ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】クラスなんて通過点

 

 おはようございます。買い物が好きです。しかし、それと同時に「本当にいいものがみつかるまでは買いたくない」というこだわりもあります。2年前くらいからずっとマフラーがほしいと思っているのですが、なかなかいいものがみつからず、ずっと安いウールのマフラーを巻いて寒さを凌いでいます。まあ、毛が口に入ること。巻いて10分もすれば、喉につっかかりを感じるようになります。だからといって、巻かなければ寒いし、中途半端なものを買いたくもありません。こうして今年の冬もきっと、毛を食べながら過ぎていくのだと思います。いつか出会う本当にいいマフラーのことを想いながら。どうも、インクです。

 

クラスなんて通過点

 たまたま同じ年に同じ生まれて、たまたま同じ地域に住んでいた子どもたちの集まり。それが「クラス」です。基本的に、そのクラスに身を置く期間は1年間。長い人生のうちのたったの1年です。子どもたちの人生にとって「クラス」はただの通過点でしかありません。

 それにも関わらず、「クラス」に対する捉え方がすこし重たすぎるような気がしています。誰とでも友だちになればいいはずなのに、みんながみんな「クラスで友だちができるかどうか」を心配します。どの先生でも、自分が合うと思った先生に相談すればいいのに、常に相手は「クラスの担任の先生」です。

 だからこそ、クラスで友だちができなければ、1年間がつまらないものになります。クラスの担任の先生と合わなければ、1年間ずっと我慢し続けなければなりません。はじめに述べたように、そこに集まった人たちは、たまたま同じ年に生まれて、たまたま同じ地域に住んでいただけです。担任の先生だって、たまたまその学校に配属されて、たまたまそのクラスを受けもつことになっただけです。そんな「たまたま」に、自分の貴重な人生の時間を預けるだなんて、あまりにもリスキーな考え方だとは思いませんか。

 もちろん、その出会いをひとつの「運命」として大切にするのは結構です。そんな確率の低い「たまたま」の中で出会ったわけですからね。大切にすればいいと思います。ただし「大切にすること」と「それがすべてだと思うこと」はまったくの別物です。何度も言うように、クラスはただの通過点です。生活のすべてではありません。

 仮にクラスで友だちができなくても、隣のクラスに仲のよい友だちがいればそれでOKです。なんなら別に友だちがいなくたってかまいません。仮にクラスですごす時間が楽しくなくても、休み時間が楽しければOKです。休み時間のために学校に来ればいいと思います。仮に担任の先生と合わなくても、他のクラスの先生に相談ができればそれでOKです。図工の先生や音楽の先生、保健の先生でもかまいません。

 さらに言えば、別に学校に居場所がなくたってかまいません。学校なんて所詮、時間が経てば終わります。家に帰ってホッとできるのであればそれでいいでしょう。習い事で得意なことが活かせるのならそれでいいでしょう。インターネットの世界で自分を表現できるのならそれでいいでしょう。どこかひとつでも息がしやすい場所をもっていれば、人はなんとか生きていくことができるはずなのです。

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 しかし、現場を覗いてみれば、やはり「クラス」に対する捉え方はとても重たいです。どうしてこんなに「クラス」に比重が置かれるのかというと、理由はふたつあります。ひとつ目は、単純にそこで過ごす時間が長いということ。ふたつ目は、子どもたちに選択肢がないということです。ひとつずつ順番に考えていきたいと思います。

 

① 時間が長い

 単純でありながら、とても大きな理由です。朝8時に登校して夕方16時に下校すると考えると、実に8時間、1日の1/3を「クラス」で過ごすことになります。ほんの少しの間なら「嫌でも我慢しよう」と考えられるかもしれませんが、さすがに1日8時間は長すぎます。どうにかこうにか我慢できたとしても、寝て起きれば新しい8時間が始まるわけですからね。そりゃあ、その「クラス」の中で、なんとか友だちをつくって居場所を確保しなければならないという考え方にもなります。

 逆に言えば、そのせいで、苦しむ子どもはとことん苦しみ続けることになります。1日耐えて、また1日。なんとか耐えても、また次の1日。はじめに「たったの1年」と表現しましたが、当事者からすればこの「1年」はあまりにも長いのです。

