ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【木】一度空っぽになればあとは好きなものを詰めていけばいい

 

 おはようございます。はじめてちゃんとラジオを聴いたのは「SCHOOL OF LOCK!」という番組でした。いろいろなアーティストの新曲が初公開されることの多い番組だったので、それを聴くためにチャンネルを合わせていました。

 ラジオから流れてくる音源をそのまま録音して、CDの発売日がくるまでに何度もくり返し聴いていたことを今でもはっきり覚えています。

 はじめはこのように「新曲」が聴けたらそれでよかったのですが、不思議なものでだんだんパーソナリティや番組そのものが好きになってくるんですよね。いつのころからか、流れる曲や登場するゲストに関わらず、毎日聴くようになっていきました。

 「SCHOOL OF LOCK!」は読んで字のごとく学生向けの番組なので、さすがに今では聴かなくなってしまいましたが、ほかの番組はちょこちょこと聴いています。いいですよね。ラジオって。おすすめの番組があればぜひ教えてください。どうも、インクです。

 

一度空っぽになればあとは好きなものを詰めていけばいい

 一度空っぽになればあとは好きなものを詰めていけばいい。恩師に言われたことばです。

 自分がもっている袋を覗いてみると、そこには自分で選んだわけではないものや、入れた覚えのないようなものまで、様々なものが乱雑に詰まっています。

 奥の方に入っている不要なものをとりのぞいたり、中身を整理整頓したりするためには、一度すべてを袋から出さなければなりません。

 中身をぜんぶ出して、袋を裏返して、よく洗濯して、そしてまたものを詰めていくのです。もちろん詰めなおすときには「本当に要るのか要らないのか」や「そのものの大きさや形」を見定めながら、ゆっくりと順番に詰めていきます。

 ふたたび詰め直してみると、きっとスカスカになることでしょう。今まで両手で大事に大事に抱えてきたものなんて、大体は要らないものなのです。

 袋が見事にスカスカになれば、またゆっくりと歩きはじめましょう。一度空っぽになればあとは好きなものを詰めていけばいいだけです。

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 自分の意図せぬタイミングで空っぽになってしまうこともあるでしょう。しかしそれはきっと、空っぽになるべきタイミングだったのだと思います。

 そのまま歩きつづけても、両手で抱えた袋はもうパンパンです。新しいものを入れようにも、もう入る余地がありません。そんなところに無理やり詰め込もうとするとどうなるかは、ご想像のとおりです。ビリっと破れてすべてがこぼれ落ちていくのです。

 破れた直後は悲しいかもしれません。これまで大事にしてきたものが、すべてこぼれ落ちてしまうわけですからね。「自分には何もない」と虚無感に苛まれることでしょう。

 しかし、そんなときにこそ「一度空っぽになればあとは好きなものを詰めていけばいい」ということばを思い出してほしいと思います。空っぽからはじめられる機会なんてなかなかありませんからね。

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 最近はむしろ、意図的に「空っぽ」をつくりだせないだろうかと考えています。

 社会の中で生きていると、知らないうちにいろいろな枠に囲われてしまいますからね。それが「当たり前」になってしまったらなかなか抜け出せなくなってしまいます。袋の奥底に入り込み、そう簡単に取り出せなくなってしまうのです。

 そうならないようにするためにも、定期的に「空っぽ」にして、好きなものだけを詰め直すというサイクルをつくりだしたいというわけです。きっと、袋はいつもスカスカなくらいがちょうどいいのでしょう。おもしろいものをみつけたときにいつでも入れられるようにしておきたいのです。

 「意味」にも「理由」にも「時間」にもとらわれることのない「空っぽ」の状態。一体どうしたらそのような状態をつくることができるのでしょうか。やはり今いちばん近しいのは「走ること」かもしれません。

 ほかには何があるのでしょう。「座禅」とか「瞑想」とかになってくるのでしょうか。意図的に「空っぽ」をつくる。仏教でいうところの「空」でしょうか。いや、でも「意図的」な時点で本当の「空っぽ」ではないのかもしれませんね。

 ただ、たぶんですが「空っぽ」って「何もない」というわけではないんですよね。なんと言えばいいのでしょう。これまでの例に合わせて言えば、中身はなくとも袋はあるといったところでしょうか。

 うーん。なんだか今の時点でこれ以上話しても仕方がないような気がしてきました。「意図的に空っぽをつくること」「存在にリスペクトを送ること」は当分のテーマになるかもしれません。いい考えがあればまた教えてください。

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 【お知らせ】

Coming soon ......

