ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】家族に関する話題は絶対に「大切にしましょう」に向かっていくからおもしろくない

 

 おはようございます。昨日は人生ではじめて4DXの映画を観てきました。映像に合わせて座席が動いたり、風が吹いたり、水が飛んできたりするアレです。

 正直な感想としては「もういちど行きたいとは思わない」といったところでしょうか。決して悪くはなかったですよ。映画+アトラクションのような感覚で、演出として蛇足だとも特には思いませんでした。

 ただですね。ちょっと疲れます。そういうものとして楽しむ分にはよいのでしょうが、リラックスして観れるかというと、そういうわけにもいきません。アクションシーンのたびに座席が大きく揺れ、銃弾が飛び交うたびに耳元で風が噴射されるわけですからね。

 いつもの映画館で、ゆったりと観るのがやっぱりいいなと思ってしまいました。何度も言いますが、それらの演出のせいで作品世界が壊れてしまうようなことはありません。まだ行ったことがない方はぜひいちど行ってみてください。どうも、インクです。

 

家族に関する話題は絶対に「大切にしましょう」に向かっていくからおもしろくない

 学校教育において「家族の話」はかなりシビアな問題です。かつては「お父さんに仕事の話を聞いてみよう」だった学習が、気づけば「おうちの人に仕事の話を聞いてみよう」になり、ついには「できるだけ家族のことには触れないようにしよう」という流れになってきました。時代の変化とともに、それだけ家庭の形も変わってきたということです。

 それにも関わらず「家族を大切にしよう」という教育だけは一向に変わる気配を見せません。家族は大切なものであり、かけがえのないものだと言っておかないと気が済まないのでしょう。

 べつに「大切ではない!」というつもりはありませんよ。ただ、家族に苦しめられている子どもたちがいるということを忘れてはならないという話です。 

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 「家族のおかげで生きていける」と言えば聞こえはいいですが、言い方を変えれば「家族からは逃げられない」ということでもあります。子どもがひとりで家族から逃れることはかなり難しいと言えるでしょう。

 そんな子どもにとって「家族は大切にしましょうね」という学校の先生のことばはどのように聞こえているのでしょうか。家族の大切さを主題とした道徳教材をどのような気持ちで読んでいるのでしょうか。

 「家族は大切だ」をひとつの意見として捉える分にはなんの問題もありません。ただこれを「家族は大切にするべきものだ」と言ってしまうからおかしなことになるのです。言い換えるなら「家族は大切じゃない!」と言えない空気感をつくり上げてしまうことに問題があるというわけです。

 さらに言うならば、この話題は0か100かで語れるものでもありません。家族の数だけ家族の形がありますからね。あらゆる家族の価値基準を統一することなんてできるはずがないのです。

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 似たようなパターンはほかにもたくさんあるでしょう。「戦争をしてはいけない」とか「人を殺してはいけない」とか。たしかにその通りなんですよ。その通りなんですけど、それでもやっぱり現実世界では戦争が起きていて、殺人事件が起こっているのです。

 そんなときに、0か100かの価値観で「これをしてはいけない」とか「あれをしてはいけない」ということだけを訴えても仕方がないと思うのです。

 何度も言いますが、べつに戦争や殺人を肯定しているわけではありませんよ。本当に向き合うというのなら、なぜ戦争が起こって、なぜ人が人を殺してしまうのかという、0と100の間にあるグラデーションをよくよく読み取らなければならないわけです。 

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 とくに「家族」は閉鎖的な集団ですからね。外からは見えづらいという性質をもっています。みんなが「ちびまる子ちゃん」や「サザエさん」を観て漠然とした「家族像」をイメージするわけですが、必ずしもどの家族もおなじようなものだとは限りません。

 同棲や結婚なんて、まさに家族による違いを大いに思い知らされる機会です。バスタオルを1日おきに交換する家族と、そうでない家族。お茶っ葉からお茶をつくる家族と、そうでない家族。シチューをごはんと一緒に食べる家族と、そうでない家族。

 家族を大切にできるのならそれに越したことはないのでしょう。感謝できるのであれば、思う存分感謝すればよいでしょう。ただ、そんな家族ばかりだとは限らないよという、今日はそんなお話でした。

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【今後の予定】

①9月23日(水)こきけんよう Vol.11

②9月25日(金)らぱいんざWORLD with らいざさん、らぱんさん、mucchuさん

③10月17日(土)Coming soon ... 