 

② 選択肢がない

 だからといって、子どもたちに選択肢があるのかというと、そういうわけでもありません。生まれた年や住んでいる地域によって、自動的に「クラス」は決まります。もちろん厳密に言えば他の選択肢もたくさんあるのでしょうが、まだまだ一般的ではありません。なにより、その選択肢はどちらかと言えば、子の選択肢ではなく親の選択肢です。経済的な事情も大きく関係してきますからね。だから、今日の記事ではもっとも一般的だと思われる「公立学校」を基準に考えています。

 仮にそのクラスが嫌だったとしても、そう簡単に他のクラスへ行くことはできません。仮にその授業が嫌だったとしても、途中で抜け出せば大きな声で怒鳴られてしまいます。仮に登校することをやめれば、「不登校」というレッテルを貼られ、必要以上に大人たちから心配されます。親の理解がなければ、学校に行くよりも苦しい状況に追い込まれることになるかもしれません。

 要するに、嫌でも耐えるしかないというわけです。あくまで便宜上このように言っているだけです。本当の意味ではもっとたくさんの選択肢があるはずです。しかし、多くの子どもにとっての現実は「選択肢がない」と同義だと言っても過言ではないはずです。だから、このような言い方をしています。

 

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 小さな子どもたちを軟禁する施設。それが学校です。さすがに言いすぎだろと思うかもしれませんが、上の定義を読んでみてください。寸分違わず「学校」に当てはまるはずです。身体の自由は束縛しないが、室内から出さない。外部との交渉を禁じ、あるいは制限するもの。まさに「クラス」です。おもしろいくらいに当てはまっているはずです。

 「軟禁」ということばにはびっくりするものの、先生だってこのことは十分に理解しています。だからこそ、なんとかしてすべての子どもたちの居場所をつくろうと必死にがんばっているのです。檻に囲われた子どもたち。だからせめても、檻の中をできるだけ過ごしやすい空間にしよう。そう思いながら日々がんばっています。

 しかし、皮肉なことに、このような先生の思いが強くなればなるほど「クラス」という名の檻は強固なものになっていきます。先生が一生懸命「クラス」を過ごしやすい空間にしようとしている。だから、なんとかしてこのクラスに馴染まなければならない。なんとかしてこのクラスに居場所をつくらなければならない。こうして、子どもたちの世界はだんだんと狭くなり「クラスがすべて」になっていきます。すべてである「クラス」でうまくいかなければ、人生はもうおしまいです。「先には大きな世界が広がっている」なんて大人の声は届きません。その子にとっての世界は「クラス」です。そんな世界が苦しくてたまらなければ、もう生き続ける理由がなくなってしまうのです。

 そして何度も言うように、そんな状況をつくるのは「クラスをよくしたい」という先生の思いです。これほど皮肉なことはありません。「子どもたちの人生がかかっている」という先生の責任感が、子どもたちを窮地に追い込むことになるのです。

 だから、先生はもっとお気楽であるべきです。子どもたちの人生は子どもたちのものです。先生なんてたまたま出会った大人のひとり。クラスなんてただの通過点でしかありません。「人生を預かる」だなんて何様のつもりなんだという話です。あなたはただの人間です。

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 筆者自身が「クラス」という檻に窮屈さを感じ、苦しみ続けてきたからこそ書くことができた文章です。ふだんはあまりこのようなことは言いませんが、この記事は単純にたくさんの人に読んでほしいなと思います。協力していただければ幸いです。

 

 

【土】バカに対して本気で怒っている人もまたバカなのです

 

 おはようございます。「ひっかけ問題です!8かける2は?」と昨日子どもに言われました。みなさんは答えがわかりますか。正解は「刺されて痛い」だそうです。さすが小学生ですね。少しでも考えた自分がバカでした。どうも、インクです。

 

バカに対して本気で怒っている人もまたバカなのです

  ツイッターのあるあるを言いたい〜。あるあるを言いたい〜ツイッターの〜。ツイッターを覗いているときによく見かける〜あるあるを言いたい〜。ツ、ツ、ツイッターの〜あるあるを言いたい〜。ツイッターの〜あるあるを今から言うよ〜。

