ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【木】何を書くかではなく、何を書かないか

 

 おはようございます。シャーペンとボールペンは遠くから見れば同じです。漢字辞典と国語辞典も遠くから見れば同じです。蛇とロープも遠くから見れば同じです。お茶とコーヒーも遠くから見れば同じです。

 国語と算数は遠くから見れば同じです。理科と社会も遠くから見れば同じです。好きと嫌いも遠くから見れば同じです。嬉しいと悲しいも遠くから見れば同じです。あなたとわたしも遠くから見れば同じです。今日はそんなお話です。どうも、インクです。

 

何を書くかではなく、何を書かないか

  この世界のすべてを、この記事に書き表すことはできません。なぜならこの記事は、この世界の一部として成立しているからです。世界の一部だなんて言うと、大げさなのかもしれません。この記事がなくたって、べつに世界は変わりませんからね。

 この世界とこの記事とのあいだには、いくつものフィルターが存在します。この世界の中に地球という星があり、その星の中に日本という国があります。そして、その国の中に筆者が住んでおり、その筆者は日本語という言語をつかっています。そして、その日本語をつかって、2020年5月14日に書かれた文章が、この記事だというわけです。

 厳密に言えば、もっと多くのフィルターを通っています。当然フィルターを通れば通るほど、その範囲はだんだんと小さくなり、母体である「世界」からは遠ざかっていくことになります。世界の一部の一部の一部の一部の・・・一部がこの記事だというわけです。

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 しかし、これらのフィルターはすべて人間の思い込みです。ここからは「宇宙」でここまでは「地球」と、その境界を定めているのは人間です。「日本」という国の国境を定めているのも人間ですし、「日本語」という言語を定めているのも人間です。人間が勝手に定めているだけであって、その境目に壁がそびえ立っているわけではありません。

 要するに、それらの思い込みさえなければ、すべてはおなじだということになります。地球も宇宙ですし、日本も宇宙です。そもそも、そこにちがいがないのであれば「宇宙」や「地球」や「日本」という言語すら必要がなくなるでしょう。だっておなじなんだもの。わざわざ呼び分ける必要がありません。

 庵野秀明監督が『エヴァンゲリオン』で描こうとしていたのはこういうことなのではないかと勝手に解釈しています。「思い込み」の超越こそが「人類補完計画」であり「インパクト」であるというわけです。花沢健吾先生の『アイアムアヒーロー』でいうところの「ZQN」にも近しいところがあるのかもしれません。そう考えると、人間の思い込みは「ATフィールド」だということになりますね。

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 きっと「おいおい、なんだ今日の記事は」と思っていることでしょう。「宇宙」とか「地球」とか、話が大きすぎやしないかと。でも、今日この記事をとおして書きたかったことのほとんどは、これまでの話にすべて詰まっています。 

 ただ、このままだとSFになりかねないので「言語」という領域にスポットを当てて、もうすこし話を進めようと思います。

 ここまでの話がちゃんと伝わっていれば、言語は「自由」や「解放」の対にあるものだということがわかっていただけたのではないでしょうか。

 言語とは、世界を細かく分類し、その境界をみんなで信じるための道具です。「地球」ということばを共有することで宇宙と地球を区別し、「日本」ということばを共有することで日本と他国を区別しているのです。本当は全部おんなじなのに。

 だから「ことばが世界を広げる」という発想は間違っています。そもそも言語自体が、世界を小さな枠で囲んで狭めていくための道具です。ことばをつかっている時点で、それはもう世界を狭めているのと同義なのです。

 どうしてわざわざそんなことをするのかというと、人間は大きいものを把握することができないからです。すこしでも小さくすることで世界を分類し、把握したつもりになっているというわけです。何度も言う通り、その把握の前提にあるものは「思い込み」です。結局はなにもないのとおなじです。

 要するに、把握したつもりになって安心を得たいのです。わからないものは怖いですからね。思い込みを前提とした言語を通じて、少しでも世界を理解したつもりになり、たとえそれがまやかしであってもかまわないからわたしたち人間は安心したいのです。

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 ある意味この「安心」の対にあたるのが、人間の「好奇心」です。「思い込み」という枠の外にはどんな世界が広がっているのかを知りたくなってしまうのです。わたしたちは、そんな枠の外への挑戦を「芸術」と呼んでいます。このように定義すれば「芸術はよくわからないものだ」という捉え方にも合点がいくのではないでしょうか。

 しかし、そんな枠の外への挑戦をするためには、結局「言語」や「絵の具」や「楽器」など、具体物を用いて表現するしかありません。これまでに説明してきたように、具体物をつかっている時点ですでに世界を狭めているのとおなじです。

 枠をとっぱらうために枠を定めなければならないのです。ちゃんと伝わっているでしょうか。この説明。「芸術」という分野は、このようなとんでもなく大きなパラドックスを抱えています。さらに根本的なことを言えば、わたしたちが人間である限り「人間」という枠の中で右往左往するしかないのかもしれません。もちろん、このような矛盾こそが「芸術」のおもしろさでもあるんですけどね。

 だから今書いているこの文章も、大きな大きな世界の一部を小さな小さな枠で囲っているというわけです。この記事に書かれていることなんて、どんでもなく小さなものです。随分長々と話してしまいましたが、この記事のタイトルの意味がわかっていただけたでしょうか。何を書くかではなく、何を書かないか。こうやって文章はつくられていくのです。

taishiowawa.hatenablog.com

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【お知らせ①】

 現在ツイッターにて、えむおーさん(@Mo24555713)と「400字アドリブ文通」という企画を進行しています。今日は3往復のうちの3通目、ちょうど折り返し地点です。どんな返事を書こうかな。毎晩18時に更新していますので、まだ読んでいない方は今のうちに1・2通目を読んでおくことをおすすめします。

 

【お知らせ②】

 今回の企画は「話す人」と「聞く人」に分けて募集をかけているのですが、まあ「聞く人」の多いこと。もちろん来てもらえるだけでとてもありがたいのだけれど、せっかくだったら話そうよ。ときには勢いも大切です。「わたしなんかが」を捨てること。新規参加希望・変更はDMまで。

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【お知らせ③】

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