ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】敬意を持った上で先生らしさに中指を

 

 おはようございます。うちのクラスにはマスコットキャラクターがいます。子どもたち自身がクラスの全員に案を募り、投票を行って決めました。名前もついているのですが、身バレを防ぐためにも教えることはできません。

 昨日、そのマスコットキャラクターのイラストを3枚、教室のあちこちに隠してきました。3学期初日の朝は、マスコットキャラクターをみんなで探し出すところからスタートします。おもしろそうでしょ。どうも、インクです。

 

敬意を持った上で先生らしさに中指を

  先生たるもの子どもたちの模範たれ。ときに優しく、ときに厳しく。服は落ち着いた地味な色を選び。動きやすさを重視せよ。男性は髪を短く爽やかに。女性は結んで清潔に。言葉遣いは常に正しく。必ず敬称つけて呼べ。

 私語が聞こえればすかさず注意し。言うこと聞かぬ子、怒鳴るもよし。三角座りが崩れれば、すぐに近づき知らすべし。朝会・集会・学校行事、目を光らせて監視せよ。体育は冬でも上着なし。大人は別だと厚着よし。口答えには魔法のことば。ルールはルールだ仕方ない。ダメなものはダメなんだ。あなたのために言っている。

 授業は必ずめあてから。最後は忘れずふりかえり。ノートはきれいにとりなさい。忘れ物など話にならぬ。モノは大事につかいなさい。あなたのお父さんが汗水垂らして一生懸命働いてくれたお金で...云々かんぬん。友の意見と同じなら「同じです!」と言いなさい。友の意見と違うなら「違います!」と言いなさい。

 休み時間にも気をぬくな。ケガをさせては決してならぬ。ほんの少しの危険あり。すぐさま駆け寄りこう言おう。目に入ったらどうするの!ケガしてからじゃ遅いのよ!そんな厳しいことばかけ。全部あなたのためなのよ。

  子どもが帰れど馬車馬働き。すべては子どものためになる。職務遂行のためになら、注意力すべて捧げます。サービス残業あたりまえ。学校、学年、自分のクラス。教材研究あとまわし。帰れば寝るだけ、また明日。子どもが来る前、門ひらけ。

 

 先生たるもの。かくあるべし。

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      念のためにもう3回

 

 

 

 

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 ふう。 

 

 やはり、いらすとやさんのキャラクターに喋らせれば多少マイルドになりますね。中指を立てている画像をずっと探していたのですが、さすがにセンシティブかと思いギリギリのところで思いとどまりました。危ない危ない。選ばれたのはいらすとやでした。

 

  まあ、そんな画像選びはさておき、本当に「うるせえ!」ですよね。これぞまさに「先生らしさ」です。1年目はこの「先生らしさ」に大いに苦しみました。先輩の先生が一生懸命教えてくれるんですよ。先生はこうあるべきだよ。先生はこんなときこうするんだよ。心の中では「うるせえ!」と思っていました。なんで主語が「先生」なんだ。本当にそれは「子どもたちのため」になっているのか。なんのためにそれをするんだ。なんのために揃えるんだ。疑問に思うことはたくさんありました。しかし、さすがに1年目から嫌われるわけにもいきませんので「なるほど!そうすればいいんですね!」と、にこにこ頷いておきました。

 

 「分からなければなんでも聞いてね」と言われるけれど、本当に思ったことをなんでも聞くことが、いつもベストだとは限りません。黙っているからこそ成立する平和もあるわけです。本当なら、このような若手の生意気な疑問を徹底的に議論できたらおもしろいのでしょうけれど、残念ながら現場にそんなゆとりはありません。「先生はかくあるべきだ」と言われれば、何も疑わずに飲み込むのがこのムラの掟なのです。郷に行っては郷に従え。When in Rome, do as the Romans do. というやつです。

taishiowawa.hatenablog.com

 

  このような「先生らしさ」という枠に収まる大人たちが、一生懸命「個性を育もう」「多様性を認めよう」などと言っているのです。もはやギャグなのではないかとさえ思います。みんな同じような髪色で、みんな同じような服を着ています。隣のクラスの先生が学級だよりを出してしまったら自分のクラスでも出さなければならなくなる、というなぞのルールに怯えています。宿題の出し方やテストのやり方も揃えます。使う教材や授業の進度まで揃えるところもあるようです。

 

