ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】どれだけピーマンが嫌いでも本当に美味しいピーマンに出会ったら考えも変わる

 

 おはようございます。数日前から玄関の電球がつきません。つかなくなって、はじめて玄関の電球の重要性に気がつきます。姿見を玄関に置いているので、出かける前に身だしなみをチェックするのは玄関です。しかし、真っ暗なので何も見えません。

 出かけるときに最後に明かりを消すのは玄関です。しかし、リビングの明かりを消せばもう真っ暗です。靴が上手に履けません。では、リビングの明かりをつけたまま靴を履いてみましょう。するとびっくり。靴を履いてしまったので、リビングの明かりを消せません。

 今は、リビングの明かりを消したあとに、iPhoneのライトをつけて、靴を履いています。現代的な解決策でしょ。なんてことを思っていたら、リビングの電球もひとつチカチカし始めました。正月ですもんね。ゆっくり休んでください。どうも、インクです。

 

どれだけピーマンが嫌いでも本当に美味しいピーマンに出会ったら考えも変わる

 本当におもしろいものを、自分が無知であることや間違った思い込みをしていることによって見逃してしまわないようにしたいなと思っています。そんな判断基準はやはり年齢によって大きく変わってきます。20のころは苦くて飲めなかったビールを、今ではグビグビと飲んでいたり。まったく興味がなかった洋服に、給料のほとんどをつぎ込んでいたり。「これまで価値がないと思っていたモノの価値にあとから気がつく」なんてことはいくらでもあります。

 そのように考えると、きっと世の中には見逃している価値が山のようにあるのだろうなと思います。誰かがハマっているということは、そこには必ず何かしらの価値があるということです。やったこともないのに「待ち時間が暇だから」と適当なことを言って手を出していない「釣り」にも。やったこともないのに「金持ちのスポーツでしょ」と敬遠している「ゴルフ」にも。間違いなく価値があるはずです。このような見逃してしまっている価値のほとんどは以下のふたつに分けられると思っています。

 

 ① 本当にいいものを知らない

 ② 食わず嫌い

 

 改まって書きましたが、はじめに言っていた「無知であること」と「間違った思い込みをしていること」と同じですね。たとえば、今日の記事のタイトルにもなっている「どれだけピーマンが嫌いでも本当に美味しいピーマンに出会ったら考えも変わる」は、① のパターンです。きっとピーマンが嫌いな人のほとんどは、ピーマンを食べたことはあるはずです。食べた上で「こりゃダメだ」と思い、食べなくなってしまったのです。だから、もしかすると見逃してきたピーマンの中には「本当に美味しいピーマン」が紛れ込んでいたかもしれません。しかし、そんなピーマンの価値を「自分はピーマンが食べられない」という思い込みによって見逃してしまっているのです。

 そんな人に限って「別に見逃したってかまわない」だなんてことを言うのですが、筆者からすれば、なんてもったいない考え方なのだろうと思ってしまいます。まあ人それぞれですので、無理に食べろとは言いませんけどね。

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 このように、見逃している価値はたくさんあるわけですが、何かのきっかけを経て、その価値に気づくことがあります。要するに、誰と出会いどんな経験をするのかによって人の価値観なんていくらでも変わるということです。ピーマンを作っている農家の方と結婚をして、ピーマンが大好きになる人だっているかもしれません。

 逆に言えば、今の自分の価値観なんて「その程度のもの」だということです。今価値がないと思っているものが、自分にとってとてもすばらしいものになるかもしれません。今知らないものが、自分の人生の軸になるかもしれません。だとしたら、いつかやってくるその機会をじっと待つのではなく、自ら迎えにいった方がいろいろとお得なのではないでしょうか。

  ただ、ひとつだけ注意しておかなければならないことがあります。それは、他者の価値観に対しての言及の仕方です。先ほども述べたように、所詮今の価値観なんて「その程度のもの」でしかありません。今後いくらでも変わります。だからこそ、今の価値観を軽視してしまうことがよくあります。

 他者の価値観ともなればなおさらです。ピーマンを食べられない人に対して「おいしいのに!もったいない!」「人生の1/3は損をしているよ!」だなんてことを簡単に言ってのけます。しかしその人にとって、今抱えている「ピーマンが食べられない」という価値観はとても大切なものなのかもしれません。「ピーマンが食べられない」という思い込みによって自分を保っている可能性だってあります。

 この現象は、大人から子どもへのことばかけの中でよく起こります。大人は、これまでの経験を踏まえて判断します。子どもに比べると様々な価値を知っています。だからこそ、子どもが大事にしている価値観を軽視してしまうことがあります。

 恋愛がわかりやすいかもしれません。大人は「告白しろ!後悔するぞ!」なんてことを簡単に言います。「今」思い返せば、「昔」にもっと無茶をしてもよかったな。と、思っているからです。だからこそ、子どもに対しては適当なことを言います。しかし、大人にとっての「昔」は子どもにとっての「今」です。恋愛は「今」まさに進行しているのです。そんな「今」に生きる子どもにとって「告白」なんてそう簡単にできることではありません。人生をかけた大勝負です。何度も言う通り、それを大人は軽視してしまうのです。

 勉強だって同じです。大人はよく「この問題は簡単だよ」と言います。なぜそんなことが言えるのかというと「大人だから」です。子どもにとっては、まさに「今」学んでいるところです。大人にとっては簡単かもしれないけれど、子どもにとっても同じだとは限らないのです。ここでもまた大人は、子どもという当事者の価値観を軽視してしまうのです。

 だからこそ、「自分の価値観の重み」と「他者の価値観の重み」は分けて考えなければなりません。自分がピーマンの素晴らしさに気づけたからといって、隣の人も同じように気づけるとは限らないのです。もちろん価値に気がつけるにこしたことはないのでしょうが、タイミングやきっかけは人それぞれです。無理やり動かそうとしたり、軽んじた発言をしたりすることによって、むしろそのタイミングが遅くなってしまうこともありえます。気づいた価値を人に伝えたくなる気もちはわかりますが、あくまでもその人は「今」の価値観を大切に生きているということを忘れてはならなりません。

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 ちなみに、筆者はピーマンが大好きです。肉詰めにするとおいしいですよね。味はもちろんなのですが、みなさんはピーマンを手で割ったことがありますか。なんでしょうね、あの感覚。パキッというか、グニッというか。シャキッというか、ポキッというか。伝わっているでしょうかこの感覚。ことばで説明するのが難しいですね。あの感覚って、ピーマンにしか出せない唯一無二の感覚だと思います。

 だからなんだと言われるとどうしようもないのですが、割ったときのあの感覚がとても好きなのです。どこまで伝わっているのかは分かりませんけどね。よくわかっていない人は今すぐスーパーに走って、ピーマンを買いましょう。そして手に力を込めて、ひと思いに割ってみてください。きっとわかっていただけるはずです。あの感覚を知らなければ、人生の半分は損をしますよ。