ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】どこへでも好きなところへ行け!

 

 おはようございます。昨日、久しぶりに「断腸の思い」ということばを聞きました。断腸の思い。絶対に言い過ぎですよね。センター国語の選択肢に出てきたら間違いなく選んではいけません。

 もちろん、この言い回しはたとえです。正確に言うならば断腸の “ような” 思いですね。いわゆる「誇張法」と呼ばれるレトリックのひとつです。例としては「一日千秋」や「千載一遇」などが挙げられます。

 これらの表現はある意味「ウソ」なわけですが、その「ウソ」を話し手と聞き手の両者が共通認識しています。ウソであることを前提として話が進むというわけです。これに対して「いやいや、腸を断つ痛みをナメているだろ」とツッコむのはあまりにもナンセンスだということですね。それでは、そろそろ本編に参りましょう。今日の記事は脳みそを沸き立たせながら、手を4本つかって書きました。ぜひ最後までお付き合いください。どうも、インクです。

 

どこへでも好きなところへ行け!

  先日、長い付き合いになる人に「笑うようになったね」と言われました。この人が言うのなら、たぶん本当なのだと思います。「おいおい、その話はもう聞いたことがあるよ」と思っているあなた。まあまあ、おちついて最後まで聞いてちょうだい。ただ、そう思うということはいつも読んでくれている証拠ですね。いつもありがとう。

 

 「笑うようになったね」

 

 このことばにドキっとして、あれからずっと考えていました。かつての自分と一体なにが変わったのだろう。もちろんいろいろなことがあったけれど、自分に変化をもたらしたものは一体なんだったのだろう。そんなことを考えていると、ひとつの大きなちがいに気がつきました。

 

 変化を楽しめるようになった 

 

 かつては、変化することをとことん拒んでいました。今思い返せば、子どものころからずっとです。髪を切ることがきらいでした。髪型が変化してしまうからです。友だちや先生から「髪切った?」と言われることがだいきらいでした。タモリさんと出会っていたら、きっとすぐにきらいになっていたことでしょう。

 新しい洋服もきらいでした。外見が変化してしまうからです。できるだけ同じような服を着たいと思っていました。特にデニムが大嫌いでした。動きづらいったらありゃしません。親が買ってきてくれたデニムを何本か持っていましたが、とことん履きませんでした。きっと一度も履いていないと思います。 

 今となっては、どうしてこれほどまでに変化を拒んでいたのかはわかりません。もしかすると、変化することをおそれていたのかもしれません。できるだけこのまま、なにも起こらずに生きていきたい。そんなふうに思っていたのでしょう。だからこそ、当時は必死に抗おうとしていました。時が流れるかぎり、変化から逃れることなんてできないのに。そのせいで苦しかったのかもしれません。

 

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 そんなことを言いながら、大人になった今でも、地元で仕事をしています。地元で働く理由は「他のところへ行く理由がなかったから」です。結局は、今でも変化を拒むクセのようなものが残ってしまっているのかもしれません。

 道徳の教材に「国や郷土を愛する態度」をテーマに掲げたものがあります。学習指導要領にも内容項目として明記されています。我が国の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心をもつこと。ただでさえきらいな道徳の中でも、特にきらいな文言です。

 

 どうして国や郷土を

 愛さなければならないんだ? 

 もちろん 「何かがあったときにいつでも帰ってこられる場所」として郷土が機能すれば、それはそれでいいことだと言えるでしょう。愛せるのなら愛せばいいと思います。ただ、それは個人の自由でしょう。地元がきらいできらいで仕方がない人だっています。国だって同じです。日本に住みながら日本がきらいな人だっています。それでいいではないですか。

 なんでしょうね。べつに国や郷土を愛する心そのものを否定するつもりはありません。きっとそれぞれの郷土にはそれぞれのよいところがあるかずですからね。よいところを発見して、すきだと思えるのなら、それに越したことはないでしょう。ただ、その裏には「郷土を愛してくれないと困る人」がいるのだろうなと思うわけです。

 

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 人は労働力ですからね。「せっかく住んでいる人たちを手放したくない」と思うのは当然のことでしょう。若者が都会へ出て、すっからかんになってしまう田舎と同じです。「なるべくその場にとどまってほしい」と思う人たちが一定数いるのです。しつこいですが、そのように思う人たちがいることは当たり前です。なにもおかしくはありません。その人たちが発信主体となって、郷土のPRを積極的に行い地方創生を目指していけばよいのです。

 問題はそんな現実をひた隠しにして、「国や郷土を愛する心はすばらしい」と感情論で乗り切ろうとしているところです。まあ、気もちがわるいこと。教育を通して、未来の労働力である子どもたちに思想を植え付けているというわけです。「どうして国や郷土を愛さなければならないんだ?」という疑問を抱くその前に、「国や郷土を愛する心はすばらしい」を当たり前にしてしまおうという魂胆です。 

 

 どこへでも好きなところへ行け! 

 

  今回は道徳の内容項目を例に挙げましたが、他の教科でも案外たくさんあるのだろうなと思います。学校は「子どもたちの思考力を育む場所」という体裁をとっていますが、実際のところは上記のように「思考を停止させる場所」としての機能も果たしているわけです。人々が考えはじめると困る人がいるわけです。人々が自由に変化しはじめると困る人がいるわけです。なんの疑問ももたずに、地元で働いてくれていた方が都合のよい人たちがいるのです。 

 事実として、人々が思考しないおかげでこの世界は回っています。思考しているつもりになっている人たちも、結局は教育の中で形成された枠の中から出ることはできません。だとしたら「考える」って一体なんなのでしょう。「学校」って一体なんなのでしょう。

 どうか子どもたちよ、だれかに選ばされるのではなく、自分の力で選びとって、どこへでも好きなところへ行け!

 

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 途中にも書きましたが、今では随分と変化を楽しめるようになりました。髪だって毎日切るし、服だって毎日買います。デニムは1万本もっています。

 変化すること自体を楽しめるようになったというのももちろんですが、変化しなければ死ぬということに気づいたのが大きかったのかもしれません。そして、変化することは案外簡単だということも知りました。

 「自分を変える」だなんて言ってしまうと、なんだかとても大げさです。自分を許すために「自分なんてきらいだ」と言っている人たちがつかいがちなことばです。たびたび言っていますが、人の心はそう簡単には変わりません。変えられるのは、行動であり環境です。その中でももっとも簡単に変えられるのが、髪型であり服装だというわけです。

 本当に変わりたいと思っているのなら、「性格を変えなきゃ」だなんてバカみたいなことを言っていないで、まずは髪を切りにいきましょう。そして、なんでもいいから新しい服を買いましょう。そして、ほんの少しでいいので、毎日に意図的な変化をつくってみてください。ふだん通らない道を通ってみるでもかまいません。ふだんより1ランク上のたまご豆腐を買ってみるでもかまいません。なんだっていいのです。変わるということは生きるということです。そうすればきっといつの日か「笑うようになったね」と言われるときがくるはずです。