ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】クラスなんて通過点

 

 おはようございます。買い物が好きです。しかし、それと同時に「本当にいいものがみつかるまでは買いたくない」というこだわりもあります。2年前くらいからずっとマフラーがほしいと思っているのですが、なかなかいいものがみつからず、ずっと安いウールのマフラーを巻いて寒さを凌いでいます。まあ、毛が口に入ること。巻いて10分もすれば、喉につっかかりを感じるようになります。だからといって、巻かなければ寒いし、中途半端なものを買いたくもありません。こうして今年の冬もきっと、毛を食べながら過ぎていくのだと思います。いつか出会う本当にいいマフラーのことを想いながら。どうも、インクです。

 

クラスなんて通過点

 たまたま同じ年に同じ生まれて、たまたま同じ地域に住んでいた子どもたちの集まり。それが「クラス」です。基本的に、そのクラスに身を置く期間は1年間。長い人生のうちのたったの1年です。子どもたちの人生にとって「クラス」はただの通過点でしかありません。

 それにも関わらず、「クラス」に対する捉え方がすこし重たすぎるような気がしています。誰とでも友だちになればいいはずなのに、みんながみんな「クラスで友だちができるかどうか」を心配します。どの先生でも、自分が合うと思った先生に相談すればいいのに、常に相手は「クラスの担任の先生」です。

 だからこそ、クラスで友だちができなければ、1年間がつまらないものになります。クラスの担任の先生と合わなければ、1年間ずっと我慢し続けなければなりません。はじめに述べたように、そこに集まった人たちは、たまたま同じ年に生まれて、たまたま同じ地域に住んでいただけです。担任の先生だって、たまたまその学校に配属されて、たまたまそのクラスを受けもつことになっただけです。そんな「たまたま」に、自分の貴重な人生の時間を預けるだなんて、あまりにもリスキーな考え方だとは思いませんか。

 もちろん、その出会いをひとつの「運命」として大切にするのは結構です。そんな確率の低い「たまたま」の中で出会ったわけですからね。大切にすればいいと思います。ただし「大切にすること」と「それがすべてだと思うこと」はまったくの別物です。何度も言うように、クラスはただの通過点です。生活のすべてではありません。

 仮にクラスで友だちができなくても、隣のクラスに仲のよい友だちがいればそれでOKです。なんなら別に友だちがいなくたってかまいません。仮にクラスですごす時間が楽しくなくても、休み時間が楽しければOKです。休み時間のために学校に来ればいいと思います。仮に担任の先生と合わなくても、他のクラスの先生に相談ができればそれでOKです。図工の先生や音楽の先生、保健の先生でもかまいません。

 さらに言えば、別に学校に居場所がなくたってかまいません。学校なんて所詮、時間が経てば終わります。家に帰ってホッとできるのであればそれでいいでしょう。習い事で得意なことが活かせるのならそれでいいでしょう。インターネットの世界で自分を表現できるのならそれでいいでしょう。どこかひとつでも息がしやすい場所をもっていれば、人はなんとか生きていくことができるはずなのです。

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 しかし、現場を覗いてみれば、やはり「クラス」に対する捉え方はとても重たいです。どうしてこんなに「クラス」に比重が置かれるのかというと、理由はふたつあります。ひとつ目は、単純にそこで過ごす時間が長いということ。ふたつ目は、子どもたちに選択肢がないということです。ひとつずつ順番に考えていきたいと思います。

 

① 時間が長い

 単純でありながら、とても大きな理由です。朝8時に登校して夕方16時に下校すると考えると、実に8時間、1日の1/3を「クラス」で過ごすことになります。ほんの少しの間なら「嫌でも我慢しよう」と考えられるかもしれませんが、さすがに1日8時間は長すぎます。どうにかこうにか我慢できたとしても、寝て起きれば新しい8時間が始まるわけですからね。そりゃあ、その「クラス」の中で、なんとか友だちをつくって居場所を確保しなければならないという考え方にもなります。

 逆に言えば、そのせいで、苦しむ子どもはとことん苦しみ続けることになります。1日耐えて、また1日。なんとか耐えても、また次の1日。はじめに「たったの1年」と表現しましたが、当事者からすればこの「1年」はあまりにも長いのです。

 

② 選択肢がない

 だからといって、子どもたちに選択肢があるのかというと、そういうわけでもありません。生まれた年や住んでいる地域によって、自動的に「クラス」は決まります。もちろん厳密に言えば他の選択肢もたくさんあるのでしょうが、まだまだ一般的ではありません。なにより、その選択肢はどちらかと言えば、子の選択肢ではなく親の選択肢です。経済的な事情も大きく関係してきますからね。だから、今日の記事ではもっとも一般的だと思われる「公立学校」を基準に考えています。

 仮にそのクラスが嫌だったとしても、そう簡単に他のクラスへ行くことはできません。仮にその授業が嫌だったとしても、途中で抜け出せば大きな声で怒鳴られてしまいます。仮に登校することをやめれば、「不登校」というレッテルを貼られ、必要以上に大人たちから心配されます。親の理解がなければ、学校に行くよりも苦しい状況に追い込まれることになるかもしれません。

 要するに、嫌でも耐えるしかないというわけです。あくまで便宜上このように言っているだけです。本当の意味ではもっとたくさんの選択肢があるはずです。しかし、多くの子どもにとっての現実は「選択肢がない」と同義だと言っても過言ではないはずです。だから、このような言い方をしています。

 

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 小さな子どもたちを軟禁する施設。それが学校です。さすがに言いすぎだろと思うかもしれませんが、上の定義を読んでみてください。寸分違わず「学校」に当てはまるはずです。身体の自由は束縛しないが、室内から出さない。外部との交渉を禁じ、あるいは制限するもの。まさに「クラス」です。おもしろいくらいに当てはまっているはずです。

 「軟禁」ということばにはびっくりするものの、先生だってこのことは十分に理解しています。だからこそ、なんとかしてすべての子どもたちの居場所をつくろうと必死にがんばっているのです。檻に囲われた子どもたち。だからせめても、檻の中をできるだけ過ごしやすい空間にしよう。そう思いながら日々がんばっています。

 しかし、皮肉なことに、このような先生の思いが強くなればなるほど「クラス」という名の檻は強固なものになっていきます。先生が一生懸命「クラス」を過ごしやすい空間にしようとしている。だから、なんとかしてこのクラスに馴染まなければならない。なんとかしてこのクラスに居場所をつくらなければならない。こうして、子どもたちの世界はだんだんと狭くなり「クラスがすべて」になっていきます。すべてである「クラス」でうまくいかなければ、人生はもうおしまいです。「先には大きな世界が広がっている」なんて大人の声は届きません。その子にとっての世界は「クラス」です。そんな世界が苦しくてたまらなければ、もう生き続ける理由がなくなってしまうのです。

 そして何度も言うように、そんな状況をつくるのは「クラスをよくしたい」という先生の思いです。これほど皮肉なことはありません。「子どもたちの人生がかかっている」という先生の責任感が、子どもたちを窮地に追い込むことになるのです。

 だから、先生はもっとお気楽であるべきです。子どもたちの人生は子どもたちのものです。先生なんてたまたま出会った大人のひとり。クラスなんてただの通過点でしかありません。「人生を預かる」だなんて何様のつもりなんだという話です。あなたはただの人間です。

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 筆者自身が「クラス」という檻に窮屈さを感じ、苦しみ続けてきたからこそ書くことができた文章です。ふだんはあまりこのようなことは言いませんが、この記事は単純にたくさんの人に読んでほしいなと思います。協力していただければ幸いです。