ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】ことばはどこまでいってもものごとの表層でしかない

 

 おはようございます。1週間に1本ずつ映画を観ていく中で、とあるひとりの監督の作品を追ってみたいと思うようになりました。それは、スタンリー・キューブリックというアメリカの映画監督です。

 映画好きの人たちからは「今さらキューブリックかよ」と笑われてしまうかもしれません。これまでは、映画なんてほとんど観ることのない人生を送ってきたのです。無知であることは許してください。あなたにだってそんな時期があったはずです。

 はじめて観たキューブリック作品は『時計仕掛けのオレンジ』でした。タイトルは耳にしたことがありましたし、日本のアパレルブランドである「UNDERCOVER」が2019年秋冬のコレクションでコラボレーションしていたのでおおよそのビジュアルも知っていました。

 そんな状態で映画を観たのですが、なるほどなあと思いました。インテリアからファッションまで、監督のこだわりがとんでもないことは一目瞭然でした。そこから定番中の定番である『シャイニング』と『2001年宇宙の旅』を観たので、今日は『フルメタル・ジャケット』を観ようと思っています。

 観たことがない作品がたくさんあるというのはとても幸せなことですね。どうも、インクです。

 

ことばはどこまでいってもものごとの表層でしかない

 こんなふうに考えたことはありませんか。自分が見ている色と他者が見ている色は、もしかするとまったく違うかもしれない。自分が「赤色」と呼んでいるその色は、他者の目を通してみれば「青色」だったりするのかもしれない。

 しかし、それをたしかめることはできません。だからこそ「まったく違う色をひとつのことばでひとくくりにして認識しているだけ」という可能性も充分に考えられるのです。視覚的に認識できないものごとを表すことばならなおさらです。

 たとえば感情を表す「うれしい」ということば。まるでおなじ感情を共有しているような気になっていますが、Aさんが思う「うれしい」とBさんが思う「うれしい」とではまったく違うのではないでしょうか。仮におなじ時間を過ごして「うれしい」ということばに至ったとしても、まったく同じ感情を表しているとは言えないはずです。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

 このように、それぞれのことばには認識のふれ幅があります。どれだけ忠実に表現しようと試みても、相手が受け取るころには形が変わってしまっています。いや、そもそも自分の思いをことばに変換する時点で、その変化はすでにはじまっているのです。

 ことばとは、世界を小さく切り取るための枠です。「リンゴ」ということばをつかうことで、リンゴとそれ以外のものを区別しています。だから、私たちは「ゴリラ」を見て「リンゴ」だと思うことはありません。ところが、もし「リンゴ」ということばがなければ「ゴリラ」のことを「大きくて黒い毛が生えた動くリンゴ」だと認識するかもしれません。

 もちろんたとえ話です。そもそも「リンゴ」ということばがなければ「大きくて黒い毛が生えた動くリンゴ」という認識自体が存在し得ないことになりますからね。とにかくことばというものは、世界を小分けに分類し、認識したつもりになるために存在しているというわけです。

f:id:taishiowawa:20200724194028p:plain

 上の話を前提とするならば、ことばが世界の真理を表現することはできないということになります。組み合わせの妙を最大限に活用して、どれだけ忠実に表現することができたとしても、ことばをつかっている時点ですでに真理からは離れてしまっています。

 ことばはどこまでいってもものごとの表層でしかありません。どれだけ一生懸命に手を伸ばしたって、ことばで世界の真理に触れることはできないのです。もちろんそこには悔しさのようなものがありますが、決して嘆く必要はありません。

 むしろ、絶対に届かないからこそ、追い求めるおもしろさがあります。何なら、本当に触れてしまったらまずいような気さえします。ひとつの夢を叶えるということは、ひとつの夢を失うということですからね。人類がことばの夢を失ったら、とんでもなく大きな代償を払わなければならないのではないでしょうか。まさに『鋼の錬金術師』で言うところの「真理の扉」です。弟の身体どころでは済まないかもしれません。f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

 冒頭に述べたような映画でもまったくおなじことが言えます。あくまでも映画は、目に見える状態に昇華させたひとつの表現形態であって、それ自体がものごとの真理ではありません。結局は世界をどう切り取って、人が認識できる形に変換するのかという話です。

 それがもしかすると音楽なのかもしれませんし、絵画なのかもしれません。それぞれがそれぞれに、世界を認識するという夢に向かって懸命に手を伸ばしているのです。ただし、先ほども述べたように、その夢には決して触れることができません。だからこそ人は、そんな夢に触れることのできる「神」に思いを馳せるのでしょう。場合によっては、その夢自体が「神」として扱われるのかもしれません。

 たぶんですが、そんな「神」は案外近くにいるんですよね。遠くにいるから触れられないのではなく、近くにいるのに触れようとするたびに遠ざかってしまうのです。ソーシャルディスタンスですね。目の前にいるのに、絶対に近づくことができないのです。

 所詮はことば、されどことばです。こうして文章を書き続けるかぎり、これらの「神」への憧れと畏敬の念を忘れずに、ことばを紡いでいけたらいいですね。

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

【お知らせ】

 2020年の抱負は「人に会う」でした。しかし、このようなご時世なのでなかなか身動きがとれずにいました。まだまだ落ち着いたとは言えない状況ですが、緊急事態宣言もずいぶん前に解除されたということで、すこしずつでも動いていけたらなと思っています。あまり大きな声では言えませんけどね。

 今日はさっそく大阪に出没します。8月には東京に行きたいところですが、さすがに迷わざるを得ません。大阪と東京の何が違うんだという話ですけどね。まあ、状況を見ながらにはなりますが、少しずつ移動を増やしていけたらと思っています。

 会ってやってもいいよという方、コーヒーかお酒をいっしょに飲もうぜという方、おいしいごはんを食べさせてやるぜという方。そんな方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報ください。とくに、おいしいごはんを食べさせてやるぜという方。お待ちしております。