ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【月】大体のことは本当に気のせい

 

 おはようございます。せっかく時間があるので、積読の山に埋もれていた吉本隆明さんの『共同幻想論』を読み始めました。

 筆者は、詩人であり、文芸評論家であり、思想家でもある人物です。作家である吉本ばななさんのお父さんと言えばわかりやすいのかもしれません。

 恥ずかしながらその存在を知ったのはつい最近のことでした。まさにこのブログの読者の方に「近しいところがあるかもしれない」と教えていただきました。

 現在さまざまな形で国家論の試みがなされている。この試みもそのなかのひとつとかんがえられていいわけである。ただ、ほかの論者とちがって、わたしは国家を国家そのものとして扱おうとしなかった。共同幻想のひとつの態様としてのみ国家は扱われている。(中略) 

 つまり、かれらは破産した神話のうえに建物をたてようとしているのだが、わたしは地面に土台をつくり建物をたてようとしているのである。このちがいは決定的なものであると信じている。

 この引用は『共同幻想論』の序の最後にあたる文章です。そもそもの根っこの部分を疑って考えていこうという姿勢はやっぱりおもしろいなと思いました。

 それと同時に、すでに誰かが考えていることは、こうやって吸収していかないと時間がもったいないということに改めて気づかされました。

 頭のよいだれかが人生の貴重な時間を割いてすでに考えてくれているのなら、それをありがたく頂戴すればいいのです。それが今を生きる人間の特権です。自分で一から考えていてはキリがありませんからね。

 簡単に読めるものではないので時間はかかるかもしれませんが、外に出られないこの期間中に読み終えられたらなと思います。どうも、インクです。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

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  • 作者:吉本 隆明
  • 発売日: 1982/01/16
  • メディア: 文庫
 

 

大体のことは本当に気のせい

  キャッシュレス化が少しずつ進み「お金は共同幻想である」ということが語られるようになりました。お金はただの紙切れであり、みんながその価値を信じているからこそ成立しているというアレです。

 この考え方はべつに新しいものではなく、もともとあったものにスポットが当てられたにすぎません。すべてを読んでいないので適当なことしか言えませんが、先ほどご紹介した吉本隆明さんの「共同幻想論」はまさにこういうことなのではないかと思っています。そこで述べられている対象は「お金」ではなく「国家」ですけどね。

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 なんなら「お金」や「国家」に限らず、この社会に存在しているもののほとんどが「共同幻想」で成り立っています。 

 たとえば「学校」もただの幻想です。みんながその建造物を「学校」だと信じ、同じ年齢の子どもたちが集まって勉強をするべきだと信じているからこそ成立しています。

 もしだれも「学校」を信じていなければ、ただの大きな建物がまちの真ん中にポツンと建っているだけです。まあ信じられていなければ、そもそも建物自体がつくられることもなかったでしょうけどね。

 数日前の記事で取り上げた「芸能界」も幻想です。そんな世界はどこにも存在していません。芸能人も一般人も、みんな同じ人間です。両者が住んでいる世界に国境があるわけでもありません。

 「国境」も幻想ですね。はじめから地面に線が引かれているわけではありません。ここからここまでが自国だと、勝手に信じているだけです。全員が信じているから成り立っているのであって、誰かが信じることをやめれば「国境」なんてものはあっさりと意味を失い、侵略が始まります。

 今でも国境争いがつづいている地域もありますが、逆によくここまで「国境」という幻想を共有できたものだなと思います。きっとその過程でとんでもない量の血が流されてきたのでしょう。

 大きいものから小さいものまで、幻想を共有することは人間の得意技であり、そうすることでこれだけの文明を築き上げてきたのです。

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  ただその一方で「一度共有された幻想を疑えなくなってしまう」という問題点も兼ね備えています。それこそ冒頭でも話した「お金」に関する共同幻想なんて、「お金」の在り方が変わり始めたからこそ注目されるようになりました。逆に言えば、それまでは「お金」が幻想であるということすら忘れて、当たり前のようにつかっていたというわけです。

 一度「当たり前」になってしまうと、その本質を忘れて、考えることをやめてしまいます。先ほど述べたように、幻想をつくり出して共有することこそが人間の得意技ですが、同時に、それが幻想であったことをすぐに忘れてしまうのもまた人の得意技なのです。
taishiowawa.hatenablog.com

 上の記事ではおもしろおかしく書きましたが、実は今日の記事と内容はほとんど同じです。まわりの世界が、ウソだったとしたら、幻想だったとしたら、あとはもう自分の意志で何を信じるのかを選んでいくしかありません。

 幻想であることを自覚して、自分の人生を自分で選びながら生きていくのか。それとも、誰かが決めた「当たり前」の中で、それが幻想であることにすら気がつかずに生きていくのか。まさに『マトリックス』の世界です。どちらの道に進むのかはもちろん個人の自由です。くれぐれもエージェント・スミスには気をつけてくださいね。

マトリックス (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
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taishiowawa.hatenablog.com

 

 つい先日、毎朝更新をはじめて200日が経過したのですが、最近になってようやく、思考の断片が繋がるようになってきました。「いま書いていることって、あの記事で書いたことと近いな」とか「まったくちがうことを書いているように見えるけれど、結局はあの記事で書いたことと同じだな」とか。

 度々言っているとおり、取り扱っているものがちがうだけで、毎日同じことを書いているつもりではいるのですが、やはりひとつの記事で書き表わせることは限られています。ひとつの記事に書かれていることは、広いマップのほんの一部でしかありません。

 そのマップの全体像が、自分でも見えているようで見えていなかったのですが、こうして毎日書き続けることですこしずつ解像度が上がってきた気がします。あまり好きなことばではないのですが「継続は力なり」ってきっとこういうことなのでしょう。