ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【月】進めば進むほど人の数は少なくなっていく

 

 おはようございます。昨日スーパーに行こうと思って外に出たら、パラパラと雨が降っていました。そんなに遠いところではないので、このまま行ってしまおうと歩いていたのですが、帰りに雨脚が強くなっている風景が想像できたので、傘をとりに戻りました。

 すると、不思議なもので、家に近づくにつれて雨脚が弱まっていくんですよね。ついには「パラパラ」という擬音語がつかえないくらいに、弱くなってしまいました。「やれやれ」と思い、玄関前で2度目のUターンをして、スーパーへと向かいました。

 すると、不思議なもので、スーパーに近づくにつれて雨脚が強まっていくんですよね。ついには「パラパラ」という擬音がつかえないくらいに、強くなっていきました。「やれやれ」と思い、スーパーの手前で3度目のUターンをして、我が家へと向かいました。

 さて、ここで問題です。いまバスに乗っているのはぜんぶで何人でしょう。どうも、インクです。

 

進めば進むほど人の数は少なくなっていく

  金曜日に開催した「らぱいんざWORLD 第2回」にて「深いってなんだろう?」という話になりました。今日はそのときに話したことも含めて、改めてまとめておこうと思います。

 主体的・対話的で深い学び。学校の先生は耳にタコができるくらい聞いたことばかと思います。新学習指導要領のキーワードとも言えることばですね。

 この「深い学び」について語ろうとすると、よくこんな話がでてきます。「他者と対話をすることで共通点や相違点をさぐり、自分の考えを深めることが大切なんだ」という話です。

 べつに間違っちゃいないのでしょうが、この意見自体が浅いよなあといつも思ってしまいます。他者を鏡として自分の輪郭を把握しようとすることは、共同学習を行う上での前提であり、それ自体が「深い学び」であるとは言えません。自分の輪郭を捉えた上でどうするのか。この先につづくプロセスこそが「深い学び」を実現させるために重要なポイントなのです。

 そんな過程をうやむやにしたまま「深い」ということばが多用されているような気がしてなりません。改めて「深い」って何なのでしょう。「深い学び」を実現させるためにはどのような手順を踏む必要があるのでしょう。

 いつものことですが、すべては個人の見解ですので、読んだ上で思うことがあれば、コメント欄かツイッターに書いていただけるとありがたいです。

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 先ほども述べたように、他者が自分をうつす鏡だと捉えるならば、結局「深い学び」は自分ひとりで行うものだということになります。鏡にうつるのは、自分の姿ですからね。それぞれがそれぞれの方向に潜っていくことになるわけです。

 はじめはたくさんの人が集まっているところから出発しますが、深くに潜れば潜るほど人の数は少なくなっていきます。ひとりひとりがまったく違う方向に進んでいるわけですからね。

 だから「深い学び」というのは、孤独との戦いでもあるわけです。あまりに潜りすぎると息ができなくなってしまいます。だからといって、いつまでも浅瀬で潮干狩りをしているわけにもいきません。潜って潜って、宝物を探し出さなければならないのです。

 ところが、仮に宝物を見つけられたとしても、その深さにはもうだれもいやしません。浅瀬まで持って上がらなければ、価値を認めてもらうことができないのです。ただ悔しいことに、浅瀬に上がるころにはほとんどの宝物が水圧で潰れてしまっています。だからこそ「深い学び」として潜り方を学習しておかなければならないのです。

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 これらの一連の流れを物語として描き出したのが、6年生の国語教材としても有名な立松和平さんの『海の命』です。主人公である太一は、海の底で「瀬の主」に出会います。先ほどのたとえ話で言うところ「宝物」ですね。

 太一の父は、その「瀬の主」をもりで突き、そのまま海の底で亡くなってしまいます。一方で太一は、「瀬の主」と対面するも、もりで突くことはせずに、海面へと浮かび上がります。両者の生き様が対比的に描かれており、どちらがよいという価値づけはなされぬまま、物語は終わっていきます。

 潜っている当人としては「宝物(瀬の主)」をみつけたその瞬間が、感情のピークだと言えるでしょう。潜って潜って、ようやく価値があるものをみつけられたわけですからね。さらに言い換えるのなら「本当の自分をみつけた」といったところでしょうか。

 しかし、先ほども述べたように、その価値をそのままの形で浅瀬にもちかえることはできません。どこかで折り合いをつけて、なにかを諦めて、海面を目指さなければならないのです。キラキラ輝く宝物は海の底にしかありません。大きな大きな瀬の主は海の底でしか見ることができません。本当の自分の姿は潜ったその先でしか見ることができないのです。

 そこで「自分の命」を天秤にかけることになるわけですね。折り合いをつけて、何かを諦めてまで生きる価値があるのかどうか。もちろん「命は大事だよ」という教えを守るのであれば、太一の生き方を選ぶべきなのでしょう。

 ただ、海の底で死んでいった太一の父が幸せではなかったのかというと、一概にそうとは言い切れないかもしれません。命があるうちにはその価値を誰とも共有することができませんでしたが、自分の中でのピークに死を迎えることができたわけです。はたしてこれを不幸だと言うことができるでしょうか。

 こんな話を小学6年生で読むわけですからね。とんでもないですね。

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 なんだか随分と広がってしまいましたが、筆者の思う「深い」ってこんな感じです。深くに潜るというのは孤独で不安で寂しいものです。もしかすると命を落とすことになるかもしれません。

 それでもわたしたち人間は、深みに魅せられ、潜ろうとします。それはもはや「人の意見と比べてどうの」とか「命の大切さがどうの」とか、そんなところで語れるものではありません。

 そう考えると、学校教育の中でできることは限られてくるのかもしれません。なんども言うように、実際に潜るのはひとりですからね。学校にできるのは、その前段階。潜るポイントをいっしょに探し、潜り方を教えるということです。

 その先でどうするのかは、ひとりひとりが決めることです。潜り方を教わって、潜らないという選択をすることも大いに構わないでしょう。すこし潜って上がってきてもかまいませんし、浅瀬で水遊びをするだけでもかまいません。

 学校の先生に「もっと深くまで潜れ」と言うような権利はないのです。「深い学び」が実現できる環境を全力で整え、あとは子どもたちの判断に委ねるしかないというわけです。

taishiowawa.hatenablog.com

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