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【水】世界が狭くなるとそこでのできごとは相対的に大きくなる

 

 おはようございます。どうして夏でもお湯を浴びるのでしょうか。ただでさえ暑いのに、さらに熱いお湯を浴びるって変な話ですよね。

 水を浴びることもあるわけですが、やはりお風呂といえばお湯が基本です。お湯を浴びても暑苦しくなることはありません。むしろサッパリするでしょう。

 結局は汗とおなじように体温とともに蒸発するから、温水でも冷水でも変わらないということでしょうか。それならば体温に近いお湯の方が、身体もびっくりせずに済むということでしょうか。

 なんだかそれらしい答えが出てしまいましたね。それに加えて、温かさには安心感のようなものもあるのでしょう。「ほどよい温度お湯を浴びる」って冷静に考えたらすごいことですね。どうも、インクです。

 

世界が狭くなるとそこでのできごとは相対的に大きくなる

 「何かを大切にする」ということは「それを失うリスクを背負う」ということでもあります。しかも、おもしろいことに「絶対に失わないように大切にするぞ!」と思えば思うほど、その大切なものは遠ざかっていってしまいます。

 もしそれが、ひとつしかないのなら大変です。それを失った瞬間に目の前がまっくらになってしまいます。「ああ、これまでの時間はなんだったんだ」と過去を嘆き、「ああ、この先も生きている意味なんてあるのだろうか」と未来を嘆くことになるのです。

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 大人からすればどうでもいいように思えることでも、子どもたちはかなり真剣です。ボールを取り合って真剣にケンカをしていますし、先生に怒られて真剣にヘコんでいます。子どもたちにとっての世界は「学校」だからです。学校でうまくいかなければ世界が終わってしまうのです。

 外にある広い世界を生きる大人からすれば「どちらが教室にボールを持って帰るか」なんて、どうだっていいことです。しかし、学校という狭い世界に生きる子どもからすれば「どちらがボールを教室に持って帰るか」はとても大きな問題なのです。

 大人はよく「そんなことどうでもいいでしょ!」と簡単に言ってしまいますが、これは問題が大きいか小さいかではなく、世界が広いか狭いかという話です。世界が狭くなるとそこでのできごとは相対的に大きくなるというわけです。

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ルネ・マグリット『リスニングルーム』

 要するに、いまあなたの前に立ちはだかっている大きな問題は、ただ大きく見えているだけです。問題側が大きくなったり小さくなったりするわけではありません。単純にあなたの生きている世界が狭いというだけです。

 「そんなもの、ただ言い換えただけじゃないか」と思った方もいらっしゃるかもしれません。たしかにその通りです。「ものは言いよう」というやつです。

 ただ、あなたは大人になった今でも「どちらがボールを持って帰るか」で誰かと争いますかという話です。そんなことでいちいち争わなくなったのは、あなたが広い世界を知ったからなのではないでしょうか。

 「いいや、それでもやっぱり目の前の問題は大きいよ」と思うのもまたひとつの選択です。結局大切なのは両方の視点をもって「よりよい道を選択することができる」ということなのです。

 問題側の大小という軸しかもっていなければ、選択の余地はありません。しかし、自分が見ている世界の広狭という軸ももつことができれば、よりよい方を選ぶことができるようになります。虫眼鏡と同じですね。対象物を動かすのか。自身が動くのか。対象に合わせてよりよい観察方法を自分で選べばよいのです。

 ただ、最後にひとつだけ言っておくと、問題側をどうにかしようとするよりも、自分の視点をどうにかしようとした方が簡単だとは思います。ほかの問題にぶつかったときにも転用することができますしね。

 徹底的に疑って、たくさんの視点でものごとを捉えられるようになれば、自ずと世界はおもしろくなっていくのではないでしょうか。

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【お知らせ:本日】

 毎週水曜日の定例会「こきけんよう」のお知らせです。20:15〜20:55の40分1本勝負です。第一回を終えて、やっぱり週の真ん中に予定があると目印になっていいなと思いました。「水曜どうでしょう」とか「水曜日のダウンタウン」とかも、きっとそういうことなのでしょう。興味をもっていただいた方は、ぜひ耳だけお貸しください。参加希望はツイッターのDMまで。こきけんよう。

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【火】時間って本当に全員に平等なのかな?

