おはようございます。昨日はかの有名なオオサカへ行ってきました。油断しているとすぐに「なんでやねん」とツッコまれるというあのオオサカです。なるべく気を張るようにしていたのですが、半日で3回もツッコまれてしまいました。
試しにこちらからツッコんでみようと思い、勇気を出して「なんでやねん」と言ってみたのですが、ものすごい目で睨まれました。どうやらイントネーションが違っていたみたいです。厳しいまちですね。
そんなオオサカを訪れたときにはいつも行くようにしている本屋さんがあります。「スタンダードブックストア」という本屋さんです。かつては、梅田・心斎橋・天王寺の3店舗だったのですが、今は天王寺の1店舗だけになりました。その天王寺のお店もつい最近移転したため、できたてほやほやの状態です。
パッと見た感じは、最近やけに多くなった「オシャレ風な本屋さん」なのですが、変に気どっていないんですよね。並んでいる本もおもしろくて、未知との出会いを求めて行くにはとてもいいところだと思います。みなさんもオオサカに行く際にはぜひ立ち寄ってみてください。どうも、インクです。
人はことばを必要としないコミュニケーションに憧れている
人はことばを必要としないコミュニケーションに憧れている
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年7月12日
ことばには「言わなくてもいいことは言わなくなっていく」という特徴があります。たとえば「太宰を読む」ということば。言わずもがなこれは「太宰治の作品を読む」という意味です。
この場合は、フランス文学の研究者である太宰施門のことでもなければ、『男はつらいよ』シリーズのタコ社長役で有名な太宰久雄のことでもありません。また、太宰治の身体に文字が書かれているわけでもなければ、太宰治の表情を読むわけでもありません。
「太宰を読む」というだけで「太宰治の作品を読む」という情報が伝達されたことになるのです。このような事例は日常会話の中にいくらでもあるでしょう。今日の記事の2文目にある「昨日はかの有名なオオサカへ行ってきました」という文にも、かなり多くのメッセージが込められています。
「昨日は」の「は」という助詞からは「ほかの日はオオサカにいない」という情報を読み取ることができます。「かの有名な」ということばからは「すこしふざけようとしている」という筆者の心もちを読み取ることができます。しかし、当然ながらそんなことをわざわざ説明することはありません。
仮にすべてを説明するとしたら「昨日はかの有名なオオサカに行ってきました。ちなみにその前の日はオオサカにはいませんでした。また『かの有名な』だなんて言い方をしましたが、すこしふざけただけです。みなさんがオオサカのことをご存知なことくらいわかっています。怒らないでください。『オオサカ』とカタカナで表記している理由もおなじようなものです。カタカナにすればなんだか架空のまちみたいに見えるでしょう。ちょっとふざけただけではありませんか。筆者の遊び心です」という感じになります。
事細かに説明をするというのは、単純に恥ずかしいわけです。自分のギャグを自分で解説するほど恥ずかしいことはありません。また、読んでいる方も嫌になってくるでしょう。わざわざ言わなくても済むようなことを言われるというのは、なかなかにストレスを感じるものなのです。
ことばが「言わなくてもいいことは言わなくなっていく」という特徴をもち合わせているということはわかっていただけたでしょうか。ほかの言語に堪能なわけではないので本当かどうかはわかりませんが、日本語はとくにハイコンテクストな言語だと言われていますね。「言わなくても伝わる」ということに、何かしらの憧れを抱いているのでしょう。
「以心伝心」なんてまさにその憧れを表したようなことばです。ほとんどの場面においてよい意味でつかわれることばだと言えるでしょう。もともとは禅宗のことばで、言語で表せない仏教の真髄を師から弟子へと心で伝えることを意味したそうです。
「ことばで表しきれないものがある」ということや「心と心で人がつながる」ということに対しては、なんとなく同意することができるのではないでしょうか。人はことばを必要としないコミュニケーションに憧れているのです。
それを言い換えると「人はできるだけことばをつかいたくないと思っている」ということになります。仮にこれが事実であったとしても、無意識に望んでいるのだと思います。「思考」とおなじですね。「思考」も本来なら脳に負担をかける行為なので、生物としてはできる限り回避しようとするのだそうです。進んで行なっているように見えて、心の奥底では抵抗する本能があるのです。
このように考えていくと、行き着く先は「テレパシー」です。冗談ではありません。本気で言っています。わたしたち人間は「テレパシー」に憧れています。ただし、その「テレパシー」の信号が言語では意味がありません。ただ口の筋肉をつかいたくないだけになってしまいますからね。
言語以外のコミュニケーションツールを用いて意思疎通が成立しなければなりません。いや、そもそもツールを用いている時点で理想からは離れてしまっているのかもしれません。まさに以心伝心の状態です。自分の思考のコピーがそのまま相手の頭にペーストされる。これこそが究極の共感であり、もっとも理想的なコミュニケーションの形なのかもしれません。
読んでいただいたらわかるとおり、今日の話はかなり極端です。しかし、ものごとを考える上で極端な例を探るということはとても大切だと思っています。手の届く範囲だけで考えていても、行き詰まるのがオチですからね。いちど枠をとっぱらってから、思考をはじめるのです。そういう意味では、上の話なんてまだまだせまいのかもしれません。
結局は最初に広げた範囲の中でしか考えることができないわけですからね。回収できるかどうかはさておいて、手元の風呂敷は可能な限り広げてしまうべきなのです。「テレパシー」ということばが出てきたときに鼻で笑ったそこのあなた。よく覚えておいてくださいね。