 あれ、もしかすると誰でもいいんじゃないか。このクラスの前に立って授業をする人は自分である必要がないんじゃないか。そんなふうに思うこともありました。人にはそれぞれ得意なこと・不得意なことがあります。その人にしかできないことがあり、その人にしか生み出せない価値があります。まさに「個性」と呼ばれるものです。そんな「個性」をぐっと抑えて、みんなで同じ手段を選ぶ。「自分らしさ」よりも「先生らしさ」を優先する。それこそ本当にロボットです。ロボットが命令に従って、新しいロボットをつくる。ある意味、現代的なのかもしれません。

 

 どうしてこのような「先生らしさ」が蔓延するのかというと、みんな同じだと安心するからです。先生って基本は不安なんですよ。正解がありませんからね。本当にこのやり方でいいのかな。本当にこれで大丈夫なのかな。「子どもたちの人生がかかっている」だなんて大層なことを考えていればなおさらです。迂闊なことはできない。そう思い込んでいます。だからこそ、安牌な方へ安牌な方へと進み、みんなが集まっているところへと吸い寄せられていくのです。要するに、そのやり方が効果的かどうかなんて関係ありません。みんなが揃ってさえいれば、間違っていたとしても知ったこっちゃないのです。「子どもたちのため」だなんて大義名分を掲げながら、自分たちの安心のために「先生らしさ」を追い求めます。こうして先生たちは、疑うことをやめ、何も考えなくなっていくのです。おそろしい話ですね。

 

 と、こんな話をしていると、まるで「先生たち」をバカにしているかのように聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。これだけは声を大にして言っておきたいのですが、先生はすごいです。何より、自分自身が「先生」をしているわけですから、先生の仕事の大変さは身に染みてわかっています。自分が先生になってから、もはや「先生」という仕事をしているだけでその人のことを尊敬できるようになりました。だって、これを毎日こなしているんだぜ。もうその時点ですごいです。しかもその上で、家庭に帰れば子育てをしているだなんて、とてもじゃないけど考えられません。本当にすごいなと思います。心からのリスペクトを送ります。

 

 だからこそ、「先生らしさ」を追い求める気持ちはものすごくわかります。ただ反発したいからという理由で、このような記事を書いているわけではありません。「自分らしさ」と「先生らしさ」のバランス。これはもはや個人の選択です。どちらの割合が大きければどうだとか、そういう問題ではありません。だからこそ、これが正解だと言うつもりもありませんし、無理に押し付けるつもりもありません。筆者が選んだ道は今日の記事のタイトルです。

 

敬意を持った上で先生らしさに中指を

 

 その結果が、まさにこの『ツイートの3行目』というブログです。これまでの記事を読んでどう思うかは読者の皆様の自由です。そして、皆様自身がどのような道を選ぶのか。これも当然、皆様の自由です。

 今日の記事を読んで、たったのひとりでもドキッとしてくれていたらいいなと思います。大切なのは、自分の意志で選ぶこと。何も考えずに郷に従っているだけでは、それこそ「子どもたちのため」にはなりません。きっとあなたにしかできないことがあるはずです。そんな価値を子どもたちと一緒に生み出してくれたらなと思います。えらそうなことを言ってすみませんでした。気に入っているので最後にもう一度だけ貼っておきますね。

 

 

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【月】教育は多くの人に価値が認められている時点でかなりのアドバンテージをもっている

 

 おはようございます。えらいので、切れていた玄関の電球を替えました。明かりがつくと、鏡を見て身だしなみをチェックすることができます。明かりがつくと、迷わずに靴を履くことができます。明かりがつくと、スムーズにお出かけすることができます。ありがとう、トーマス・アルバ・エジソン。あなたのおかげで今日もこうしてブログを書くことができています。どうも、トーマス・アルバ・インクです。

 

教育は多くの人に価値が認められている時点でかなりのアドバンテージをもっている

 数少ない友人のひとりが、とあるアニメーション会社で働いています。給特法がどうのとか、定額働かせ放題がどうのとか、ブラックだブラックだと言われている教育業界ですが、話を聞いている限りアニメ業界も大概だなと思いました。休みが重なったのでたまには飲みにでも行こうかと約束をしていたのですが、合流できたのは23時を過ぎてからでした。出勤してなんやかんやで帰れなくなり、気がつけばこの時間になったそうです。一応くり返しておきますが、その日はお互いに「休日」でした。

 その友人曰く「ブラックなのは入る前から分かっていたこと。確かに大変だけれど、やりたくてやっているから別に構わない」とのことでした。このことばを聞いたときにふと、先日の三浦知良選手の発言を思い出しました。