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 ツイッターランドを覗いていると、一生懸命怒っている人をよく見かけます。もちろんリアルの世界で起こったことに対しての愚痴をこぼしているツイートも多いのですが、どちらかと言えばタイムライン上でのできごとにたいして怒っているツイートが目立つような気がします。基本的に流れはすべて同じです。

 

 ① 挑発的なリプが送られる

 ② 引用リツイートでそのリプを晒す

 ③ その人の仲間がわらわらと集まって擁護する

 ④ ツイ消しをする

 

 いかがでしょう。ツイッターあるあるですよね。この流れを何度見たことか。あまりにも見すぎたので、筆者のタイムラインではこの類のツイートがすべて赤色で表示されるようになりました。すごいですね、AIの技術の進歩は。ツイートの内容までをも識別できるようになったそうです。おかげで怒っている人をすぐにみつけられるようになりました。

 実際のツイートを例に挙げながら話せたらわかりやすいのですが、さすがに角が立ちまくるのでやめておきますね。先に言っておきますが、これから書くことはあなたのことではありません。あなたのことでも、あなたのことでもありません。自分のことが書かれているだなんて、自意識過剰ですので勘弁してください。それでは順番に見ていきましょう。

 

 

① 挑発的なリプが送られる

 こればかりはどうしようもありません。本当に嫌なのであれば、あなたがツイッターから離れるべきです。ここで気をつけなければならないのが、そのリプがどのような意図で送られているのかを十分に読み取る必要があるということです。もしかすると相手は、ひとつの「批判的な意見」として議論を広げていこうとしているのかもしれません。もしくは、反応を伺ってこちらの技量を推し量ろうとしているのかもしてません。はたまた、パフォーマンスとしてプロレスを仕掛けてきているのかもしれません。

 ツイッターランドでは、「批難」と「批判」がごちゃ混ぜになって、すべてが「アンチコメント」としてひとくくりにされることが多いです。相手の意図を汲み取った上で、コメントを返していかなければ、こちらの器の小ささを露呈するだけになってしまいます。そんなパターンが非常に多いような気がするので、ランドの住民はよく気をつけた方がいいのかもしれません。

 

 

② 引用リツイートでそのリプを晒す

 「この人ひまなのかな?」とか「この人よっぽどオレのことが好きなんだな」とか。この類のコメントをぶら下げて、引用リツイートをする人がとても多いです。正直とてもカッコ悪い。一度とられたマウントを必死で取り返そうとしている感じが伝わってきて少し引いてしまいます。仮にこれを冗談で言っているのならなおさらです。冗談の美学がまったく感じられません。結局は「ワタシは別に余裕ですけど」というアピールでマウントを取りたいだけなのだろうなと思ってしまいます。

 通常のコメントに対する反応でもそうなのですが、挑発的なリプライに対する反応には、その何倍も「その人の度量」が表れやすいと思っています。一生懸命怒っている人はとてもカッコ悪いです。しかもそんな姿を、わざわざ引用リツイートという形でフォロワーの全員に晒しているわけです。一時の感情に身を任せて、自身の器の小ささを露呈してしまっているのです。

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③ その人の仲間がわらわらと集まって擁護する

 どうして上記のような恥ずかしい姿を自ら晒してしまうのかと言うと、自分のことを擁護してくれる甘い仲間たちがいるからです。自分が一生懸命怒っていると、筆者のように斜に構えた冷たい目で見るのではなく、一生懸命味方についてくれる人たちがいるのです。「あなたの頑張りを知らないくせにね」とか「全然的を射ていないよね」とか。ついには、自分の代わりに相手に攻撃を加える人さえ出てくるかもしれません。

 こうして大勢の仲間で徒党を組んで、多数対ひとりの構図をつくり、挑発的なリプを送ってきた人を追い払うという流れです。きっとどちらかと言えば、「この人たちに噛み付いても話にならない」と諦めさせるといったところでしょうか。