④10月26日(土)Coming soon ...

 

【リスナー募集】 

①9月23日(水)こきけんよう vol.11

  毎週水曜日の定例会です。次回は21時スタートです。どうでもいい話をしています。週の真ん中、折り返し地点として聴きに来てはみませんか。声を出せる人はぜひとも一緒にお話ししましょう。水曜日に予定があるというだけで、目安になっていいものですよ。参加希望はツイッターのDMまで、よろしくお願いいたします。

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【土】映画でポップコーンを買うのは素人

 

 おはようございます。今日は足を遠くへ延ばして、IMAXに映画を観に行こうと思います。クリストファー・ノーラン監督の新作『TENET』です。

 IMAXでの映画鑑賞は人生ではじめてです。どこまですごいのか、まったく想像することができていません。チケットは1000円くらい高かったわけですが、やはり期待しすぎない方がよいのでしょう。

 映画そのものの感想を書くつもりはありませんが、IMAXの感想はまた明日の記事にでも書こうと思います。待ってろよ4DX。どうも、インクです。

 

映画でポップコーンを買うのは素人

 セックス、スポーツ、スクリーン。S、S、S。いわゆる「3S政策」というやつです。日本では、GHQが補助政策として用いたと言われています。これらの3つのSに国民の関心を集めることで、政治に意識を向けさせないようにすることがねらいだそうです。

 まさに「洗脳」ですね。人々の中にある思想を、無意識のうちに異なる方向へと動かしていくわけです。随分と話題になった Awich の『洗脳』という曲のリリックにも登場していました。運命という名の情報戦、とは知らずに受け取る処方箋。セックス、スポーツ、スクリーン。目が眩む愚民。操るルーティーン。

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 最近で言えば「出版物の総額表示義務化」でも似たようなことが言われていましたね。税込価格の表示を強制することで、国民の意識を増税から逸らそうというわけです。もはや「いかに増税するか」という勝負になっていますもんね。政治経済にとって「洗脳」は重要な要素だと言えるのでしょう。

 若者たちの「自分が1票を入れたところで何も変わらない」という感覚は、まさに「洗脳」の成果なのかもしれません。人が増えれば増えるほど、意見をまとめることは大変になりますからね。変に興味を抱いてもらわない方が、手っ取りばやいというわけです。

 だからこそ、できるだけ人々に疑問を抱いてほしくないのです。考えてほしくないのです。そして、これらの企みは、意外と簡単に叶います。なぜなら、人はもともとできるだけ考えたくない生き物だからです。考えることって、脳に負荷をかけることですからね。

 心身にかかる負荷は、できるだけ取り除こうとするのが、生き物としての性です。考えずに済む道筋を示してやりさえすれば、疑うことなんて忘れて、そこにとどまるようになるわけです。そう考えると、3Sって政策としてはかなり優秀だったのかもしれません。

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 映画館でポップコーンを買うという行為も結局は一緒です。ポップコーンを食べたいから買うのではなく、映画と言えばポップコーンだと思い込んでいるから買うのです。そこに思考はありません。逆に言えば、思考しなくても済むようにデザインされているというわけです。

 今「ポップコーンくらい何だっていいじゃないか」と思った人こそ、無意識のうちに思考を奪われていることに慣れてしまっているのかもしれません。たしかにポップコーンを買うか買わないかなんてどちらでもよいですよ。「映画といえばポップコーン」というコンセプトを楽しむために買うのもありですし、食べたくないから買わないというのもありでしょう。