 ラグビー選手は激しい戦いで、当然ケガをしても痛い顔をしない。サッカー選手ってすぐに痛がるじゃないですか。あれ、ちょっと恥ずかしいなって思いまして。痛がっている割にはすーって走ってっちゃうから。

 また、ラグビーの選手はレフェリーにクレームを入れないことについても触れ、次のように述べていました。

 それって紳士的というか。サッカー選手はすぐに文句を言うじゃないですか。役者みたいに。

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 先ほどの話と照らし合わせるのなら、サッカーが教育業界で、ラグビーがアニメ業界だということになります。くれぐれも勘違いしないでいただきたいのが、何も「教育業界も黙って耐え抜くべきだ」と言いたいわけではありません。教育業界とアニメ業界の違いを考えてみたかっただけです。何せ筆者自身が教育業界に身を置く人間ですからね。先生の大変さなんて身に染みて分かっています。「黙ってやれよ」で済むような話ではないことくらい重々承知しています。

 それでは話を戻します。同じように「ブラックな」教育業界とアニメ業界ですが、明らかにその業態が世間で話題になっているのは教育業界の方です。アニメ業界には、休日に23時まで飲みに行けないような現実があるのにも関わらず、どうして教育業界にばかり注目が集まっているのでしょうか。

 それは、今日のタイトルにもある通りです。多くの人に価値を認められているのが教育業界だからです。アニメ業界も、かつてに比べれば多少の地位は向上したのではないかと思いますが、やはり未だに「ただの娯楽」として認知されている部分が大きいように思います。言わば「なくてもいい」と思われているということです。「なくてもいいもの」を一生懸命つくって、その業務形態を訴えられても「じゃあ、辞めればいいじゃない」と言われておしまいなのです。

 一方、教育は多くの人に「なくてはならない」と思われています。だからこそ、教員数が足りないとなれば、国を挙げて大騒ぎします。教員が働き方について訴えかければ、国はそれなりに対応しているフリをします。多くの人に「なくてはならない」と思われている分、「嫌なら辞めればいいじゃない」が通用しないのです。要するに「教育」は守られているということです。アニメと比べれば、多くの人に価値が認められている時点で大きなアドバンテージをもっているのです。もちろんその分窮屈になることもあるんですけどね。

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 このように考えていると、もしかするとふたつの業界の立場があべこべな現実もあり得たかもしれません。アニメに限らず、他の何かが圧倒的に価値を認められており、教育なんて「なくてもいいもの」だと思われている、そんな現実があり得たかもしれません。かつての日本では詩歌管弦に大きな価値が置かれていました。和歌が上手なやつが偉い。楽器が上手なやつが偉い。そんな時代があったわけです。さらに大昔まで遡るなら、足が速いやつが偉い時代もあったでしょうし、力が強いやつが偉い時代もあったでしょう。

 「教育」は所詮、そんな「分野」のひとつでしかありません。たまたま多くの人に価値が認められているだけです。正確に言うのなら「価値がある」と大衆に信じ込ませる動きが歴史の中にあったというだけです。きっと「教育には価値がある」と多くの人が信じ込むことで得をする人がいたのでしょう。

taishiowawa.hatenablog.com

 多くの人に「価値がある」と思われるものが「教育」ではなく「アニメ」だった可能性も0ではありません。もしかするとそれが「あやとり」だったかもしれませんし「大食い」だったかもしれません。はたまた「腕立てふせの回数」だったかもしれませんし「滑舌のよさ」だったかもしれません。何に価値が置かれようとも、可能性としては十分にあり得たわけです。

 もちろん「教育」に価値が置かれるようになった背景には必然性があったのでしょう。社会的な生き物として価値を置くべき分野だったのかもしれません。しかし、そんな当たり前のように価値が認められているものを改めてつっつくことも大切なのではないかと思い、このような記事を書いているわけです。

 私たち教員は、他の分野と比べても社会的に大きなアドバンテージをもって仕事に取り組んでいます。国から守られながら、国民から守られながら、日々の業務をこなしています。確かに仕事量は膨大で、改善すべきところはたくさんあるのかもしれませんが、この前提を忘れてはならないような気がします。働き方が改善されていく流れはもちろん好ましいことですが、その過程で教員の正義が膨れ上がり過ぎてしまうのではないかと少し心配しています。

 

 

