ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】物語は命の重みを優に超えていく

 

 おはようございます。このGWは、毎日1本ずつ映画を観て、毎日1冊ずつ本を読もうと決めて、実行しています。そこに毎日のブログが加わるので、なんだかんだであっという間に1日が過ぎていきます。

 もちろん、飲みに行くことができなかったり、映画館に行くことができなかったり、できないことはたくさんありますが、これはこれで豊かな生活なのかもしれないなと思うようになってきました。自由につかえる時間があるってとてもすてきなことです。

 何よりも自分に向いているなと思いました。今日は何を観ようかな。今日は何を読もうかな。今日は何を書こうかな。どうも、インクかな。

 

物語は命の重みを優に超えていく

f:id:taishiowawa:20200504223718p:plain

 だれもが一度は言われたことがあるはずです。命は大切にしなさい。そしてきっと、ほとんどの人がこの考えに対して、なんの疑いも抱いていません。命を大切にするのは当たり前。そう思っているはずです。

 しかしその一方で、わたしたちは動物の肉を食します。牛肉を食べ、豚肉を食べ、鶏肉を食べて生きています。スーパーに行けばニワトリやウズラの卵がずらりと並んでおり、寿司屋に行けばいろいろな種類の魚を食べることができます。野菜にだって命があります。力強く育った命を、当たり前のように収穫して、わたしたちは食べています。

 夏場、部屋の中を蚊が飛んでいると、なんの躊躇もなく叩きつぶします。ゴキブリが出ると格闘がはじまり、蜂が出ると殺虫剤を振りまきます。蜘蛛は害虫を食べてくれると言うけれど、部屋の中でみつけるとやっぱり気になってしまいます。

 

 おなじ命なのに。

 

 命の重み。命題としては、かなりベタなものだと言えるでしょう。ベタですが、きっとだれもが悩みます。悩んだ末に、なんだかんだでそれらしい理由をつけて、考えることをやめてしまいます。そして、まるでそこには矛盾なんてなかったかのような顔をして、またこう言いはじめるのです。

f:id:taishiowawa:20200504223718p:plain

 矛盾をはらんでいる。当たり前だと思われている。このふたつの要素を兼ね備えているということは、それは「考える余地がある」ということです。人が生きていくためなら、他の命の犠牲は仕方がないのでしょうか。もし、奪うべきではないのだとしたら、わたしたちはどのように生きていけばよいのでしょうか。

 人が人の命を奪うことはどうなのでしょうか。自分で自分の命を絶つことはどうなのでしょうか。安楽死は? 尊厳死は? 本当にどのような状況でも「命」は何よりも優先されるべきなのでしょうか。

 何も、人の命を奪うことを肯定しているわけではありません。自死を勧めているわけでもありません。ただ単純に、何も考えずに「それが当たり前だ」と思い込んでしまうことに危険性を感じているだけです。

f:id:taishiowawa:20200504230739p:plain

 昨日、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』という映画を観ました。そうです。遠藤周作の小説が原作になっているハリウッド映画です。
  物語本編では、長崎で迫害を受けるキリスト教徒のすがたが描かれていました。当時の日本では、キリスト教は危険な思想だと捉えられていたため、信者はこっそりと信仰するしかありませんでした。

 そんな隠れキリシタンをあぶり出すために、役人が行なっていたのが、みなさんよくご存知の「踏み絵」です。キリストや聖母マリアが書かれた絵を踏ませることで、キリスト教徒かどうかを判別しようというアレです。作中では、この絵を踏むことができずに殺されてしまう人物が何人も描かれていました。 

 

  この人たちはバカなのか。

 

 ここで考えなければならないのはこれです。この人たちはバカなのでしょうか。もちろん、当人も「踏み絵」の存在はよく知っていたはずです。踏まなければキリスト教徒だとみなされて、殺されてしまうこともはじめからわかっていたでしょう。 

 それでも踏まなかったのです。要は「自分の命」と「信仰心」を天秤にかけたときに、「信仰心」を優先させたということです。改めて問いを思い出しましょう。この判断を下したこの人物は、果たしてバカなのでしょうか。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

 もしかすると、みなさんの中には「ただ絵を踏むだけじゃないか」と思っている方がいらっしゃるかもしれません。たしかに絵を踏むだけです。動作としてはいたってシンプルです。片足を前に踏み出すだけ。だれにだってできるでしょう。

 しかし、キリスト教徒にはこれができませんでした。理由は先ほど述べたとおりです。彼らには、自分の命よりも大切なものがあったのです。だからこそ「踏まない」という選択をして、はじめからわかっていた結末へと自ら足を進めました。

 筆者はキリスト教徒ではないので、信仰心の価値がどれほどのものなのかはわかりません。ただここで大切なのは、信仰心を理解することではなく、そのような事実が間違いなくあったということです。

  

 自分の命よりも大切なもの。

 

  人が、自分の命よりも大切なものをもつということは十分にあり得ます。その事実を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは、それは個人の自由です。ただただここで言っておきたいのは、そのようなことが十分に起こり得るのだということです。

 多くの人がなんの疑いももたずに「命は何よりも優先されるべきだ」と思い込んでいる裏では、命よりも大切なものを抱えている人がいるのです。

 それでも、もしかすると「命は大切にしなさい」と言いつづけなければならないのかもしれません。ただ、何も考えずにそのことばを言いつづけるのと、命よりも大切なものを見出している人がいるという事実を受け止めた上でそのことばを言いつづけるのとでは、まったく意味合いがわかってくるはずです。

 命よりも大切なものを見出している人に向かって「命は大切だよ!」と叫びつづけたって仕方がありません。気が遠くなるような自問自答をくり返し、なんどもなんども天秤にかけた上でその結論を出しているわけですからね。

 迂闊な口出しは相手との距離を遠ざけるだけです。「命」のような大きなテーマならなおさらです。逆に言えば、だからこそ考えつづけなければなりません。少なからず今日これだけは覚えて帰ってください。

 

 だれにとっても命が最優先だとは限らない。

 

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

【お知らせ①】

 このブログをつかって新しい企画をスタートします。その名も「相手に聞きたい5つの質問」です。他者性や偶然性を意図的に組み込んで、ひとりでは絶対に出てこなかったであろう視点が生まれてきたらいいなと思っています。今回質問をいただくのは、らいざさん(@rize_up_high)です。いただくだけでなく、こちらからも質問します。公開は明日、5月6日(水)です。乞うご期待。

f:id:taishiowawa:20200505002405p:plain

 

【お知らせ②】

 度々お知らせしているとおり、5月9日(土)の20時ごろから「教育を存分に語れるバー」第5回を開催します。だれかが開催しているZOOMに参加したいと思ったときに必ずといってもいいほど頭をよぎるのが「わなしなんかが参加してもいいのかな」という考えです。

 先に言っておきます。参加してもいいです!!!!!!!!!!!!! !!!!これだけびっくりマークをつければ、充分伝わりましたかね。誰でも遊びに来てください。犬でも猿でも雉でもどんと来いです。もちろん聞くだけでもかまいません。あなたのご参加を心よりお待ちしています。参加希望はツイッターのDMまで。

f:id:taishiowawa:20200503211106p:plain