【火】時間って本当に全員に平等なのかな?
おはようございます。地面をもぞもぞと動いているものがあったので、なんだろうと思って目を凝らすと、それはセミの幼虫でした。
今年になって初セミです。とても小さかったです。一生懸命木に登ろうとしていました。持ち上げてひっかけてやろうかとも思いましたが、余計なお世話かと思ってやめました。大変そうだからって、自分で木に登る最初の機会を奪ってしまってはいけません。
もしここで手助けをしてしまうとロクな成虫にならないかもしれませんからね。飛ぼうとも鳴こうともしない体たらくなセミになってしまうかもしれません。
どうしても「うるさいなあ」と思ってしまうけれど、セミたちが鳴いてくれなければ日本に夏はやってきません。もうすぐ夏かあ。今年もがんばって鳴いてくれよな。どうも、インクです。
時間って本当に全員に平等なのかな?
時間って本当に全員に平等なのかな?
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年6月28日
わたしたちは「時間」という軸をもとに生活を送っています。6時になったら起床して、7時になったら出勤して、8時になったら職場について、12時になったら昼食をとって。
先ほど書いた「夏」も時を表すことばです。この記事のタイトルについている【火】も時を表すことばです。西暦、元号、干支、年齢、月日、曜日、時刻。人類が「時間」というものを一生懸命活用しようとしてきた証とも言えるでしょう。
しかし、実際のところは「時間」なんて存在しません。空を見上げれば「6:00」と表示されているわけでもありませんし、地球の中心からチャイムが聞こえてくるわけでもありません。
人間が勝手に1日を24に分けて、数字で表しているにすぎないのです。もちろん、これらの「時間」という概念があったからこそ、この世に生まれたものは山のようにあるでしょう。べつに「時間」そのものを否定したいわけではありません。
いまの生活を振り返ってみると、当たり前のように「時間」の存在が前提にあったので、すこし疑ってみたくなったのです。
何度も言いますが「時間」なんて本当はないわけです。しかし、それがまるで「自然」であるかのようにそこに成立しています。実はこれって、かなりすごいことなのではないでしょうか。
どうしてこんなにも「時間」が普及したのかと考えると、やはり人は大きくて漠然としたものを捉えることが苦手なのでしょう。
1年という大きなもの(そもそも時間がなければ1年もないわけですが)を捉えることができないから、12の月で分けたのです。月でも大きすぎるので31の日に分け、日をさらに24の時に分けました。もちろんその先には、分があり秒があります。大きくて漠然としたものを分断することで、理解しようとしたというわけですね。
まあ、このあたりの「分断」や「理解」という点においては、本気で研究されている方がたくさんいらっしゃると思うので、今日は置いておこうと思います。
それではここから先に何を考えるのかというと「時間から脱却する方法」についてです。「そもそも時間なんてない」ということを前提とするなら、時間から脱却することは可能であるはずなのです。
まずは、いまの生活の中に「時間にとらわれていない場面」がないかをさがしてみましょう。真っ先に思いついたのが睡眠時間です。いや、待てよ。睡眠「時間」って言っちゃった。もうダメじゃん。
睡眠はたしかに意識の外にあるのかもしれませんが、むしろ意識が途切れるせいで、その入口と出口の存在が明確になってしまいます。「何時に寝て何時に起きた」とか「何時間寝た」とか、意識の有無において分断されてしまっている時点で、時間から脱却することは絶対にできないというわけです。
逆に言えば、この仮説から「地続きのものでなければならない」というヒントを得られたことになります。何かしらの観点ではっきりと分断されてしまっている時点で、確実に「時間」はそこに出現することになるのです。
そうなると、死がある限り「時間」からは逃れられないということになってしまいます。生死という観点ではっきりと分断されますからね。ただ、それではあまりおもしろくないので、今回は「生の中で時間を脱却する」ということを前提に考えたいと思います。
言うまでもありませんが、仕事の中で「時間」から脱却することはできないでしょう。学校の先生なんてなおさらです。子どもたちに「時間をを守りなさい」と言う仕事ですからね。
月曜日が憂鬱になるのも、結局は「時間」に囚われてしまっているからです。日曜日と月曜日が分断されているからこそ、憂鬱になってしまうのです。もしこれが地続きなら「仕事に行くことが憂鬱」になることはあったとしても「月曜日が憂鬱」になることはないでしょう。
このように考えると、未来を想像することも「時間」のナワバリの中だと言えるのかもしれません。未来のできごとに追われてしまっている時点で「時間」から逃れることはできないのです。
ここまでの内容をまとめると、時間から脱却するために必要な要素はふたつです。ひとつは、地続きであること。もうひとつは、未来を想像しないことです。ただし、このふたつは若干矛盾しています。同時に成立することはできません。逆に言えば、だからこそ「時間」はこれほどまでに生活に馴染んでいるのかもしれません。
このふたつの妥協点をさがすとしたら「どこかへ向かって進んではいるけれど、到着がいつになってもかまわない」といったところでしょうか。この条件に当てはまるものをさがしたときに、パッと思いついたのが「走ること」でした。
フォレスト・ガンプが走り続けていたのはこういうことなのかもしれません。もちろん厳密なことを言えば「走ること」には終わりがありますし、そうすればタイムもからんでくるでしょう。それでもやっぱり走っている間は、時間からの脱却に限りなく近づいているのではないでしょうか。
沢木耕太郎さんの『深夜特急』における旅も、この条件に当てはまっているのかもしれません。
すみません。今日の記事はただただ思いついたことを書き殴っただけなので、よくわからないことになってしまいました。少なからず「時間」の外にも世界があって、そこからしか見えないものがあるはずだというお話でした。そしておそらくですが、そこにはかなりおもしろそうなものがあるような気がするのです。
いちどでいいから「時間」の外側に出てみたいものです。 そのためにもまずは、曜日に関するツイートをやめることからはじめてみようと思います。昨日も今日も明日もおなじ。月曜も火曜も水曜もおなじ。分断されているように見えて、結局はぜんぶおなじだというわけです。
【お知らせ】
毎週水曜日の定例会「こきけんよう」のお知らせです。20:15〜20:55の40分1本勝負です。第一回を終えて、やっぱり週の真ん中に予定があると目印になっていいなと思いました。「水曜どうでしょう」とか「水曜日のダウンタウン」とかも、きっとそういうことなのでしょう。興味をもっていただいた方は、ぜひ耳だけお貸しください。参加希望はツイッターのDMまで。こきけんよう。