 

 おはようございます。地面をもぞもぞと動いているものがあったので、なんだろうと思って目を凝らすと、それはセミの幼虫でした。

 今年になって初セミです。とても小さかったです。一生懸命木に登ろうとしていました。持ち上げてひっかけてやろうかとも思いましたが、余計なお世話かと思ってやめました。大変そうだからって、自分で木に登る最初の機会を奪ってしまってはいけません。

 もしここで手助けをしてしまうとロクな成虫にならないかもしれませんからね。飛ぼうとも鳴こうともしない体たらくなセミになってしまうかもしれません。

 どうしても「うるさいなあ」と思ってしまうけれど、セミたちが鳴いてくれなければ日本に夏はやってきません。もうすぐ夏かあ。今年もがんばって鳴いてくれよな。どうも、インクです。

 

時間って本当に全員に平等なのかな?

 わたしたちは「時間」という軸をもとに生活を送っています。6時になったら起床して、7時になったら出勤して、8時になったら職場について、12時になったら昼食をとって。

 先ほど書いた「夏」も時を表すことばです。この記事のタイトルについている【火】も時を表すことばです。西暦、元号、干支、年齢、月日、曜日、時刻。人類が「時間」というものを一生懸命活用しようとしてきた証とも言えるでしょう。

 しかし、実際のところは「時間」なんて存在しません。空を見上げれば「6:00」と表示されているわけでもありませんし、地球の中心からチャイムが聞こえてくるわけでもありません。

 人間が勝手に1日を24に分けて、数字で表しているにすぎないのです。もちろん、これらの「時間」という概念があったからこそ、この世に生まれたものは山のようにあるでしょう。べつに「時間」そのものを否定したいわけではありません。

 いまの生活を振り返ってみると、当たり前のように「時間」の存在が前提にあったので、すこし疑ってみたくなったのです。

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 何度も言いますが「時間」なんて本当はないわけです。しかし、それがまるで「自然」であるかのようにそこに成立しています。実はこれって、かなりすごいことなのではないでしょうか。

 どうしてこんなにも「時間」が普及したのかと考えると、やはり人は大きくて漠然としたものを捉えることが苦手なのでしょう。

 1年という大きなもの(そもそも時間がなければ1年もないわけですが)を捉えることができないから、12の月で分けたのです。月でも大きすぎるので31の日に分け、日をさらに24の時に分けました。もちろんその先には、分があり秒があります。大きくて漠然としたものを分断することで、理解しようとしたというわけですね。

 まあ、このあたりの「分断」や「理解」という点においては、本気で研究されている方がたくさんいらっしゃると思うので、今日は置いておこうと思います。

 それではここから先に何を考えるのかというと「時間から脱却する方法」についてです。「そもそも時間なんてない」ということを前提とするなら、時間から脱却することは可能であるはずなのです。

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 まずは、いまの生活の中に「時間にとらわれていない場面」がないかをさがしてみましょう。真っ先に思いついたのが睡眠時間です。いや、待てよ。睡眠「時間」って言っちゃった。もうダメじゃん。

 睡眠はたしかに意識の外にあるのかもしれませんが、むしろ意識が途切れるせいで、その入口と出口の存在が明確になってしまいます。「何時に寝て何時に起きた」とか「何時間寝た」とか、意識の有無において分断されてしまっている時点で、時間から脱却することは絶対にできないというわけです。

 逆に言えば、この仮説から「地続きのものでなければならない」というヒントを得られたことになります。何かしらの観点ではっきりと分断されてしまっている時点で、確実に「時間」はそこに出現することになるのです。