 今日から仕事始めの方も多いのではないでしょうか。正月をゆっくり過ごせば過ごすほど、やはりこの休み明けは憂鬱になるものです。でも、きっと大丈夫。もう359つ寝るとお正月です。いや、待てよ。今年はうるう年だからあと360つか。ああ...。1つ増えちゃった...。ごめんなさい...。

 

 

 

【日】返答にこそその人の度量が表れる

 

 おはようございます。3学期用の靴は購入したので、あとは眼鏡を買わなければなりません。モノを新調することで、気持ちも新たにしようという魂胆です。形から入ることは案外大切だと思っています。冬休み最後の1日。前向きに3学期を迎えられるように準備ができたらいいですね。どうも、インクです。

 

返答にこそその人の度量が表れる

  気の利いた返しができるようになりたい。誰もが一度は思ったことがあるはずです。しかし、そう簡単にできるものではありません。以前の記事にも書いた通りです。冗談はわかりやすすぎても、わかりづらすぎてもおもしろくありません。相手に冗談だと気づいてもらえるギリギリを攻めるからこそおもしろくなります。そのためには、相手のことをよく知っておかなければなりませんし、お互いの信頼関係が必要です。ときには瞬発力や大胆さが必要になることもあるでしょう。気の利いた返しとは、コミュニケーションにおける総合格闘技なのです。

taishiowawa.hatenablog.com

 ここ最近、少しずつフォロワーの方々とツイッターで絡むようになって、おもしろいやりとりが増えてきました。本当ならばタブーではあるのですが、今日は実際のやりとりを例に挙げながら解説していけたらなと思っています。引用させていただく方々は、勝手に晒すようなことをして申し訳ないのですが、おもしろかったのだから仕方ありません。寛大な心でご容赦ください。それではさっそく見ていきましょう。

 

 

1.風が吹けばくしゃみが出る:わだたかしさん

  ひとつ目に紹介するやりとりのスタートは、筆者のこんなツイートでした。たしか、東京旅行最終日です。風が強く吹いている日でした。「風」と言えば、三浦しをん先生の小説「風が強く吹いている」や、ジブリ映画の「風立ちぬ」、はっぴいえんどの「風をあつめて」など、連想するものはたくさんあるのですが、そんな中でも「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざを選択し、こんなツイートをしました。

 するとそれに反応してくれたのが「わだたかしさん(@kxJtE6Thp0uXDY6)」でした。ちなみにこの方が何者なのかは未だによくわかりません。自己紹介のいらないコミュニケーション。それがインターネットのいいところです。まあ、それはさておき、そんな「わだたかしさん」がこのようなリプライをくださいました。

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  なんともシンプルで無駄のないリプライです。こいつはなんと返したものか。少し頭を悩ませました。ただ、せっかく「ニャン」というワードをいただいているので、これは「ネコ」から繋げていくしかない。そう思い、次のような返事をしました。

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  ネコネタの詰め合わせです。ちょうど年末ということもあり、ひとつ目は干支のネタを。ふたつ目はかの有名な『吾輩は猫である』のネタを。そして、最後はやりとりの元でもある「風が吹けば桶屋が儲かる」のネタを並べました。ここでのひとつの賭けは、相手が『我輩は猫である』の内容を知っているかどうかです。これぞ気づいてもらえるかもらえないかのギリギリです。さあ、一体どうなるのでしょう。

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  このお返事をいただいて、『我輩は猫である』のネタがちゃんと伝わったのだと安心しました。わざわざ解説するのはあまりにも野暮ですが、「苦紗弥(くしゃみ)」は『我輩は猫である』の登場人物です。この人物名と、風邪を引いたときに出る「くしゃみ」とを重ねているわけです。今思えば、やりとりの発端でもある「風」とくしゃみの「風邪」もかかっていますね。お見事です。こんな素敵なリプに対して筆者は次のように返しました。

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  今度は「くしゃみ」から引っ張りました。二十億光年の孤独に僕は思わずくしゃみをした。谷川俊太郎の詩『二十億光年の孤独』の一節です。別に深い意味もなにもなく、単純に「くしゃみ」ということばから連想して、このことばを選びました。ある種、このあとのことは丸投げをしたわけですが、さらに素敵なリプが返ってきました。

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  なんのことだかわかるでしょうか。これは「くしゃみ講釈」という落語の演目のオチの手前にあたる部分です。「くしゃみ」というたったひとつのことばから、よくもこんなに引き出しが開くものだなとびっくりしました。ご存知の方も多いかもしれませんが「くしゃみ講釈」のあらすじを簡単に説明しておきますね。