 ただ、ポップコーンはあくまでもひとつの具体例であり、生活の中には「別の形をしたポップコーン」が山のように隠れているのです。そんな文脈を読み取らずに、ポップコーンというひとつの具体だけで考えてしまうことこそが、ある意味危険な状態なのです。

 「自分の頭で考えている」と思っていることが、実際は「だれかに考えさせられているだけ」という可能性も大いにありえます。自分が進んでいる道は、誰かにデザインされた道なのかもしれません。別にそれがわるいことだとは言いませんが、無自覚というのはやはり怖いものです。

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【今後の予定】

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②9月25日(金)らぱいんざWORLD with らいざさん、らぱんさん、mucchuさん

③10月17日(土)Coming soon ... 

④10月26日(土)Coming soon ...

 

【リスナー募集】 

①9月23日(水)こきけんよう vol.11

  毎週水曜日の定例会です。次回は21時スタートです。どうでもいい話をしています。週の真ん中、折り返し地点として聴きに来てはみませんか。声を出せる人はぜひとも一緒にお話ししましょう。水曜日に予定があるというだけで、目安になっていいものですよ。参加希望はツイッターのDMまで、よろしくお願いいたします。

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【金】「勉強ができなくても生きていける」という事実を知っているだけでも随分と変わる

 

 おはようございます。先日、青年求職家の活動を通して、とあるNPO法人の方とお話をさせていただきました。とにかくおもしろかったです。この世界には本当にいろいろなことをしている人がいるものです。

 そんなお話の中でも特に耳にのこったのが「社会は想像以上に寛容だ」ということばでした。本当にそのとおりだと思います。学校ではたまたま勉強や運動が苦手だったというだけで苦しい思いをしなければなりませんが、社会に出ればそんなことはありません。

 学校だけで判断するなんて、あまりにも情報が偏りすぎています。勉強ができなくてもダメではないし、運動ができなくても人生が終わるわけではないのです。社会は想像以上に寛容だ。それを具体的な知識や体験を通して、子どもたちに伝えられる大人になりたいなと思いました。どうも、インクです。

 

「勉強ができなくても生きていける」という事実を知っているだけでも随分と変わる

 子どもたちは、漠然と「生きていくためには勉強をしなければならない」と思っています。いや、思わされていると言った方が正確なのかもしれません。

 たしかにこの社会を生きていく上で、身につけておくべき知識というものは少なからずあるでしょう。字が読めないよりかは読めた方がいいですし、計算だってできないよりかはできた方がいいはずです。

 ただし、これらができなければ生きていくことができないのかというと、決してそういうわけではありません。字を読んだり計算したりすることが多少できなくとも、絵を描くことに長けていたらそれだけで生きていけるかもしれません。走るのがめちゃくちゃ速ければそれだけで生きていけるかもしれません。

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 読み書きや計算は例として極端だったかもしれませんが、要するに「勉強ができなくても生きていくことはできるはずだ」という話です。

 それにも関わらず「生きていくためには勉強をしなければならない」という考えが広まるせいで、対となる「勉強ができなければ人生おしまい」という考えが必然的に生まれてきてしまうことになるのです。

 生活の大半を占める学校で、最も大切にされている「勉強」ができなければ、そりゃあ苦しいですよ。学校は子どもたちににとって、とてつもなく大きな存在ですからね。「人生終わりだ」とか「わたしはダメな人間なんだ」と思っても仕方がありません。

 そんなときに救いになり得る場所は家庭なわけですが、おわかりのとおり家庭でも言われることは同じです。勉強は大事だよ。勉強をがんばりなさい。こうして子どもたちは袋小路に追い込まれていくのです。 

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 そんな環境下で行われる勉強がはたして楽しいと言えるのでしょうか。知的好奇心から生まれる学びがそこに存在しているのでしょうか。このブログではたびたび引用していますが、トロールに「義務ってなんのこと?」とたずねられた緑色の旅人は「したくないことをすることさ」と答えています。