 このやり方は、あくまでも作戦としてなら有効かもしれませんが、本気で怒って、本気で「追い返したぜ!ヤッター!」と思っているのなら少し気をつけた方がいいのかもしれません。これをあまりにもくり返してしまうと「自分がまわりの人(敵でも味方でもない人)からどのように見えているのか」という視点を失ってしまいます。味方がいる心地のよい空間に甘んじてしまうと、メタ的な視点の基準がブレてきてしまうのです。「天狗になる」と呼ばれる現象はまさにここから生まれてきます。

 

 

④ ツイ消しをする

 一連の流れが終了し、冷静になって自分のツイートを見返したときにはじめて、自分の愚かさに気がつきます。そこから一生懸命ツイートを消すわけですが、結局この行為も逆効果になることがよくあります。「うわ、アイツ消したな」となるわけです。

 要するに、消そうが消すまいが、もうこの時点では手遅れです。どんな手段をつかおうが、初手を間違えた時点で、あなたの株はすでに下がっているのです。そこから先はいかにマイナス幅を小さくするかしかありません。

 「そんな醜態でさえオレはみんなにオープンにしていくんだ!」と言うのならそれはそれで、もちろんその人の自由だと思います。それを「かわいらしさ」として捉えてくれる大人たちもいるかもしれませんしね。ただし逆に言えば、そのせいで離れていく人たちもたくさんいるとは思います。特に、頭のいい人たちは危険を察知する能力が高いので、自分が巻き込まれる前にスッと離れていくことでしょう。

 自分がこれからどこに向かっていきたいのか。どんな人にまわりにいてほしいのか。それによって手段は変わってくるかと思います。所詮ツイッター、されどツイッターツイッターを笑う者はツイッターに泣く。今一度、自分のツイートのあり方を振り返ってみてもいいのかもしれません。

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 そんな偉そうなことを言って、お前のツイートはどうなんだよ!と思ったそこのあなた。下の青いボタンを押せば、筆者のツイートを見ることができます。ただし、そこまで興味がないのなら絶対に押してはいけません。いいな!絶対にだぞ!絶対に押すなよ!

 

 

【金】子どもにとってテストなおしほど価値の感じられないものはない

 

 おはようございます。USBメモリって絶対に1回では挿さらないですよね。そして大抵の場合、2回目のチャレンジでも挿さりません。そして、もう一度ひっくり返して3回目のチャレンジを試みると、なんの無理もなくスッと挿さるのです。

 「なんだ、初めの向きであってたんじゃないか」と思うのと同時に、「なんだったんだ、あの1回目の抵抗感は」とも思います。 もしかすると挿し込み口の方も一緒に回転しているのかもしれません。どうも、インクです

 

子どもにとってテストなおしほど価値の感じられないものはない

 テストなおしってめんどくさいですよね。なおしたところで点数は変わりませんし、次の授業からは違う単元が始まります。なおしたものをあとから見返すことも、絶対と言ってもいいほどありません。とりあえず赤で答えを書いておけばいいか。これが子どもたちの本音です。先生も先生で、子どもが興味をもてないことを知っていますから、結構さらっと流してしまう方も多いのではないでしょうか。

 筆者自身も「テストなおし」はものすごく嫌いでした。赤鉛筆で答えを書き直して一体何に繋がるんだろうと思っていました。だからこそ、自分が先生としてテストを行う立場になって、とても悩みました。自分が価値を感じていなかったことを子どもたちにもやらせるわけにはいきません。だから今では次のような形で「テストなおし」を行っています。

 

1.テストの直後に模範解答

 まずは、子どもたちのテストに対する興味がもっともあるタイミングはいつなのだろうと考えました。それは間違いなくテストが終わった直後です。テストの直後は、とても答えが気になっています。さっき書いた答えは合っているのかな。とりあえず書いたのは書いたけどあれでよかったのかな。みなさんも友だちと一緒に「あの問題の答えどうなった?」と話し合った経験があるはずです。

 だからこそ、うちのクラスでは、テストが終わった瞬間に「模範解答」を見せます。そして、多くの人が間違えているであろう問題は、その場で解決してしまいます。「鉄は熱いうちに打て」というやつですね。

