ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】教育長も市長も大臣もみんな人間だぜ

 

 おはようございます。会見が開かれると危険性が高まります。著名人が死ぬと危険性が高まります。情報によって危険性が変動します。「いやいや、そんなわけがないでしょ」と思ったそこのあなた。そのとおりです。そんなわけはありません。危険なものははじめから危険です。はじめから今までずっと危険なままなのです。

 その一方で、先ほど述べた「情報によって危険性が変動する」という意味もおわかりいただけるのではないでしょうか。人は自分の認識の中で、ものごとを捉えているという話です。身近な人に実害が及んだときに、はじめてその危険性に気がつくのです。情報に考えさせられてはいけません。情報を材料にして考えなければなりません。必要な情報はそろっていますか。その上で考えることができていますか。大切なものは自分で守るしかありません。どうも、インクです。

 

教育長も市長も大臣もみんな人間だぜ

  ものごとを考えるときには「最悪の事態を想定する」ということがとても大切です。「生徒指導のさしすせそ」の「さ」ですね。今の日本における最悪の事態とはなんでしょう。

 個人的には「国民がパニックに陥ること」だと思っています。個人の中で溜まったフラストレーションが、箱の中で爆発するという状態です。そういう意味において、政府は賢いのかもしれません。愚策を連発することで、国民のフラストレーションを一挙に引き受けているわけです。もしかすると、2枚のマスクに我々は守られているのかもしれません。

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 そんな揶揄はさておいて、教育業界でもいろいろな意見が飛び交っています。「事態は悪化しているのにどうして休校措置を延期しないんだ」とか、「事態は悪化しているのにどうして休校措置を延期しないんだ」とか。大抵の場合、その意見は教育長や市長、文科省へと向けられています。先ほどと同様、これらの人たちが教育業界のフラストレーションを吸収してくれているわけです。当人たちからしたらたまったもんじゃないでしょう。

 

 教育長も市長も大臣もそんなことはわかっている。

 

 そもそもの信用を得られていないことが悪いのかもしれませんが、教育長も市長も大臣もそんなことはとっくの昔にわかっています。どれだけ愚策が目立つといえども、いい大人ですから。危険なことくらいわかっています。そこに「休校措置を延長しろ!おかしいだろ!バカじゃないのか!」と言い続けても仕方がありません。休校措置を延長した方がいいことくらいわかっています。わかっているのにできないのです。

 

 わかっているのになぜできないのか。

 

 わたしたちが考えなければならないのはここです。わかっているのになぜできないのか。できない理由が必ずあるはずなのです。本当に休校措置の延長を実現させたいのなら、その原因を探り、クリアにすることに力を尽くさなければなりません。思いのままに「休校にすべきだ!命が大事だ!」と叫んでも、決定する人間にストレスを与え、判断力を鈍らせる原因になるだけです。

 あなただって、わかっていることをぐちぐち言われたら嫌でしょう。「うるさい!」と叫びたくなるはずです。それをぐっと堪えて、必死に働いているのです。べつに擁護するつもりなんてこれっぽっちもありませんが、少なくとも教育長も市長も大臣も、わたしたちの敵ではありません。所詮は同じ人間なのです。

 

 教育長も市長も大臣もみんな人間だぜ。

 

 「教育長や市長や大臣が決めてくれるまで何もできない」というのが現状です。エサを待っているヒナと同じです。自分では何もできません。そのくせして「エサはまだか!エサはまだか!」と叫びます。ようやくエサが届いたかと思えば「まずい!まずい!」と文句を言います。「じゃあ、自分で取りに行けよ」という話です。極端な話、学校が再開されたとしても、先生が全員来なければ、休校と同じです。すべての保護者が子どもを学校に行かせなければ、休校と同じです。そんな覚悟もないくせに「どうにかしてくれ!」と叫びつづけているわけです。

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 「いやいや、そう言われましても」と思ったでしょう。その気持ちよくわかります。なぜなら、この文章を書いているわたしだってひとりの人間だからです。教育長や市長や大臣や読者の皆様と同じ人間です。しかも地方公務員です。上の決定に従わざるをえない立場です。だからこそ、べつに「どうにかしてくれ!」という声そのものを否定するつもりはありません。それと同時に、先ほども述べましたが、政府を擁護するつもりもありません。

 ただ単純に、力の入れ方を間違えているのではないかという話です。今のままでは、足を引っ張りあっているようなものです。お互いに負荷をかけ、みんなで疲れ果ててしまっています。わたしたちの敵はなんなのでしょう。目的はなんなのでしょう。その目的を果たすための手段はなんなのでしょう。できることはなんなのでしょう。

 幸いなことに人間には思考力が備わっています。こんなときこそ考えなければなりません。感情のままに声をあげることが、必ずしも問題を解決するとは限らないのです。 

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 本文のはじめの方に「生徒指導のさしすせそ」の「さ」を紹介しましたが、学校の先生ではない方もいらっしゃると思いますので、のこりもご紹介しておこうと思います。「さ」は、最悪の事態を想定して。「し」は、慎重に。「す」は、素早く。「せ」は、誠実に。「そ」は、組織的に。これらをぜんぶ合わせて、教育業界では「生徒指導のさしすせそ」と呼んでいます。

 昨日の記事にも書いたように、この類の語呂合わせは基本的に嫌いなのですが、これはわりと自分の中で腑に落ちています。無理やりこじつけたというかんじではなく、ちゃんとどれも大切な要素だなと思うことができます。それと同時に、あらゆる組織に当てはめて考えることができるのだろうなとも思います。

 現時点で一体どれだけの人が最悪の事態を想定することができているのでしょうか。どれだけの人が、慎重に、素早く、誠実に、組織的に、動くことができているのでしょうか。個人的には、ぜんぶできていないのではないかと思っています。このままじゃ、きっとヤバいよお。教育長!市長!大臣!なんとかしてよ!