 逢い引きを台無しにされ、その原因となった講釈師を恨む主人公。復讐に講釈を失敗させてやろうと企みます。はじめはコショウでくしゃみを出させて話せなくさせようと企んでいたのですが、あいにくコショウが売り切れていたので、唐辛子を代用することにしました。

 その計画は見事成功し、講釈師はくしゃみが止まらずロクに話せなくなりました。そんな様子を見て満足した主人公は、講釈場を去ろうとしますが、そこに講釈師が「何か故障(文句)でもおありか」と尋ねます。それに対して、主人公は「コショウがないから唐辛子」と答えるのでした。

 こんな落語を引き合いに出されたら、もうこちらには引き出しがありません。コショウから話を広げようにも、コショウのことなんて何も知りません。うんうんと悩んだ挙句、苦し紛れにこのように返してこのやりとりは終わりました。

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  もはや力任せです。いや、大魔王任せです。今読み返してみると、この勢いはこの勢いでおもしろいなあと思います。ここまでの一連の流れを見ていただいて、読者の皆様はどのように感じられたでしょうか。素敵だと思いませんか。このやりとり。それぞれのコメントの中に「相手のネタを理解したよ」というメッセージと「次に繋げるためのパス」が含まれています。だからこそ、安心して楽しみながら次の手を考えることができたのです。とてもおもしろいやりとりでした。くしゃみをする度に人格が変わる「わだたかしさん」どうもありがとうございました。

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2.履歴書を送る前にCEOになった人:ズリアゲさん

  ひとつ目のやりとりの紹介でずいぶん長くなってしまいましたが、もうひとつだけ紹介させてください。割と最近フォローしてくださった「ズリアゲさん (@calcio_itaro)」とのやりとりです。とても笑わせていただきました。ことの発端はこの記事でした。

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 既存の集団に所属するのではなく、自分のことをおもしろがってくれる人を周りに集められたらなと思います。これぞまさに自分にとっての「甘い集団」です。甘い集団の構成員募集中です。誰にでもできる簡単なお仕事です。履歴書お待ちしております。

 この記事の最後に、冗談でこんなことを書いていました。「ズリアゲさん」は、この「履歴書」というところに反応してくださり、こんなリプをくれました。

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  もうこの時点でおもしろいですよね。本気で履歴書を送ろうとしているかのような書き方がとても素敵です。思わず「なんでパンチか角刈りかの2択なんだよ!」とツッコみたくなるのですが、ここでツッコんでしまえばやりとりはもう終わってしまいます。せっかくだからもう少し続けてみようと思い、ボケにボケを重ねてみました。

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  ボケとしてはかなり雑で粗いですが、この粗さがいいかんじに映えています。言わば逆張りというやつですね。PDFの逆はナスカの地上(?)、パンチの逆はキック、角刈りの逆は丸伸ばし、5厘の逆は5mというわけです。このあとの流れは以下の通りです。

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  最後の井戸田さんの画像なんて、もはや「正解」ですよね。これ以上の返しはないのではないかというくらいです。このように、その時々の「正解」を出し続ければ、コミュニケーションは本当におもしろいものになります。「正解」をどうすれば出せるようになるかというと、やはり想像力と無駄を省く力なのではないでしょうか。その点において、本当にこのやりとりは無駄がなかったなあと思います。終わり方まで完璧でした。さすが我らがCEO、どうもありがとうございました。

 

 

 何度も言うようで申し訳ないのですが、過ぎ去ったやりとりをこうして掘り返して解説するだなんて本当はタブー中のタブーです。過ぎ去るからこその美しさもあるのです。その場限りの瞬間の芸当です。

 先ほど、気の利いた返しをするためには想像力と無駄を省く力が必要だなんて適当なことを言いましたが、筆者もまだまだ修行中なのでえらそうなことは何も言えません。むしろ一番必要なのは、恐れずにチャレンジし続ける精神なのかもしれません。百戦錬磨が大切です。だからこそ、この記事を読んで変に臆すのではなく、どんどんとバカみたいなリプライを送っていけばいいと思います。なんなら筆者のツイッターがサンドバッグになりますので、くだらないリプライどんどんお待ちしております。

 

 

 

【土】どれだけピーマンが嫌いでも本当に美味しいピーマンに出会ったら考えも変わる

 

 おはようございます。数日前から玄関の電球がつきません。つかなくなって、はじめて玄関の電球の重要性に気がつきます。姿見を玄関に置いているので、出かける前に身だしなみをチェックするのは玄関です。しかし、真っ暗なので何も見えません。

