おはようございます。昨日、目の前を自転車で通り過ぎた子どもが「あ、公園に扇風機を忘れた!」とつぶやいて、来た道を戻っていきました。
わたしは公園に扇風機を忘れる。文をつくる問題でこのような答えを書く子どもがいたら、先生は丸をつけなければならないのかもしれません。
10年後には一体なにを公園に忘れるようになるのでしょう。もしかすると「あ、公園に身体を忘れた!」みたいなことが起こりえるかもしれませんね。どうも、インクです。
無責任でいられるからこそ優しいことばを投げかけられる
無責任でいられるからこそ優しいことばを投げかけられる
— インク@青年求職家 (@firesign_ink) 2020年6月25日
優しいことばは嘘くさい。なんだか表面的で、怪しく思えてしまいます。だれかの体調不良に対しての「大丈夫ですか?」とか「無理をしないでくださいね!」とか「ゆっくり休んでくださいね!」とか。なかなか好きになれないことばたちです。
本当はべつにどうだっていいのです。その人の頭がちょっとくらい痛かろうが、知ったこっちゃありません。その人のお腹がちょっとくらい痛かろうが、自分にはなんの関係もないのです。
それにも関わらず、まるで心の底から心配しているようなテンションで「大丈夫ですか?」と声をかける人がいます。きっとそんな人は、ここまでの文章を読んで「いや、本当に心配なんだって!」と怒ることでしょう。嫌味でもなんでもなく単純にいい人なのだと思います。
今日の記事は、べつに穿った見方をして人の良心を否定したいわけではありません。これらの良心は、責任をとらなくても済むからこそ発揮されるものであるという話がしたいのです。
もし、この「無理をしないでくださいね!」ということばに責任が発生するとしたら、どうなってしまうでしょう。本当にこのことばを信じて、その人が無理をしなくなって、ついには職を失ってしまうようなことになったとき、あなたに責任がとれるでしょうか。
もちろんこれは極端な例です。どの程度の無理をするかは当人が判断します。「多少しんどくても働くかあ」と決めるのも本人ですし「もう1日休もう」と決めるのも本人です。他者に「無理をしないでくださいね!」と言われたことがトリガーになることはまずないでしょう。
村上春樹の『スプートニクの恋人』という小説の中に「他人のことがなんとでも簡単に言えなくなったら、世界はすごく陰鬱で危険な場所になる」ということばが登場します。まさにこのことです。無責任でいられるからこそ優しいことばを投げかけることができるのです。
裏返せば、厳しいことばもおなじです。そのことばを受け取ってどうするのかは相手が決めることだから、言った側が責任をとる必要はない。そんな考えが前提になっているからこそ、他者に厳しいことばを投げかけることができるのです。
先ほど想像したように、これらのことばに本当に責任が発生するようになれば、きっとだれも何も言えなくなってしまうでしょう。他者の人生に責任をとることなんてそう簡単にできっこないのです。
はじめに「優しいことばは嘘くさい」と言っていた意味がわかっていただけたでしょうか。優しさそのものを否定しているのではなく、責任をとることなんてできないのに、まるで責任をとるかのような勢いで発せられるから、嘘くさく感じてしまうのです。
反対に言えば、あなたに向けられることばのほとんどは、無責任がゆえに生まれたものです。インターネット上のことばなんてなおさらです。 そんなことばに踊らされる必要なんてありません。と言いたいところですが、これもまた無責任が故に生まれてくることばです。踊らされるかどうかを決めるのも結局はあなた自身なのです。
すべての選択権はあなたにあります。あなたの人生が、いい方向に進もうがわるい方向に進もうが、他者からすれば知ったこっちゃありません。もちろん、いい方向に進めばいいなとは思いますよ。ただ申しわけありませんが、責任をとることはできないので勝手にいい方向に進んでください。
そうすればきっとどこかで出会う日がくると思います。そのときはぜひ、頭もお腹も痛くない状態で来ていただけると助かります。
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毎週水曜日の定例会「こきけんよう」のお知らせです。20:15〜20:55の40分1本勝負です。第一回を終えて、やっぱり週の真ん中に予定があると目印になっていいなと思いました。「水曜どうでしょう」とか「水曜日のダウンタウン」とかも、きっとそういうことなのでしょう。興味をもっていただいた方は、ぜひ耳だけお貸しください。参加希望はツイッターのDMまで。こきけんよう。