ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】評価と多様性は相反する

 

 おはようございます。昨日はひたすら『キングダム』を観ていました。これまで歴史ものにはまったくハマらず、中国史もほとんど知らなかったのですが、改めて勉強しなおしたいと思いました。知識がある上で観るとまた違うおもしろさがみつかるのでしょう。

 中国の春秋戦国時代といえば『キングダム』に限らず、様々な物語の舞台になっています。2000年以上も前のことなのに、未だにそれぞれの武将に根強いファンがいます。それはつまり、間違いのない魅力がそこにあるということです。諸子百家の思想も含めて、STAYHOMEと言われている間にいろいろと調べてみようと思います。どうも、インクです。

 

評価と多様性は相反する

 評価とは「よい」を定める行為です。勉強ができることがよい。運動ができることがよい。明るく元気ですごすことがよい。大きな声であいさつをすることがよい。困っている人を助けることがよい。友だちと仲良くすることがよい。先生の言うことを素直に聞くことがよい。

 きっとこれらの「よい」の中には、ホンモノの「よい」とニセモノの「よい」が混ざっています。みんなが「よい」と言っているからよく見えているだけのニセモノが混ざっているということです。しかし、それらをみつけるのは至難の技です。変装がとても上手なだけでなく、まわりの人たちがそれを「よい」と信じているのでモザイクがかかります。

 仮にそれがニセモノだと気付き、必死にみんなに訴えかけたとしても「何を言っているんだ」と笑われておしまいです。ハナから誰もニセモノだなんて疑っていませんからね。それが「よい」のは当たり前。わざわざ考え直す必要なんてないというわけです。

 ほかにも「よい」について気をつけなければならない点がふたつあります。ひとつは「よいを定めること」は「わるいを定めること」の裏返しでるという点。もうひとつは「よいを定めること」と「多様性を認めること」は相反するという点です。ひとつずつ順番に考えていきましょう。

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1.「よいを定めること」は「わるいを定めること」の裏返し

  「よいを定めること」は「その対にあるものをわるいと定めること」とほとんど同じです。「背が高い男性はかっこいい」と定めると、当人の意図には関係なく、自動的に「背が低い男性はかっこわるい」が定まります。後からどれだけ「別に背が低くても問題ないよ!」と言ったところで、ただのなぐさめにしかなりません。

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 実は似たような話を昨日の記事にも書いています。「みんな仲良く」を声高に叫ぶことで「ひとりでいること」が悪になってしまいます。誰かを評価する立場にある人は、このことにとても鈍感です。後になってどれだけ「ひとりでも問題ない!」だとか「絶対に友だちはできるから大丈夫!」だとか言ってももう手遅れです。結局は先ほどの「別に背が低くても問題ないよ!」と同じです。余計なお世話にしかなりません。何かを「よい」と評価するということは、同時に何かを「わるい」と評価することでもあるのです。

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 2.「よいを定めること」と「多様性を認めること」は相反する

  「よいを定めること」は、あらゆる価値基準の中から上位基準を決めるということです。先ほど述べたように、そこで選別されなかった価値基準は自動的に「わるい」に分類されます。もちろん段階的なグラデーションはありますけどね。

 要するに、評価とは選別です。誰かが勝手に「よい」を決め、そこに当てはまるか当てはまらないかで人を判別していきます。よいものは店頭へ、欠陥があるものはアウトレットへ、どうしようもないものはゴミ箱へ。それぞれの場所へと運ばれていくのです。

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 このような評価と「多様性を認める」という考え方が、同時に成立することはありません。先ほども書いたように、何かを「よい」と言うことは何かを「わるい」と言うことと同じです。「わるい」は自ずと排他的な空気をつくり出します。

 もし本当の意味で「みんなちがって、みんないい」が成立するのであれば、それはもはや「よい」がないのと同じです。みんながみんな「よい」になれば、差異が消滅し、同時に「よい」という概念そのものが消え失せてしまうのです。

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 それにも関わらず学校という場所は、子どもたちを評価しながら「多様性を認める」と謳っています。自分たちで多様性を限定しておきながら「みんなちがってみんないいんだよ」と言っているのです。どないやねんという話です。学校の多様性が失われる原因は、間違いなく先生にあるのです。

 その上で、本当に多様性を確保しようと思うのなら、先生が黙るか、子どもが先生の評価を真に受けないかのどちらかです。きっとどちらも難しいでしょう。先生が子どもたちを評価することは、ルールとして定められています。黙ってしまうと、仕事を放棄しているのと同じになります。

 だからと言って、子どもに「真に受けるな」というのもなかなか酷な話です。真に受けないということは「いや、その評価よりも絶対にこっちの方が『よい』はずだ」という確固たる「よい」の基準を自分でもっているときにはじめて成立することです。自分の「よい」を形成していく途中段階にある子どもたちに、その判断を強いることは相当難しいでしょう。

 むしろ、大人から言われた「よい」をそのまま鵜呑みにしてしまうことにこそ怖さがあります。「よい」と判断する基準が「大人がそう言っていたから」になってしまうからです。これは、自分で何も考えていないのと同じです。言われたままに動くロボットです。外山滋比古の言うグライダー人間です。

 何がよくて、何がわるいのか。それを自分の頭で考えられる子どもたちを育てなければなりません。残念ながらこの記事の中で「具体的にこんなことをしよう」という手立てを示すことができません。評価は、筆者の中でもまだまだ納得のいかないことが多い分野です。

 ただ、だれかを評価する立場にある人は、上に示した2点の特徴を充分に自覚しておく必要があるのではないかと思います。もしかするとあなたの評価のせいで苦しんでいる子どもがいるかもしれません。

taishiowawa.hatenablog.com

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 昨日は「教育を存分に語れるバー 第3回」を開催しました。もしかすると誰も来てくれないんじゃないかと思っていたのですが、直前にドドドっと連絡をくださり、いろいろな方の話を聞くことができました。教育関係者以外の方も来てくださったおかげで、それこそ多様な角度から考えることができました。

 とくに「目玉焼きに何をかけるか」という話は盛り上がりましたね。醤油派、塩こしょう派、ソース派など、まさに多様性が見られました。「山と海のどちらが好きか」という話もおもしろかったですね。「長財布か折りたたみ財布か」という話のときには画面の前で大笑いしました。

 さあ、そんな「教育を存分に語れるバー」ですが、こんな状況ですので来週も開催しようと思います。次回のテーマは「宿題の在り方」です。

 宿題を出す側である先生の意見ももちろんですし、出されてきた経験をもつ子どもとしての意見でもかまいません。きっと誰もが話すことのできるテーマだと思います。教育関係者以外の方もどしどしご参加ください。参加希望の方は当日までにツイッターへ連絡をお願いします。迷うくらいなら参加しよう。

 

第4回 教育を存分に語れるバー

テーマ:宿題の在り方

日時:2020年5月2日(土)20:00〜

場所:ZOOM(直前にリンクを送信します)

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