 つまり、テストが終わった段階で、自分が間違えた問題もわかっているし、おおよその点数も予想ができているというわけです。しかも、間違えたであろう問題もその場で解決してしまいます。テストが返ってきていないのに「テストなおし」のほとんどが、ここで終わるというわけです。

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2.原因と対策

 では次に、テストが返ってきたあとの話をします。先ほども述べたように、間違えた問題の解き方はテストの直後に学習しているので、ここで改めて解き直すことはありません。ここでやるのは「原因」と「対策」を考えることです。順番に詳細を見ていきましょう。

 まずは「原因」ですが、これはそのまの意味合いです。「どうしてその問題を間違えたのか」を考えます。「6×2の計算を14と書いてしまっていた」が原因になるかもしれませんし「記号で答えなさいと書かれているのにちゃんと読んでいなかった」が原因になるかもしれません。はたまた「よくわかっていないままテストの日を迎えてしまった」になるかもしれませんし「自分は大丈夫だと思い込んでいたせいで練習が少なかった」になるかもしれません。準備の仕方や間違え方は人によって違うので、もちろん「原因」も人によって違うものになります。

 そして、次に考えるのが「対策」です。ここがめちゃくちゃ大事です。どんな「対策」を立てるかによって、このテストが無駄になるかどうかが決まります。たとえ点数が何点であろうと、次に繋がればいいのです。よく子どもたちはこのような対策を立てがちです。

 

  1. 解き終わったら見直しをする
  2. ケアレスミスをしないように気をつける

 

 申し訳ないですが、これらの対策は無意味です。マジで意味がありません。見直しをやりきれなかったから間違えたのでしょう。気をつけきれなかったからケアレスミスをしたのでしょう。原因をそのまま対策風に言い換えるだけでは、結局同じことをくり返すだけです。

 ここで考えなければならないのは「どうすれば見直しの精度を上げられるのか」「どうすればケアレスミスを防ぐことができるのか」です。これを考えるのが「対策」です。「気をつける」なんて対策としては最低なのです。

 たとえば、「見直しが済んだ問題には丸をつけていく」という対策が考えられます。これだけでも、見逃している問題が視覚化されて十分な対策になるでしょう。問題を読まずに答えを書いてしまっていた人は、「問題文に線を引きながら読む」という対策が立てられるかもしれません。単位を間違えてしまった人は「単位が問題に出てきたらすべてに丸をつける」でもいいかもしれません。実際に手を動かすことで「気をつける」ことにも繋がります。要するに、次のテストから始められる具体的な行動を決めなければならないということです。「気をつける」や「がんばる」は、目標としてまったく機能しないのです。

 

 

 はじめのころは、子どもたちも戸惑っていましたが今ではこの「原因→対策」の流れを完璧につかいこなしています。大人にとっては当然なのですが、この流れは何にでも応用が効きますよね。うちのクラスでは、学級会もこの流れで進んでいきます。

 まだ行われていないできごとを考える場合は「原因」を追求することができませんので、「予想される失敗→対策」となります。まさに「リスクヘッジ」というやつです。お楽しみ会の計画や発表会の準備などは、この「予想→対策」で進んでいきます。

 これはふだんの授業でも活用することができます。たとえば、算数の筆算では「どんな間違え方をしそうか」という予想を話し合い、「それを予防するためにはどうすればよいか」という対策を立てます。間違えるパターンの思考の流れを知ることで、正解するパターンの思考の流れも身につけるというわけです。

 「原因→対策」「予想→対策」なんていたってシンプルでありきたりな型ですが、思考の流れを捉えるという意味では、とても効果的なやり方だと思っています。

 

 

【木】すべての困難に立ち向かう必要はない

 

 おはようございます。昨日、保護者の方からとても嬉しいお手紙をいただきました。もちろん個人的なお手紙ですので、内容を教えることはできません。ただ、そのお手紙を読んでいて、とてもその人らしい文章だなあと思いました。やはり人が書く文章には、その人の生き様が滲み出ます。文章は意味がすべてではない。改めてそう思わされました。このブログだって同じです。文字列が表す意味だけを追っていてはいけません。意味なんて所詮オマケでしかないのです。どうも、インクです。

 

