫びつづけても仕方がないのでしょう。他人を変えることはできませんからね。

 どうせ相手はこちらの気もちを勝手に想像して勝手に決めつけてくるのです。それならば、決めつけられる前に「自分はこう思っている」と表明してやればいいのです。相手に「それはただのお前の想像だぞ」と教えてやればいいのです。そうすれば、変な誤解も少なくなり、コミュニケーションはよりスムーズになるのではないでしょうか。

 実際に、このブログを読んでくださっている方とお話をするのはとてもおもしろいです。理由は簡単です。相手が自分のことを知ってくれているからです。ふだんからこちらの考えを提示しているからこそ、相手の裁量で勝手に想像されることがありません。

 だからこそ、余計な探り合いもなく、変な誤解もなく、はじめからスムーズにコミュニケーションをとることができるというわけです。
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  学校のような集団生活では、特にこの自己表現が大切なのかもしれません。大人が教えなければならないのは「相手の気もちを想像することの大切さ」ではなく「自分の気もちを表現することの大切さ」なのかもしれません。

 お互いにそれぞれの思いを表現しあうことができれば、くだらない誤解は減り、得意分野を活かしながら協力することができるようになるのではないでしょうか。「相手の気もち」とか「だれかのため」とか、そんな思いはひとまずぜんぶ忘れて、自分が生きやすくするために自分を表現することができればいいのかもしれません。

taishiowawa.hatenablog.com

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【お知らせ】

 今週の金曜日、21時スタートです。言ってしまえばこれもひとつの自己表現であり、そんな自己表現を見てくださっているみなさんとのコミュニケーションです。なんの役にも立ちませんし、勉強にもなりませんが、興味がある方はぜひあそびにきてください。

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