おはようございます。この連休をつかって久しぶりに『マトリックス』を見返しました。やっぱりとんでもない映画ですね。深堀りしようと思えばいくらでも深掘りできる一方で、理解が浅くても充分に楽しめるような描き方がなされています。「よくわかんないけどすごい」だけで視聴者を納得させられるだけの画力をもっているというわけです。
『マトリックス』と聞けば、だれもがあの後ろに反り返りながら銃弾を避けるシーンを思い浮かべるでしょう。あのようなキャッチーな画を間々に上手に挟み込むことで、幅広い視聴者を獲得することに成功しています。描こうとしている内容に対する「こだわり」と、視聴者を繫ぎ止めるための「あきらめ」のバランスが絶妙だなと思いました。まだ観たことがない方はぜひこの機会にご覧になってみてはいかがでしょう。どうも、インクです。
本当はバトルシーンなんて物語には要らないのかもしれない
本当はバトルシーンなんて物語には要らないのかもしれない
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年5月3日
大きなものを描こうと思ったら、どうしても抽象的にならざるをえません。抽象化するとどうなるのかというと、受け手の解釈に委ねられる範囲が大きくなります。要するに、送り手が本来伝えたかったものとは異なる形のメッセージが受け手に届く可能性が高まるということです。
たとえば「りんご」というメッセージを発信すれば、ほとんどの受け手がおなじ果物を想像することができるでしょう。では「赤くて丸いもの」というメッセージを発信したとしたらどうでしょう。もちろん「りんご」をイメージする受け手もいるのはいるでしょうが、「梅干」をイメージする受け手や「太陽」をイメージする受け手も出てくることになるでしょう。「抽象的なメッセージを発信する」とは、要するにこういうことです。
だからこそメッセージの発信には、この具体と抽象の調整がかなり大切になってきます。具体的になりすぎると、局所的な小さなものしか伝えることができません。抽象的になりすぎると、受け手との距離が遠ざかり正確に伝わる可能性が低くなってしまいます。
もちろん「解釈のちがい」も、メッセージの送受信におけるおもしろさのひとつではあるんですけどね。どこまでを正確に伝えて、どこからを受け手に委ねるのか。そのラインをある程度定めることも、送り手の具体と抽象の調整にかかっているというわけです。
この具体と抽象のバランスをとるために、物語でよくつかわれる手法があります。もちろん種類はたくさんあるのですが、今日は『マトリックス』でも用いられていた「バトルシーン」と「登場人物の死」のふたつに着目して考えてみたいと思います。
1.バトルシーン
バトルシーンと聞くと、どうしても「殴り合い」や「超能力戦」を想像してしまいますが、必ずしもそうとは限りません。言論による「言い争い」だってひとつのバトルですし、決められたルールの中で戦う「知能戦」だってひとつのバトルです。複雑な人間関係を描く「恋愛」だってひとつのバトルだと言えるでしょう。
これらのバトルシーンは、言わば抽象的なメッセージを具体化して伝えるためのひとつの手段です。メッセージの送り手は、決してバトルシーンそのものを受け手に届けたいわけではありません。抽象的なメッセージと受け手とを繫ぎ止めるためのひとつの描き方でしかないのです。
また、バトルシーンというものは、その尺の長さをある程度調整することができるという特徴をもっています。だから、大人の事情にも対応しやすいというわけです。『ドラゴンボール』なんてまさにですよね。『ワンピース』や『ナルト』でも同じようなことが言えるかと思います。
つまり、本来の目的を考えるなら、バトルシーンなんて物語には要らないのかもしれません。抽象的なメッセージをそのままの形で伝えることができないから、バトルシーンを描いているというわけです。わざわざ描かなくても抽象的なメッセージをそのまま伝えることができるのなら、それに越したことはないのかもしれません。
もちろん、そんなバトルシーンが魅力的な物語もたくさんあります。ただ、何度も言うように、バトルシーンは具体に落とし込むためのひとつの手段であり、加速しながら受け手を抽象に導くための滑走路でしかないのです。
先ほどはいくつかの漫画を例にあげたので、同じ漫画というジャンルから探すとすれば、『金色のガッシュ!』のバトルシーンはとても潔かったなという印象をもっています。バトルシーンが長くなりすぎると、反対に受け手は離れていってしまいますからね。
具体だけでもダメ。抽象だけでもダメ。多くの人にメッセージを伝えようと思ったら、やはりこのバランス感覚が備わっていなければならないのです。
2.登場人物の死
登場人物の死も、物語を描く上ではとても便利な手段です。死んだ人はもう二度と戻ってこないという共通認識がすべての受け手の中にあるので、簡単に「シリアスな空気感」を生み出すことができます。また、重要な人物の死を描くことで、これもまた簡単に「驚き」を生むことができるのです。
『フランダースの犬』の主人公であるネロや、『タッチ』の上杉和也、『デスノート』のLなどがわかりやすいでしょうか。『名探偵コナン』でも、毎回のように人が死んでいますが、こればかりはすこし例外かもしれません。まあ、抽象を具体化するための手段としてつかっているという点では同じなんですけどね。
また、先ほど述べた「死んだ人は戻ってこない」という共通理解があるからこそ、それを裏切ることでもひとつの物語を生み出すことができてしまいます。物語がはじまって間もなく食べられてしまう『進撃の巨人』のエレンや、暴走を阻止しようとして跳ね飛ばされてしまう『風の谷のナウシカ』のナウシカなどが、まさにこの例に当てはまるでしょう。まあ「蘇り」を物語に利用した元祖はキリストなんですけどね。
メッセージの送受信におけるもっとも理想的な形は「抽象的なイメージをそのままの形でやりとりする」ということだと思います。わかりやすく言えばテレパシーです。しかし、それがなかなかできないからこそ、いちど具体化して、だれもが理解しやすい形になおして、相手のもとに届けるのです。コンピュータのファイルで言うところの、圧縮と解凍に似ているかもしれませんね。
ただやはり、具体と抽象を行き来するには相応の手間がかかります。自分の圧縮が下手くそだったり、相手の解凍が上手くいかなかったりすれば、その過程でメッセージの形も変わってしまうかもしれません。
だからこそ、本当にメッセージレベルが高い人どうしの会話は、抽象だけで進んでいきます。いちいち具体になおす手間をかけないというわけです。これを実現させようと思ったら、お互いのレベルが高くなければなりません。当然、人数が増えれば増えるほど、具体化せざるを得ない状況になることでしょう。まあ、厳密に言えば、言語として表現している時点ですでに具体化ははじまっているんですけどね。
「具体的に話しなさい」ということばをよく耳にしますが、具体だけではどこに行くこともできません。ものごとの本質は抽象の中に存在します。もちろん上手に具体化することができるに越したことはありませんが、実は「抽象的に話せる」ことの方が価値は高いのかもしれません。
【お知らせ①】
本日20時30分より、らいざさん(@rize_up_high)とZOOMにてお話しします。今回は来ていただいても聞くだけになってしまうかもしれませんが、興味がある方はぜひ遊びに来てください。ツイッターにひとこといただけたら、またリンクをお送りします。
話すかもしれないし、筋トレするかもしれません。 https://t.co/ytzaCYA0vC
— らいざ (@rize_up_high) 2020年5月3日
【お知らせ②】
今週の土曜日、5月9日20時より「教育を存分に語れるバー」第5回を開催します。テーマは「先生とツイッター」です。こちらも同様、興味がある方はツイッターにご連絡ください。ずっと気になっているけど、なんだかんだで参加していないそこのあなた。いい加減動きましょう。ご連絡お待ちしております。