 そうなると、死がある限り「時間」からは逃れられないということになってしまいます。生死という観点ではっきりと分断されますからね。ただ、それではあまりおもしろくないので、今回は「生の中で時間を脱却する」ということを前提に考えたいと思います。

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  言うまでもありませんが、仕事の中で「時間」から脱却することはできないでしょう。学校の先生なんてなおさらです。子どもたちに「時間をを守りなさい」と言う仕事ですからね。

 月曜日が憂鬱になるのも、結局は「時間」に囚われてしまっているからです。日曜日と月曜日が分断されているからこそ、憂鬱になってしまうのです。もしこれが地続きなら「仕事に行くことが憂鬱」になることはあったとしても「月曜日が憂鬱」になることはないでしょう。

 このように考えると、未来を想像することも「時間」のナワバリの中だと言えるのかもしれません。未来のできごとに追われてしまっている時点で「時間」から逃れることはできないのです。

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 ここまでの内容をまとめると、時間から脱却するために必要な要素はふたつです。ひとつは、地続きであること。もうひとつは、未来を想像しないことです。ただし、このふたつは若干矛盾しています。同時に成立することはできません。逆に言えば、だからこそ「時間」はこれほどまでに生活に馴染んでいるのかもしれません。

 このふたつの妥協点をさがすとしたら「どこかへ向かって進んではいるけれど、到着がいつになってもかまわない」といったところでしょうか。この条件に当てはまるものをさがしたときに、パッと思いついたのが「走ること」でした。

 フォレスト・ガンプが走り続けていたのはこういうことなのかもしれません。もちろん厳密なことを言えば「走ること」には終わりがありますし、そうすればタイムもからんでくるでしょう。それでもやっぱり走っている間は、時間からの脱却に限りなく近づいているのではないでしょうか。

 沢木耕太郎さんの『深夜特急』における旅も、この条件に当てはまっているのかもしれません。

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映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』より

 すみません。今日の記事はただただ思いついたことを書き殴っただけなので、よくわからないことになってしまいました。少なからず「時間」の外にも世界があって、そこからしか見えないものがあるはずだというお話でした。そしておそらくですが、そこにはかなりおもしろそうなものがあるような気がするのです。

 いちどでいいから「時間」の外側に出てみたいものです。 そのためにもまずは、曜日に関するツイートをやめることからはじめてみようと思います。昨日も今日も明日もおなじ。月曜も火曜も水曜もおなじ。分断されているように見えて、結局はぜんぶおなじだというわけです。

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【お知らせ】

 毎週水曜日の定例会「こきけんよう」のお知らせです。20:15〜20:55の40分1本勝負です。第一回を終えて、やっぱり週の真ん中に予定があると目印になっていいなと思いました。「水曜どうでしょう」とか「水曜日のダウンタウン」とかも、きっとそういうことなのでしょう。興味をもっていただいた方は、ぜひ耳だけお貸しください。参加希望はツイッターのDMまで。こきけんよう。

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【月】理屈が通っていれば納得してもらえるとは限らないよ

 

 おはようございます。昨日、2本の水を見ました。そうです。あの水です。生命にとって必要不可欠なあの水です。2本の水を見たのです。

 1本目を見たのは電車の中でした。まるで人間であるかのような顔をして、座席にすわっていたのです。きっとだれかが置き忘れていったのでしょう。中身が入っていることもあり、だれも触ろうとはしません。べつにさほど珍しいことではないのかもしれませんが、そこだけぽっかりと空間ができていたのでとても印象にのこりました。

 そんな電車から降りて自宅へと向かう道で、またまた水に出会いました。2本目の水は、横断歩道を渡った先で平然とした顔で立っていました。まるで誰かが意図して置いたかのように、道のど真ん中に立っていたのです。ふだんなら何も気にせずに通り過ぎていたかもしれませんが、何せ水にはついさっき会ったばかりです。思わず二度見してしまいました。