 すべての困難に立ち向かう必要はない

 たとえ火の中、水の中 、草の中、森の中。山の中、海の中、雲の中、あの子のスカートの中(キャー)。中、中、中、中、中、なかなか大変だだけど。必ずゲットだぜ。ポケモンゲットだぜ。イェイイェイイェイェイイェイイェイェー。

 ご静聴ありがとうございました。「うろ覚えめざせポケモンマスター」でした。「あの子のスカートの中(キャー)」だけは、絶対的な自信があります。間違いありません。あとの答え合わせは各自でよろしくお願いします。 

 

 それはさておき、みなさんはハードルを跳んだことがありますか。ええ、もちろん。跳んだことがない人なんていないだろうと思いながら聞いています。あえて質問という形をとることで、読者の興味を惹こうという初歩的なテクニックです。こんなこと、わざわざ説明させないでください。

 高いハードルに挑戦するためには少し勇気がいりますよね。いくら倒れるから大丈夫だといえども、ぶつかったら痛そうです。すねなんて打ちつけたら最悪ですよね。そして何よりもやっぱり、失敗したらカッコ悪いです。あの子が見ている前で、そんな醜態を晒すわけにはいきません。一体どうすればよいのでしょうか。

 

 そんなときは、下をくぐればいいのです。ハードルが高ければ高いほとくぐりやすいはずです。下をすっとくぐってしまえば、前に進むことができます。「ハードルは跳び越えなければならない」というのは、あなたのただの思い込みでしかありません。きっとあの子も「なんて機転が利く人なのかしら」と惚れ直してくれるはずです。

 要するに、ポケモンマスターをめざす上で、本当に「火の中、水の中 、草の中、森の中、山の中、海の中、雲の中、あの子のスカートの中(スカートの中以外合っているのか知らないけれど)」 のすべてに入る必要があるとは限らないということです。泳ぐのが苦手だからという理由で、水の中と海の中はなんとか避けながら、ポケモンマスターをめざすことだってできるかもしれません。最近のポケモンはよく知りませんが、実際に主人公は水の中には入りませんよね。水に入るときはいつも「なみのり」という技をつかって、ポケモンの背中に乗っています。また、コンプライアンスが厳しい時代に合わせてスカートの中に入ることもやめておいた方がいいかもしれません。今の時代「キャー」だけでは済まないでしょうからね。

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 このように、あらゆる困難に立ち向かってすべての苦手を克服する必要なんてこれっぽっちもありません。人には必ず得意・不得意があります。だれにだって「できないこと」があるはずです。もちろん、そんな「できないこと」ができるようになったら嬉しいとは思いますが、すべての「できないこと」をできるようになる必要なんてありません。「できないこと」は大きくふたつに分けられます。

 

 ① できるようになるべきこと

 ② できなくてもいいこと

 

 本当に苦手なことは、それを得意な人が自分の代わりにやってくれます。たとえば筆者の場合、絵を描くことがそこまで得意ではありません。だからイラストが必要なときはいつも、絵が得意な隣のクラスの先生にお願いしています。一方でパワーポイントやスライドショーをつくることはとても得意なのでお願いされることが多いです。

 これでいいのです。もちろん絵がスラスラと描けるようになれればいいなあとは思いますが、限られた時間を考えると、絵の練習の優先順位はそれほど高くはありません。わざわざそこに時間を割くくらいなら、他のことに集中した方が有意義にすごせます。また、自分が絵が苦手だったことによって、隣のクラスの先生とのコミュニケーションが生まれています。隣のクラスの先生にとっては「頼られる」ということによって、職員室における「絵が得意」というポジションを獲得していることになります。これがもし、筆者がパーフェクトヒューマンで、なんでもかんでも完璧にこなしてしまう人間だったとしたら、隣のクラスの先生の出番はなくなり、関係はもっと希薄になっていたことでしょう。

 

 「困難なことに立ち向かうことは美徳である」というような妙な風潮があるような気がしています。自分がなにかをめざす上で、本当にそのハードルを跳び越える必要があるのかどうか、今一度考えてみてもよいのではないでしょうか。人の時間には限りがあります。不要なハードルを飛び越えるために一生懸命になるくらいなら、すっとくぐりぬけて前に進んでしまった方がよいことだってあるはずなのです。ただし、頭をぶつけてしまわないようにだけ十分気をつけてくださいね。