 出かけるときに最後に明かりを消すのは玄関です。しかし、リビングの明かりを消せばもう真っ暗です。靴が上手に履けません。では、リビングの明かりをつけたまま靴を履いてみましょう。するとびっくり。靴を履いてしまったので、リビングの明かりを消せません。

 今は、リビングの明かりを消したあとに、iPhoneのライトをつけて、靴を履いています。現代的な解決策でしょ。なんてことを思っていたら、リビングの電球もひとつチカチカし始めました。正月ですもんね。ゆっくり休んでください。どうも、インクです。

 

どれだけピーマンが嫌いでも本当に美味しいピーマンに出会ったら考えも変わる

 本当におもしろいものを、自分が無知であることや間違った思い込みをしていることによって見逃してしまわないようにしたいなと思っています。そんな判断基準はやはり年齢によって大きく変わってきます。20のころは苦くて飲めなかったビールを、今ではグビグビと飲んでいたり。まったく興味がなかった洋服に、給料のほとんどをつぎ込んでいたり。「これまで価値がないと思っていたモノの価値にあとから気がつく」なんてことはいくらでもあります。

 そのように考えると、きっと世の中には見逃している価値が山のようにあるのだろうなと思います。誰かがハマっているということは、そこには必ず何かしらの価値があるということです。やったこともないのに「待ち時間が暇だから」と適当なことを言って手を出していない「釣り」にも。やったこともないのに「金持ちのスポーツでしょ」と敬遠している「ゴルフ」にも。間違いなく価値があるはずです。このような見逃してしまっている価値のほとんどは以下のふたつに分けられると思っています。

 

 ① 本当にいいものを知らない

 ② 食わず嫌い

 

 改まって書きましたが、はじめに言っていた「無知であること」と「間違った思い込みをしていること」と同じですね。たとえば、今日の記事のタイトルにもなっている「どれだけピーマンが嫌いでも本当に美味しいピーマンに出会ったら考えも変わる」は、① のパターンです。きっとピーマンが嫌いな人のほとんどは、ピーマンを食べたことはあるはずです。食べた上で「こりゃダメだ」と思い、食べなくなってしまったのです。だから、もしかすると見逃してきたピーマンの中には「本当に美味しいピーマン」が紛れ込んでいたかもしれません。しかし、そんなピーマンの価値を「自分はピーマンが食べられない」という思い込みによって見逃してしまっているのです。

 そんな人に限って「別に見逃したってかまわない」だなんてことを言うのですが、筆者からすれば、なんてもったいない考え方なのだろうと思ってしまいます。まあ人それぞれですので、無理に食べろとは言いませんけどね。

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 このように、見逃している価値はたくさんあるわけですが、何かのきっかけを経て、その価値に気づくことがあります。要するに、誰と出会いどんな経験をするのかによって人の価値観なんていくらでも変わるということです。ピーマンを作っている農家の方と結婚をして、ピーマンが大好きになる人だっているかもしれません。

 逆に言えば、今の自分の価値観なんて「その程度のもの」だということです。今価値がないと思っているものが、自分にとってとてもすばらしいものになるかもしれません。今知らないものが、自分の人生の軸になるかもしれません。だとしたら、いつかやってくるその機会をじっと待つのではなく、自ら迎えにいった方がいろいろとお得なのではないでしょうか。

  ただ、ひとつだけ注意しておかなければならないことがあります。それは、他者の価値観に対しての言及の仕方です。先ほども述べたように、所詮今の価値観なんて「その程度のもの」でしかありません。今後いくらでも変わります。だからこそ、今の価値観を軽視してしまうことがよくあります。

 他者の価値観ともなればなおさらです。ピーマンを食べられない人に対して「おいしいのに!もったいない!」「人生の1/3は損をしているよ!」だなんてことを簡単に言ってのけます。しかしその人にとって、今抱えている「ピーマンが食べられない」という価値観はとても大切なものなのかもしれません。「ピーマンが食べられない」という思い込みによって自分を保っている可能性だってあります。

 この現象は、大人から子どもへのことばかけの中でよく起こります。大人は、これまでの経験を踏まえて判断します。子どもに比べると様々な価値を知っています。だからこそ、子どもが大事にしている価値観を軽視してしまうことがあります。