 やりたくもないことを無理にやらされるって、相当なストレスですからね。しかもそれが「生きるため」だなんて言われたら、もうどうしようもありません。未来のことなんて何もわからないわけですからね。そんなわかり得ない部分の不安を煽られたら、そういうもんなんだと思うしかありません。

 そして、それが頭ではわかっているにも関わらず、なかなか思うようにできないから苦しむことになるわけです。べつに勉強そのものを否定したいわけではありません。おもしろいものを見逃してしまわないようにするためにも、勉強はとてもよい手段だと思います。ただ、そんな勉強の重要度が高くなりすぎることで、ほかの才能を潰してしまっているのではないかというわけです。

 残念ながら、いまの学校現場において「みんなちがって、みんないい」は完全に建前と化してしまっています。表面上はそれぞれのよいところを認めようとはしているものの、結局は勉強や運動ができるかどうかで評価されてしまうのです。

 だからどうか、そんなせまい世界で自分の価値を決めてしまわないでください。学校なんてちっぽけです。社会はもっともっと広くて、もっともっと寛容です。勉強ができないから何だってんだという話です。勉強なんてできなくても生きていくことはできます。ただやっぱり、できたら楽しいのは楽しいけどね。

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①9月23日(水)こきけんよう vol.11

  毎週水曜日の定例会です。次回は21時スタートです。どうでもいい話をしています。週の真ん中、折り返し地点として聴きに来てはみませんか。声を出せる人はぜひとも一緒にお話ししましょう。水曜日に予定があるというだけで、目安になっていいものですよ。参加希望はツイッターのDMまで、よろしくお願いいたします。

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【木】学級経営は「先生の人がら」と「仕組み」でできていてその割合は人それぞれ

 

 おはようございます。昨日の休み時間に、子どもたちが「定規とばし」をして遊んでいました。ご存知ですか。定規とばし。読んで字の如く定規をとばす遊びです。もしかすると「定規バトル」と呼んでいた地域もあるかもしれません。ジョギバトってやつです。

 もうすこし詳しくルールを説明いたしましょう。まずは、定規を机の上にセットします。そして、自分の手ではなく、ペンを駆使しながらその定規を動かします。相手の定規にぶつけたり、場合によっては相手の定規の上に自分の定規を重ねたり。最終的には、相手の定規を机の上から落としたら勝利です。

 この遊びは筆者が子どものころからありました。子どもたちにどうしてそんな遊びを知っているのかと尋ねると「フィッシャーズがやっていた」とのことでした。納得です。これ以上にないくらいに納得しました。そりゃあやるよなあ。どうも、インクです。

 

学級経営は「先生の人がら」と「仕組み」でできていてその割合は人それぞれ

 本屋さんの教育書コーナーに行くと、学級経営に関する書籍がところ狭しと並んでいます。それだけ多くの先生が悩んでいるということなのでしょう。

 筆者も初任のころは随分と読みました。某教育系雑誌を購読してみたり、先輩に勧められた本を手にとってみたり。本当にいろいろと読みました。

 そこから得られた結果は「どの本もピンとこない」というものでした。べつに本の内容を批判しているのではありません。単純に自分に合っているものをみつけることができなかったのです。

 今思えば、そりゃあそうなんですよね。先生の人がらもそこに集まる子どもたちも、クラスによってまるっきり違います。同じ先生が同じ話をしたとしても、響くクラスと響かないクラスがあるわけです。

 まあ、そんな違いを前提としながら、汎用性があるものをピックアップして伝えようとしているのが学級経営に関する教育書なのでしょう。表面的な話をそれらしく書いているだけのものが多くなってしまうのも仕方がないのかもしれません。

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 学級経営は「先生の人がら」と「仕組み」でできていると思っています。これらは相互に作用しています。その人がらだからこそ成立する仕組みがあり、その人がらだからこそ失敗する仕組みがあります。

