ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】自分という人間をひとつの手段としてつかえるかどうか

 

 おはようございます。あると思っていたものがなかったらかなり困りますよね。昨日は右眼用のコンタクトレンズが切れていることに気がついて、急いで注文しました。だから昨日1日は、左眼用のコンタクトレンズを右眼にも入れて生活しました。幸い右眼の視力の方が低いので、左眼用のコンタクトレンズを入れても度が強すぎることはありません。ただそれでもやっぱり、ふだんとちがうとなかなかしんどいものですね。1秒でもはやくコンタクトレンズを外したいと思いながら過ごす1日でした。どうも、インクです。

 

自分という人間をひとつの手段としてつかえるかどうか

 プライドを捨てろ。よく耳にすることばです。しかし、これは他人が言えることではありません。明確な目的があり、それを達成するために捨てるのがプライドです。個人が追い求める目的に対して、他人がどうこう言う資格なんてないのです。

 これは「〜べきだ」という言い回しにもつながります。男はこうあるべきだ。女はこうあるべきだ。子どもはこうあるべきだ。大人はこうあるべきだ。社会人はこうあるべきだ。先生はこうあるべきだ。これもまた、他人がどうこう言えることではありません。

 最近「本を出版したい」という先生に対して「目的と手段を履き違えている」と指摘しているツイートを目にしました。まさにこれです。その人が本を出版することを目的に設定したのなら、そこに向かって突き進めばいいのです。そのためにプライドを捨てられないのなら、その程度の目的だったというだけです。他人がどうこう言えることではありません。

 その目的を達成するために突き進む過程で、得られるものがきっとたくさんあるはずです。そしてそれらは子どもたちにも還元されていくでしょう。本を出版したければすればいい。有名になりたければなればいい。どこに目的を設定するかは個人の自由なのです。

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 それでも他人がどうこう言ってしまう理由は、やっぱり「〜べきだ」という考えに支配されているからです。先生は、子どもたちのためにすべてを捧げるべきだ。この考えに支配されると、本の出版が私利私欲に見えたり、子どもをないがしろにしているように見えたりするわけです。

 そもそも「誰かのためにがんばること」と「自分を犠牲にすること」は、決して同義ではありません。学校の先生はとくに、この自己犠牲の精神が過剰な気がしています。子どもたちのために。子どもたちのために。子どもたちのために。そうして、自分の心と身体を消耗し、ついには子どもたちと会えなくなってしまうのです。

 あまりにも滑稽で、皮肉が効きすぎています。しかし、そんな先生が現場には山のように存在します。子どもたちのために身を粉にして働いた結果、現場を離れていく数多くの先生方を目にしてきました。

 別に子どもたちに好かれることを目的にしたっていいのです。他の先生に認められることを目的にしたっていいし、メディアから取材を受けることを目的にしたってかまいません。「あなたという人間がどう生きるべきか」なんて、他人が決められることではないのです。

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 それでもやっぱり「〜べきだ」と言ってくる人とも、今後たくさん出会うことでしょう。それらをありがたく無視しながら、かつ不要なプライドを捨てながら、突き進んでいくだけの目的が大切なのです。今、わかりやすくそれを体現してくれているのがこの人だと思っています。

www.youtube.com

 彼が大炎上する前から動画を観ていますが、過去から現在まで、言っていることはずっと同じです。内容についてどうのこうの以前に、その一貫性が本当にすごいなと思っています。

 そんな彼が、とあるタイミングで、突然「TikTok」を始めたり「カル×ピン」という名前で音楽を始めたりするということがありました。こういうことは絶対にやらないだろうなと思っていたので、動画を観て驚いたことを今でもはっきりと覚えています。

 始めたときには「キモい」だの「ナルシスト」だのと、たくさんの人からバッシングを受けていました。今思えば、そうなることもわかった上でやっていたのだろうなと思います。本人も公言していましたが「若年層」と「女性層」のファンを獲得するため、また舞台でのパフォーマンス手段を獲得するために行っていたそうです。

 目的を達成するために、新しいファンや新しい手段を獲得した。自分という人間を目的達成に向かうためのひとつの手段として利用したというわけです。これが「プライドを捨てる」ということです。本気で目的を達成したいと願うなら、自分という人間ですらひとつの手段になるのです。

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 ちなみに彼の目的は「YouTubeで日本一を獲ること」だそうです。そこへ向かう過程、つまりは彼の人生そのものが、コンテンツとしてYouTubeで配信されています。ライフイズコンテンツ。他人の人生を覗き見できる時代。そしてその覗き見という行為そのものが応援になる時代。本当におもしろい時代に生まれたなと思います。

 そんな時代にまだ「〜するべきだ」と言いますか。まさか同じ口で「多様性は大切だ」なんて言いませんよね。

 目的がすでに明確になっているみなさんは、どうかこのような人たちに潰されることなく突き進んでください。その結果が成功か失敗かなんてどうだってかまいません。やりたいことをやりましょう。

 目的がまだ明確になっていないみなさんは、どうかせめて他の人の邪魔だけはしないでください。迷うのは勝手です。悩むのも勝手です。ただ、その個人の問題を僻みに変えて他人に向けることだけはやめてください。「あなたのため」だなんてもってのほかです。やるのならひとりで勝手にしてください。

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 実はこの記事の内容そのものも「〜べきだ」に内包されるというパラドックスを抱えています。他人が何を目的に設定するかはその人の自由だと共通理解するべきだ

 要するに、何か意見を述べるからには「〜べきだ」がどこまでもつきまとってくるというわけです。だから、正しい意見の言い方は「自分はこうする。あたながどうするかは知らない」です。ずっと「発信は自己紹介だ」と言い続けている理由はここにあります。

 もちろん今日の記事も自己紹介です。筆者はこう考えています。あなたがどう考えるかは知ったこっちゃありません。