 恋愛がわかりやすいかもしれません。大人は「告白しろ!後悔するぞ!」なんてことを簡単に言います。「今」思い返せば、「昔」にもっと無茶をしてもよかったな。と、思っているからです。だからこそ、子どもに対しては適当なことを言います。しかし、大人にとっての「昔」は子どもにとっての「今」です。恋愛は「今」まさに進行しているのです。そんな「今」に生きる子どもにとって「告白」なんてそう簡単にできることではありません。人生をかけた大勝負です。何度も言う通り、それを大人は軽視してしまうのです。

 勉強だって同じです。大人はよく「この問題は簡単だよ」と言います。なぜそんなことが言えるのかというと「大人だから」です。子どもにとっては、まさに「今」学んでいるところです。大人にとっては簡単かもしれないけれど、子どもにとっても同じだとは限らないのです。ここでもまた大人は、子どもという当事者の価値観を軽視してしまうのです。

 だからこそ、「自分の価値観の重み」と「他者の価値観の重み」は分けて考えなければなりません。自分がピーマンの素晴らしさに気づけたからといって、隣の人も同じように気づけるとは限らないのです。もちろん価値に気がつけるにこしたことはないのでしょうが、タイミングやきっかけは人それぞれです。無理やり動かそうとしたり、軽んじた発言をしたりすることによって、むしろそのタイミングが遅くなってしまうこともありえます。気づいた価値を人に伝えたくなる気もちはわかりますが、あくまでもその人は「今」の価値観を大切に生きているということを忘れてはならなりません。

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 ちなみに、筆者はピーマンが大好きです。肉詰めにするとおいしいですよね。味はもちろんなのですが、みなさんはピーマンを手で割ったことがありますか。なんでしょうね、あの感覚。パキッというか、グニッというか。シャキッというか、ポキッというか。伝わっているでしょうかこの感覚。ことばで説明するのが難しいですね。あの感覚って、ピーマンにしか出せない唯一無二の感覚だと思います。

 だからなんだと言われるとどうしようもないのですが、割ったときのあの感覚がとても好きなのです。どこまで伝わっているのかは分かりませんけどね。よくわかっていない人は今すぐスーパーに走って、ピーマンを買いましょう。そして手に力を込めて、ひと思いに割ってみてください。きっとわかっていただけるはずです。あの感覚を知らなければ、人生の半分は損をしますよ。

 

 

【金】「嫌なら離れろ」が通用するからインターネットはフェアなのです

 

 おはようございます。先日、はじめてネットカフェを利用しました。街中で看板はよく見かけますが、そのほとんどは上階にあるため、なかなか入りづらいです。これまでは時間を潰すにしても喫茶店に入っていたのですが、さすがに3時間の空きは長いなと思い、勇気を出してネットカフェに入りました。

 結果としては、とてもよかったです。エクセレントです。スタンディングオベーションです。すみません、さすがに言い過ぎました。それでもよかったのは本当です。部屋は、天井が吹き抜けの半個室。中からは鍵をかけることができます。漫画は最新刊までそろっており、飲み物は飲み放題です。紙のコップで出てくるタイプの自動販売機がズラリと並んでおり、お金を入れなくてもボタンを押せば飲み物が出てきます。当然あたたかい飲み物もありました。さらに、キャンペーン中だったのか、ソフトクリームも食べ放題でした。3時間で1400円。こいつはリピート確定です。どうも、インクです。

 

「嫌なら離れろ」が通用するからインターネットはフェアなのです

 インターネットに強いのは間違いなく若者です。どれだけ大人の方が現実世界での経験が豊富だったとしても、やはりインターネットと共に学生生活を送り、インターネットと共に成長してきた若者にはどうしても勝てません。インターネットの存在が前提にある集団生活では、嫌が応にも適応していくしかありませんからね。生活におけるインターネットの重要性が段違いだったと言えるでしょう。

 それでもなお、本当の意味でのインターネットリテラシーを身につけている人は、ほんの一握りだと思っています。インターネットリテラシーと言えば、どうしても「詐欺メールのリンクを踏まない」だとか「怪しいフォームに個人情報を入力しない」というような事例がよくつかわれるのですが、そんなにコテコテな話ではありません。現実世界とインターネットの世界を、どこまで分断して考え、どこまで繋げて考えられるかという話です。

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 上の「匿名ラジオ」は、インターネット界における有名人「ARuFa」と「ダ・ヴィンチ恐山」がふたりで話しているYouTubeのラジオチャンネルです。YouTuberよりもはるか昔から、インターネットにコンテンツを発信し続け、有名になった人たちです。もちろんこのふたり以上にインターネットに精通している人なんていくらでもいるかと思いますが、表立った人たちの中で考えるのなら、このふたりはかなり深いところにいるのではないでしょうか。このラジオで話されているネタがひと通り理解できる人は、きっと昔からインターネットを触ってきた人なのだろうなと思います。