 

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 ここまでの記事を読んで「インクさんすごい!」「さすがインクさん!」「なんて天才的な発想なんだ!」と思っている人は、まだまだ情報収集が甘いです。

 

 ハードルは高ければ高いほどくぐりやすい

 

 これは筆者のことばではありません。とあるお寺の掲示板に貼られていたことばです。一昔前に、だれかがその掲示板の写真をツイートし、バズっていたものです。昔からツイッターに親しんでいる人は知っていたかもしれません。なんならこの掲示板よりも前に元があるのかもしれません。知らずとも、少し調べれば出てきたはずです。

 

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 今、実際にハードルをくぐってみたのですが気がつきましたか。何もないところからのスタートだったので、ハードルを設置したのも自分でしたけどね。

 何も言わなければ「インクさんすごい!」「さすがインクさん!」「なんて天才的な発想なんだ!」と思われていたかもしれないのに、わざわざこうしてネタ元を正直に明かしました。このまま黙っていたら、次に飛び越えなければならないハードルが高くなってしまいそうだったので、今日のハードルはパスしてくぐりぬけたというわけです。

 

 

 ええ。もちろん。そんなことは建前です。「自分の手柄にしてしまうのではなく、こうして正直にネタ元を明かして好感がもてるなあ 」と読者に思ってもらうための初歩的なテクニックです。こんなこと、わざわざ説明させないでください。

 

 

 

【水】「そんな意見もあるんだね」の先に生まれるものに価値がある

 

 おはようございます。昨日、前任校のクラスの子どもから年賀状が届きました。まだ1年も経っていないのに、とても懐かしかったです。基本、年賀状なんてなくなってしまえばいいと思っているのですが、思わぬ相手からだったのでとても嬉しかったです。

 やはり、ふだん会うこともなければ連絡先も知らない、そんな相手だからこそ、こんなに嬉しかったのだと思います。「空腹は最高の調味料」というやつですね。不便さや不自由さが、かえって効果的にはたらくこともあるわけです。さっそくお返事を書いたので、出勤前にポストに投函してしまおうと思います。どうも、インクです。

 

「そんな意見もあるんだね」の先に生まれるものに価値がある

  学校ではよく子どもたちどうしでの話し合い活動を行わせます。自分が子どものころも、よくやらされた記憶があります。正直あんまりおもしろくないんですよね、あの話し合い。先生は簡単に「さあ、グループごとに話し合いましょう」だなんて言うけれど、子どもからすれば「何を話し合うの?」というかんじです。

 先生側の意図としては「他の人の意見も聞いて考えを広げよう」なのですが、そもそもの議題が浅すぎて、ほとんど話すことがないのです。僕は〇〇だと思います。俺も!私も!僕も同じです!終わり。これ以上話すことがありません。しかし、話していなかったらまるでやる気がないグループだと思われてしまいます。いやいや、単純にこれ以上話すことがないんだよ。話すことがないのに何を話し合えってんだ。という状態に陥ります。そこで先生が変に注意でもしようものなら、先生に不信感を抱くきっかけになってしまうかもしれません。

 このように、先生の「とりあえず話し合わせておけばいいや」という安直な思いから始まる話し合いでは、ほとんど効果がありません。むしろ、子どもたちは、数を重ねるごとに話し合いが嫌いになっていくかもしれません。そんなつまらない話し合いの特徴としては、大きく以下のふたつが挙げられます。

 

 ① はじめから言いたいことがない

 ② 話し合う必然性がない

 

 要するに、子どもたち自身が「話し合いたい」と思っていないということです。そりゃあ、ごんぎつねの気もちなんて別に話し合いたいとは思いませんよ。算数の問題の解き方だって自分が分かっていればいい話ですし、理科の予想なんてどうせこのあと実験をして結果を出すのだからなんだってかまいません。社会の資料を見比べながらちがいを話し合うにしたって、見たままのことを言うだけです。これ以上深まることなんてめったにありません。

