ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】何を信じるか、それだけですよ

 

 おはようございます。大阪旅1日目が終了しました。当たり前ですが、東京と大阪ではやはり全然違いますね。さすが天下の台所です。いつでもごはんが食べられるように、お皿やお箸があらゆるところに置いてありました。知っていますか。大阪の人は語尾に「ねん」をつけて話すんですよ。不思議ですよねん。でも、この「ねん」を聞くと「ああ大阪に来たんだな」と思うんですよねん。昨日お会いしてくださった方々はありがとうございましたねん。今日も楽しみにしていますねん。よろしくお願いしますねん。どうもねん、インクですねん。

 

何を信じるか、それだけですよ

 最近「嘘」につて考えています。「嘘」について考えるということは、「本当」について考えるということでもあります。一体何が「嘘」で何が「本当」なのか。ふたつにひとつのシンプルな問いのように見えますが、実はとても難解な2択です。

 たとえば、昨日大阪に行ったという話はすべて「嘘」です。大阪になんて行っていません。なんならほとんど部屋から出ていません。せいぜい食料調達にコンビニへ行ったくらいでしょうか。だらだらしつつ、本を読みつつ、仕事をしつつ。なんの変哲もないそんな1日でした。

 と、こんな話をしていると「いやいや、昨日会ったやないかい」と言う関西人が数名いらっしゃるかと思います。ええ、会いました。「本当」です。「え、ということは嘘だということが嘘だったということ?」と思われている方が多いでしょうか。その通り。「嘘」であることが「嘘」です。昨日は「本当」に大阪へ行きました。なんなら今も大阪にいます。そして今日も大阪の街を探検します。今日の予定は、昼にお好み焼きを食べて、夜に道頓堀で泳ぐことになっています。

 ええ、「嘘」です。昼に食べるのはたこ焼きです。お好み焼きではありません。さらに言えば道頓堀の話も「嘘」です。大阪に道頓堀なんていう場所は存在しません。道頓堀は北海道の地名です。稚内の駅にある柱につっこんでいけば、9と3/4道頓堀に到着するはずです。

 ここまでの話はすべて「本当」です。すり傷に唾をつければ治ることも、髪が伸びるのが早い人はエロいことも、すべて「本当」です。夜に口笛を吹くとヘビがくることも「本当」ですし、桃から生まれた子どもがだんごだけで動物を手懐けたことも「本当」です。強いて言うなれば「夜に口笛を吹くとヘビがくる」だけは少し「嘘」が混ざっています。朝に吹いても昼に吹いてもヘビはきます。

 

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 これまでの記事も含めて、このブログは「嘘」だらけです。毎日更新していることも「嘘」ですし、筆者が小学校の先生であることも「嘘」です。なんならこのブログの存在自体が「嘘」です。このブログはこの世に存在しません。

 「いやいや、じゃあ今読んでいるのはなんなんだ」と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、あなたが今見ているのはただの光の粒の集まりです。光の粒の集まりを、あなたが勝手に「ブログ」だと認識しているだけであって、実際はブログなんてどこにも存在していません。

  もしくはそんなあなたの眼が「嘘」である可能性も考えられます。あなたの眼そのものが「嘘」であれば、見えている世界はみんな「嘘」だということになります。「ただの仮説じゃないか」と思っているかもしれませんが、では反対に、今見ている世界が絶対に「本当」だと言い切ることができますか。

 よく言われる考え方ですが、あなたがその眼で見ていない間も、世界はあり続けていると言い切ることができるでしょうか。あなたがその眼で見たところにだけ世界が存在し、それ以外は眼をはなした隙にフっと消えているかもしれません。

 ずっと遠くで暮らしていると思っているあの人だって、実はあなたの眼の前でだけ生きていて、あなたの視界から離れた瞬間に存在そのものが失われている可能性だってあるわけです。それでもこの世界は「本当」だと言い切れますか。

 しかし、もしすべてを「嘘」だと言ってしまうと、それはそれで都合がよくありません。なぜなら「嘘」とは「本当」の対として存在しうる概念だからです。要するに「本当」がなければ「嘘」も存在し得ないのです。

 では、この世における「本当」ってなんだろう。どうですか。「難解な2択」と言っていた意味が少しずつわかってきましたか。

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 この「本当」と「嘘」の問題についてはかつての哲学者たちも随分と頭を悩ませました。自分も含めたこの世界は「嘘」なのではないか。「嘘」なのだとしたら「本当」ってなんなのだろう。このように、あらゆるものを疑いながら真理に迫ろうとしたのです。たとえば、かの有名なデカルトおじさんはこんなふうに考えました。

 

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 有名なことばですね。仮にこの世界がすべて「嘘」だったとしても、まさにそのように疑っている意識自体は「本当」に存在していると言えるのではないかという考え方です。まあ結局はデカルトおじさんでさえ、自分自身の意識しか「本当」だと言い切れなかったというわけです。自分の外にある世界は常に「嘘」を孕んでいるのです。

 それでも私たちはふだん、そこにあるものを「本当」だと思いながら生活しています。なぜそう思い込んでいるのかというと、大人たちにそう教えられながら育てられるからです。「この人は誰?」「パパ」「じゃあこの人は?」「ママ」という調子で、目の前の人の存在は「本当」だと教え込まれます。まあ、そこを疑う赤ちゃんがいたらもはやホラーですけどね。

 

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 要するに私たちが「本当」だと思い込んでいるもののほとんどは、自分の意思で「本当」だと思っているのではなく、教育や環境によって知らないうちに「本当」だと思わされているというわけです。このように考えると少し怖くはありませんか。自分の人生そのものを、自分の意思で選んでいるわけではないということですからね。知らないうちに「当たり前」が形成され、気づいたころにはそんな枠から出られなくなってしまっているのです。

 

 何を信じるか、それだけですよ

 

 もし仮に、すべてが「嘘」である可能性を孕んでいるという前提に立つのなら、もうあとは自分が何を「本当」だと信じるか。残された道はそれだけだと思います。誰かに勝手に決められてしまうのではなく、自分で信じるものを選ぶのです。

 今あなたが「本当」だと信じて疑わないその価値は、自分で選んだものですか。今あなたが正しいと思っているその価値は、本当に自分が選んだものですか。選ばされたものではありませんか。いや、きっとそのほとんどが選ばされたものであるはずです。

 たしかに誰かが決めてくれた「本当」の中で生きることは、何も判断しなくてもいいので楽なのかもしれません。ただ、そのように誰かが決めた「本当」の中に生きているということにすら気づかずに、まるで自分で決めているかのように思いこみながら生きていくことってあまりにも滑稽だとは思いませんか。

 こんなことができるのかどうかはわかりませんが、徹底的に疑って限りなくフラットになった状態で、自分が何を「本当」だと信じるのかを選んでいくことができたらいいのかもしれません。

taishiowawa.hatenablog.com

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 ここまで書いて「すごくおもしろい記事が書けたぞ」と思っているのと同時に「これ伝わるのか?」とも思っています。「 ちゃんと伝わったよ!」という方は、どしどしコメントいただけるとありがたいです。それでは、そろそろ2日目の旅の支度を始めようと思います。先ほどは「嘘」しかついていませんでしたが、今日の「本当」の予定は、昼にたこ焼きを食べて、夜にゼペットじいさんに会いにいくことになっています。あと、松坂桃李にも会いに行きます。

 

ん?そんなつまらない嘘はやめてください。

鼻が伸びるわけがないじゃないですか。