  結局は「好きこそももの上手なれ」です。自らインターネットに触れ、自らたくさんの可能性を試した人にリテラシー能力はついていきます。「人並みにツイッターやインスタをやっています」くらいではたかだか知れているのです。それなのに、自分はリテラシー能力があると思い込んでいるおじさんやおばさんがあまりにもたくさんいます。だからややこしいのです。

 ツイッターのタイムラインを見ていても、このリテラシー能力にはとても大きなバラつきがあります。誰でも利用できるのがツイッターですから当然のことなんですけどね。ブロックしただのされただの、ミュートしただのされただの、といつまでも言っているのはこのバラつきがあるからです。子どもどうしが「自分の方が大人だ!」とケンカしているようなものです。

 ブロックもミュートもツイッターのひとつの機能ですから、したければ勝手にすればいいのです。いつも思うのですが、その上で、どうしてわざわざそれを言うのでしょうね。「こんな人はブロックする」とか「〇〇にブロックされた」とか。勝手にすればいいじゃない。一方的に関係性を切ることができる。これがインターネットの最大の特徴ではないですか。そこを変に現実世界と混同させて考えるからややこしくなるのです。

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 インターネットは広い世界のように見えて、実はとてもせまい世界です。自分が好きな人とだけ関わりをもつことができる。そんなクローズドな世界です。時々「自分とは違う考えの人の意見も聞かなければならないでしょ!」だなんて至極真っ当なお説教をしている人がいますが、それは現実世界のお話です。インターネットの世界では、そんな意見を聞くか聞かないかもすべてユーザーが選択できます。要するに、自分にとって甘い空間を簡単につくり上げることができるというわけです。

 「その上であなたのためを思って忠告してあげているんだ!」なんて言う人もいますが、それは余計なお世話でしかありません。先ほども述べたように忠告を聞くか聞かないかもその人の自由です。忠告を聞かずに失敗したのなら、それまでの人間だったというわけです。逆に、インターネットで「みんな仲良くしようよ!」だなんて言っている人もいますが、それも無理な話です。これこそ人によってリテラシー能力がまったく違いますからね。相手の表情や声色が実感できない分、熱量の差が大きくなって当然です。そんな環境下でみんなが仲良く協力するなんて不可能です。それが嫌ならあなたがここを去るべきです。

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  そして最後に、情報の受信者としてもっとも大切な力について話します。ありきたりかもしれませんが、それは「人を見る目」です。ここまでに述べてきたように、インターネットの世界では、自分が好きな人だけを周りに置くことができます。しかも、その集団が一致団結するための「敵」もしっかりと存在しています。だからこそ、やり方次第では、黒鉛をダイヤモンドに見せることだってできるのです。一番おそろしいのは、発信者自身がそれを本当にダイヤモンドだと信じ込んでいるパターンです。別に周りの人たちを騙そうとしているわけではないのです。だから怖いのです。

  受信者には、それが「黒鉛」なのか「ダイヤモンド」なのかを見分ける力が必要です。とことん疑えばいいと思います。それもインターネットリテラシーのひとつです。その上で「これはダイヤモンドだ!」と信じられるものがあったのであれば、とことん付いていけばいいのではないでしょうか。その先に破滅が待っていようとも、それはその道を選んだ自分の責任です。それがインターネットです。どうか付いていく先輩を間違えんなよ、小僧。

 

 

 ツイッターで「小学校の先生」を名乗るようになって、それほど長くはないのですが、ざっとツイッターの先生の世界を覗いてみて、自分はどのグループにも所属できないのだろうなと思いました。こればかりは現実世界と同じです。変なこだわりが強い分、既存の集団に入っていくには灰汁が強すぎるのです。

  だからこそ、既存の集団に飛び込むのではなく、自分のことをおもしろがってくれる人を周りに集められたらなと思います。これぞまさに自分にとっての「甘い集団」です。甘い集団の構成員募集中です。誰にでもできる簡単なお仕事です。履歴書お待ちしております。

 ただし、くれぐれもツイートや記事をよく読んで、「黒鉛」なのか「ダイヤモンド」なのかはしっかりと自分の目で見極めてくださいね。最近はダイヤモンドのような光沢感を表現できるインクもあるみたいですからね。

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