 先生が「話し合え」と言うからとりあえず話そうか。これが子どもたちの本音です。別に話し合いたいだなんてこれっぽっちも思っていないのです。このような状態に陥ってしまう原因は間違いなく先生にあります。先生の想像力が圧倒的に不足しています。先ほどは「とりあえず話し合わせておけばいいや」と表現しましたが、さすがになんのねらいもなく話し合わせるような先生はいないと思います。何かしらの意図をもって話し合わせるはずです。しかし、そんな「意図」だけでは不十分なのです。そんな「意図」を実現させるための「仕掛け」が必要なのです。簡単に言えば「どうすれば話したくなるかを考える」ということです。

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 たとえば先日、このような形で算数の授業をしました。うちのクラスは机が4列に並んでいるのですが、1列目と3列目にはAのプリントを、2列目と4列目にはBのプリントを配りました。この時点で、子どもたちからすれば「あれ?配られているプリントが違う。何かが始まるぞ...」という気もちになります。その上で説明を始めます。流れはこうです。

① 配られたプリントの問題を解く

② 前後の列でペアになり自分が説いた問題を教える

 形はいたってシンプルです。自分が解いた問題を、その問題を解いていない友だちに教えます。しかし、これだけではうまくいかないと思うので少しずつ条件を加えていきます。まず ① は、15分間という制限時間を設けます。② のためにも、その15分間の間に人に教えられる状態をつくらなければなりません。ただし、先生は答えを教えません。だからこそ、いかにこの15分の間に不安を解消しきるかが鍵になります。そのために友だちがいます。自分と同じ列の友だちは、自分と同じ問題を解いているわけですから、教え合うことができます。この15分の間なら別に立ち歩いても構いません。自分の不安を解消しておくためにも、同じ列の人たちどうしで答え合わせを始めるのです。

 ここでポイントになるのが、先生は一言も「話し合いましょう」だなんて言っていないというところです。先生がやったことは「話し合いたくなるような状況づくり」です。話し合わなければ、② で困るのは自分ですからね。言うまでもありませんが、ここで効いているのが「答えを教えない」という条件です。これがあるおかげで、子どもたちはいいかんじに不安になります。不安を解消するためには友だちを頼るしかないのです。しかも、列ごとに配られているプリントが違うわけですから、頼るべき相手が明確です。

 そして、その15分が終わったら ② に移ります。② では、同じプリントをもう1枚配布し、それを相手に解かせていくという形をとります。ここでも、いきなり「さあ、教えましょう」と言うのではなく最低限の条件を設定します。それは「教えられる側は教えられるがままに解く」という条件です。「オレもうわかってるから教えられなくてもいいし」とか「これはこうやって解くんでしょ」とか言って、どんどんと解き進むのではなく、相手に教えられるがままに問題を解きます。相手が間違っていても間違った答えを書きます。あくまでもこれは教える側の練習なんだということを徹底させます。つまり教えられる側は、相手に付き合ってあげるのです。

 この条件を設定することで、一気に優しい話し合いが生まれます。教えるのが下手なペアでも、教えられる側が上手に手助けをし始めるのです。当然のことながら、手助けをするということは「問題を理解している」ということが前提になります。先に問題の意図を汲み取ってから、お互いに「教える/教えられる」という役割を果たしていくことになるのです。だから、先ほどは「教える側の練習」だと書きましたが、実際に高度なことをしているのは「教えられる側」なのです。「問題の意図」と「教える人の意図」の両方を汲み取りながら、「教えられる人」を演じなければなりませんからね。

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 先生という立ち場から、ここでの子どもたちの話し合いを見ていると、まあおもしろかったです。とにかくよく話していました。やっぱり「人に教える」っていい勉強になるのだろうなと思いました。

 そして何よりも先生が楽です。ニヤニヤしているだけで、授業が進んでいきます。それと同時に「先生はこれでいいんじゃないか」とも思いました。徹底的に仕掛けを組み立てて場を用意する。そして実際の授業ではニヤニヤしながら見守る。これからもニヤニヤし続けられたらなと思います。

 なんだか記事のタイトルとは少しズレてしまいましたね。まあそんな日もあります。なぜなら、寝坊したからな!