 「二度あることは三度ある」ということばもあります。もしかすると、今日の出勤で3本目の水に出会うことになるかもしれません。職員室のデスクに水が置かれていたらどうしよう。教室の真ん中に水が置かれていたらどうしよう。もしかすると、何かしらの予兆なのかもしれません。3本の水の予兆。いい予兆でありますように。どうも、インクです。

 

 理屈が通っていれば納得してもらえるとは限らないよ

 何かしらの意見を述べる上で、理屈が通っているということはとても大切です。どれだけ素晴らしい意見だったとしても、理屈が通っていなければ聞き入れてもらうことはできないでしょう。

 このような理屈は「ことばの定義づけ」からはじまります。そもそもの「ことばの定義」が曖昧だったとしたら、あとになればなるほど噛み合わなくなってしまいます。どうしても「相手もおなじ意味合いでつかっているはずだ」と思ってしまいますからね。

 さらに言えば、単純にめんどくさいのです。「ことばの定義」のすり合わせって。そもそも「ことば」というもの自体が、事物の定義やその関係性を他者と共有するために存在しています。意味を共通理解していることが前提にあるツールなのです。

 だからこそ、いちいち「ことばの定義」から話しはじめようとすると嫌がられてしまいます。そこがそろっていなければ、その先につづく議論に多くの無駄が発生してしまうんですけどね。この手間を省いてしまっている議論はとても多いのではないでしょうか。

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 ただ反対に、定義がそろって理屈が通っていればそれでいいのかというと、そういうわけでもありません。たとえば、先ほど「いちいち『ことばの定義』から話しはじめようとすると嫌がられてしまいます」と書きましたが、このような理屈とはべつのところにある「感情」が、人の意思決定に大きな影響を与えることも往々にしてあるのです。

 ときにはそれが「めんどくささ」だったり「プライド」だったり。ときには「そのときにたまたま大切にしているもの」だったり「直感」だったり。必ずしも「理屈が通っていること」だけで押し通せるわけではないのです。

 この事実をよく忘れてしまうのが「理屈」のこわいところです。パズルのピースはキレイにはまっているのに、納得できないだなんて相手がおかしいんだ。理屈を理解できない相手がバカなんだ。と、そんなふうに考えてしまうようになるのです。

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 ツイッター上でもよく見かけます。論理矛盾を的確に指摘しているにも関わらず「めんどくさい人」として軽くあしらわれているアカウントたちを。

 彼らの指摘はたしかに筋が通っています。多少挑発的な言い回しをしていることもありますが、的を射た反論をしていることも多いでしょう。

 しかし結局は、お互いがお互いに煽り合ってケンカのようなことになっておしまいです。指摘する側は先ほど述べたように「バカすぎて議論にならない」と煽り、指摘された側は「ご指摘ありがとうございます。140字では伝わらなかったようですね」とか大人ぶって煽り返すのです。

 そもそもツイッターというツール自体が議論には向いていないのだろうなと思います。それこそ「ことばの定義」も「熱量」も、前提がバラバラですからね。そんな相手と一生懸命議論しようとしたって、お互いに磨耗して終わるのがオチなのです。

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 すみません。話があちらこちらへいってしまいましたね。今日の記事で書きたかったのは「考え方」と「伝え方」は分けなければならないという話です。はじめにも述べたように、たしかに「理屈」は大切です。ロジカルに物事を捉えることができなければ、見えるものも見えなくなってしまうでしょう。

 ただし、だからといって、その思考の過程をそのまま表現すれば相手にも伝わるかというと、そういうわけではないのです。自分の中で腑に落ちていることが、相手の中でも落ちるとは限りません。本当に相手にも納得してほしいのであれば、その人に合った「伝え方」を選択しなければならないのです。

 もちろん相手によっては「理屈っぽく説明すること」が最善策になる人もいるでしょう。「感情に訴えかける」が最善な人もいるでしょうし「挑発する」が最善な人もいるでしょう。「まずは仲良くなる」が最善な人もいるでしょうし「端的に結論だけを述べる」が最善な人もいるでしょう。

 本当に自分の意見を伝えたいと願うのなら、その道筋までをも選択してデザインしなければならないのです。なんども同じことを言ってすみません。「理屈が通っていれば相手も納得してくれる」という考え方は大きな間違いだと思うのです。