 外部から取り入れてきた仕組みを利用するときには「自分の人がら」と合致しているのかをよく考えなければなりません。そして、合っていなかったときには早めに損切りすることも大切です。

 結局は子どもたちの目を通して、常に自分と向き合わなければならないわけです。「クラスは鏡」とはよく言ったもので、自分が無理をすればするほど、クラスもしんどくなってしまうのです。

 人が違うわけですから、当然「先生の人がら」と「仕組み」の割合も先生によって違います。人がらだけで子どもたちをまとめあげる先生もいますし、緻密な仕組みをつくりあげて信頼を得る先生もいます。

 どちらがよいとかわるいとかではなく、単純に自分に合った「人がら」と「仕組み」の割合がよくわかっているのです。その割合さえ掴めていれば、あとはその年の子どもたちに合わせて微調整をするだけです。 

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 先ほどの話とすこし重複するかもしれませんが、本当に厄介なのは「自分の人がらで成り立っている仕組みをそのまま他者に押し付ける」という行為です。

 ベテランと初任者の間で、これがまあよく起こるわけです。もちろん「アドバイス」という形で行われます。初任者はわざわざ教えてもらったわけですから、それを実行するしかありません。自分に合っていないと思っていても、実行するしかないのです。

 どうしても子どもたちの方に目線がいってしまうのですが、ベテランと初任者の間でいちばん大切なのは、お互いをよく知ることです。相手をよく知っているからこそ、適切なアドバイスが生まれます。

 「人がら」もわからないまま、適切な「仕組み」を提案することなんて不可能です。逆に言えば、初任者は「自分を知ってもらう」ために動かなければなりません。近くにいるベテランとの関係って、めちゃくちゃ大事ですからね。いいものをもらえるかどうかは自分次第でいくらでも変わるのです。

 本当に子どもたちのことを想うのなら、ベテランの先生にできるだけ自分のことを知ってもらって、自分に合ったアドバイスを引き出すべきでしょう。

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 仮に筆者が「人がら」を知らない相手にアドバイスをするとしたら「教室のモノを徹底的に減らして常に綺麗にしよう」くらいしか言えないかもしれません。子どもたちの机の横にぶら下がっているものも限りなく減らすのです。これなら、人がらに関わらず、すぐに実行することができるでしょう。

 どうでもいいことのように思えるかもしれませんが、これをするだけで案外変わることもあります。何かを変えたければ、まずは形から変えるのがいちばんです。形から変えていく中で、自分の人がらに合った仕組みを模索していけばよいのだと思います。 

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【今後の予定】

①9月23日(水)こきけんよう Vol.11

②9月25日(金)らぱいんざWORLD with らいざさん、らぱんさん、mucchuさん

③10月17日(土)Coming soon ... 

④10月26日(土)Coming soon ...

 

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①9月23日(水)こきけんよう vol.11

  毎週水曜日の定例会です。次回は21時スタートです。どうでもいい話をしています。週の真ん中、折り返し地点として聴きに来てはみませんか。声を出せる人はぜひとも一緒にお話ししましょう。水曜日に予定があるというだけで、目安になっていいものですよ。参加希望はツイッターのDMまで、よろしくお願いいたします。

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【水】相手が断りやすい誘い方をしよう

 

 おはようございます。「真夏のピークが去った。天気予報士がテレビで言ってた」とツイートすることで、フジファブリックのことを知っていますよアピールができる季節になりました。

 フジファブリックって絶妙なんですよね。知っている人の割合も。「知っている」と言うことで「センスがいい」と思ってもえる具合も。本当にちょうどよいのです。ブランドとしては成功なのかもしれません。

 フジのファンの皆様は怒らないでくださいね。筆者もちゃんと好きだからこそ、こうして話題に挙げているのです。どこかで書いたような気がしますが、いちばん好きな曲は「Birthday」です。身体がふたつあるなら、ぼくはもっとすごいことをやっていた。ぜひ聴いてみてください。どうも、インクです。

 

相手が断りやすい誘い方をしよう

 誘いを断るにはエネルギーをつかいます。「せっかく誘ってくれたのに申し訳ない」だったり「嫌な思いをさせてしまうかな」だったり。「嫌われたらどうしよう」と考えてしまう人もいるのかもしれません。

 はっきりとした理由があるのなら断りやすくもあるでしょう。「その日は旅行で遠くにいるんだ」とか「その日は友人の結婚式があるんだ」とか。相手も「それは仕方がない」と思ってくれます。

 問題は大した理由がないときです。単純に気が乗らなかったり、せっかくの休日をゆっくりとすごしたかったり。そんなときに思わず「先約があって...」と嘘をついたことのある人もいるのではないでしょうか。

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 この嘘の善悪は非常に難しいところです。相手を傷つけずに、波風を立てずに、断るための嘘ですからね。多用しないに越したことはないのでしょうが、場合によってはつかわざるをえないのかもしれません。

 ただ、嘘をついたらついたで妙な罪悪感を抱かなければならなくなります。「ふらっと外に出たときにばったり出くわしたらどうしよう」と、びくびくしなければならなくなるかもしれません。誘われさえしなければ、ただのゆったりとした休日であったはずなのに、余計な心配がついてきてしまうのです。

 誘う側はここまでのことを想像しなければなりません。もちろん、誘うなと言っているわけではありませんよ。誘うこと自体は何も悪くありません。

 ただ「相手に嘘をつかせてしまうかもしれない」ということを、よくよく自覚しておかなければならないという話です。大抵の場合において、誘う側が思っている以上に「断る」って大変ですからね。

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 だからこそ、相手の断り方までをも想定した上で、誘わなければなりません。筆者がよくつかうのは「あえて強引に誘う戦法」です。相手の都合も聞かずに、あえて「次の土曜日はどこに行く?」というような誘い方をします。相手が乗り気なら話は前に進みますし、乗り気でなければ「いやいや、約束なんてしていないけど」という断り方ができます。

 「約束なんてしていない」という事実があることによって、断ったとしても相手が悪者にならずに済むのです。もちろんこの戦法がつかえるかどうかは関係性次第です。あくまでもひとつの例です。「断り方を想定した上で誘う」とはこういうことです。

 ほかにも「勝手に設定をつくる戦法」をつかうこともあります。たとえば「前に言っていた国家機密のプロジェクトが落ち着いていたら次の土曜日に遊びに行こう」と誘います。乗り気なら話は前に進みますし、乗り気でなけでれば「ごめん、外部の人間との接触が許されていないんだ」という断り方ができます。

 おもしろいかどうかは別ですよ。おもしろくないことくらいわかっています。その上で、あえてくだらない条件を先に提示しているのです。そうすることで、相手はそのくだらない条件に乗っかって断ればよいという状況ができあがります。本当の理由なんてべつに何でもいいですからね。「気が乗らないから」であろうが「親戚の法事があるから」であろうが「国家機密のプロジェクトが煮詰まっていて身動きがとれないから」であろうが、何だっていいのです。

 

 誘うときには相手の断り方まで想定しよう。

 相手を嘘つきにしないように。

 

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【今後の予定】

①9月16日(水)こきけんよう Vol.11 <中止>

②9月23日(水)こきけんよう Vol.12

③9月25日(金)らぱいんざWORLD with らいざさん、らぱんさん、mucchuさん

 

【リスナー募集】 

①9月16日(水)こきけんよう vol.11:中止

  本日を予定していた「こきけんよう vol.11」ですが、青年求職家活動のためお休みさせていただきます。楽しみにしていた国民の皆様、大変申し訳ありませんでした。深くお詫び申し上げます。来週からは通常どおり開催します。ちなみに来週は21時スタートの予定です。ぜひ遊びに来てください。

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