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【お知らせ】

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【日】無責任でいられるからこそ優しいことばを投げかけられる

 

 おはようございます。昨日、目の前を自転車で通り過ぎた子どもが「あ、公園に扇風機を忘れた!」とつぶやいて、来た道を戻っていきました。

 わたしは公園に扇風機を忘れる。文をつくる問題でこのような答えを書く子どもがいたら、先生は丸をつけなければならないのかもしれません。

 10年後には一体なにを公園に忘れるようになるのでしょう。もしかすると「あ、公園に身体を忘れた!」みたいなことが起こりえるかもしれませんね。どうも、インクです。

 

無責任でいられるからこそ優しいことばを投げかけられる

 優しいことばは嘘くさい。なんだか表面的で、怪しく思えてしまいます。だれかの体調不良に対しての「大丈夫ですか?」とか「無理をしないでくださいね!」とか「ゆっくり休んでくださいね!」とか。なかなか好きになれないことばたちです。

 本当はべつにどうだっていいのです。その人の頭がちょっとくらい痛かろうが、知ったこっちゃありません。その人のお腹がちょっとくらい痛かろうが、自分にはなんの関係もないのです。

 それにも関わらず、まるで心の底から心配しているようなテンションで「大丈夫ですか?」と声をかける人がいます。きっとそんな人は、ここまでの文章を読んで「いや、本当に心配なんだって!」と怒ることでしょう。嫌味でもなんでもなく単純にいい人なのだと思います。

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 今日の記事は、べつに穿った見方をして人の良心を否定したいわけではありません。これらの良心は、責任をとらなくても済むからこそ発揮されるものであるという話がしたいのです。

 もし、この「無理をしないでくださいね!」ということばに責任が発生するとしたら、どうなってしまうでしょう。本当にこのことばを信じて、その人が無理をしなくなって、ついには職を失ってしまうようなことになったとき、あなたに責任がとれるでしょうか。

 もちろんこれは極端な例です。どの程度の無理をするかは当人が判断します。「多少しんどくても働くかあ」と決めるのも本人ですし「もう1日休もう」と決めるのも本人です。他者に「無理をしないでくださいね!」と言われたことがトリガーになることはまずないでしょう。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

  • 作者:村上春樹
  • 発売日: 2016/12/16
  • メディア: Kindle版
 

 村上春樹の『スプートニクの恋人』という小説の中に「他人のことがなんとでも簡単に言えなくなったら、世界はすごく陰鬱で危険な場所になる」ということばが登場します。まさにこのことです。無責任でいられるからこそ優しいことばを投げかけることができるのです。

 裏返せば、厳しいことばもおなじです。そのことばを受け取ってどうするのかは相手が決めることだから、言った側が責任をとる必要はない。そんな考えが前提になっているからこそ、他者に厳しいことばを投げかけることができるのです。

 先ほど想像したように、これらのことばに本当に責任が発生するようになれば、きっとだれも何も言えなくなってしまうでしょう。他者の人生に責任をとることなんてそう簡単にできっこないのです。

  はじめに「優しいことばは嘘くさい」と言っていた意味がわかっていただけたでしょうか。優しさそのものを否定しているのではなく、責任をとることなんてできないのに、まるで責任をとるかのような勢いで発せられるから、嘘くさく感じてしまうのです。

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 反対に言えば、あなたに向けられることばのほとんどは、無責任がゆえに生まれたものです。インターネット上のことばなんてなおさらです。 そんなことばに踊らされる必要なんてありません。と言いたいところですが、これもまた無責任が故に生まれてくることばです。踊らされるかどうかを決めるのも結局はあなた自身なのです。

  すべての選択権はあなたにあります。あなたの人生が、いい方向に進もうがわるい方向に進もうが、他者からすれば知ったこっちゃありません。もちろん、いい方向に進めばいいなとは思いますよ。ただ申しわけありませんが、責任をとることはできないので勝手にいい方向に進んでください。

 そうすればきっとどこかで出会う日がくると思います。そのときはぜひ、頭もお腹も痛くない状態で来ていただけると助かります。

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