ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【月】教育は多くの人に価値が認められている時点でかなりのアドバンテージをもっている

 

 おはようございます。えらいので、切れていた玄関の電球を替えました。明かりがつくと、鏡を見て身だしなみをチェックすることができます。明かりがつくと、迷わずに靴を履くことができます。明かりがつくと、スムーズにお出かけすることができます。ありがとう、トーマス・アルバ・エジソン。あなたのおかげで今日もこうしてブログを書くことができています。どうも、トーマス・アルバ・インクです。

 

教育は多くの人に価値が認められている時点でかなりのアドバンテージをもっている

 数少ない友人のひとりが、とあるアニメーション会社で働いています。給特法がどうのとか、定額働かせ放題がどうのとか、ブラックだブラックだと言われている教育業界ですが、話を聞いている限りアニメ業界も大概だなと思いました。休みが重なったのでたまには飲みにでも行こうかと約束をしていたのですが、合流できたのは23時を過ぎてからでした。出勤してなんやかんやで帰れなくなり、気がつけばこの時間になったそうです。一応くり返しておきますが、その日はお互いに「休日」でした。

 その友人曰く「ブラックなのは入る前から分かっていたこと。確かに大変だけれど、やりたくてやっているから別に構わない」とのことでした。このことばを聞いたときにふと、先日の三浦知良選手の発言を思い出しました。

 ラグビー選手は激しい戦いで、当然ケガをしても痛い顔をしない。サッカー選手ってすぐに痛がるじゃないですか。あれ、ちょっと恥ずかしいなって思いまして。痛がっている割にはすーって走ってっちゃうから。

 また、ラグビーの選手はレフェリーにクレームを入れないことについても触れ、次のように述べていました。

 それって紳士的というか。サッカー選手はすぐに文句を言うじゃないですか。役者みたいに。

news.livedoor.com

 先ほどの話と照らし合わせるのなら、サッカーが教育業界で、ラグビーがアニメ業界だということになります。くれぐれも勘違いしないでいただきたいのが、何も「教育業界も黙って耐え抜くべきだ」と言いたいわけではありません。教育業界とアニメ業界の違いを考えてみたかっただけです。何せ筆者自身が教育業界に身を置く人間ですからね。先生の大変さなんて身に染みて分かっています。「黙ってやれよ」で済むような話ではないことくらい重々承知しています。

 それでは話を戻します。同じように「ブラックな」教育業界とアニメ業界ですが、明らかにその業態が世間で話題になっているのは教育業界の方です。アニメ業界には、休日に23時まで飲みに行けないような現実があるのにも関わらず、どうして教育業界にばかり注目が集まっているのでしょうか。

 それは、今日のタイトルにもある通りです。多くの人に価値を認められているのが教育業界だからです。アニメ業界も、かつてに比べれば多少の地位は向上したのではないかと思いますが、やはり未だに「ただの娯楽」として認知されている部分が大きいように思います。言わば「なくてもいい」と思われているということです。「なくてもいいもの」を一生懸命つくって、その業務形態を訴えられても「じゃあ、辞めればいいじゃない」と言われておしまいなのです。

 一方、教育は多くの人に「なくてはならない」と思われています。だからこそ、教員数が足りないとなれば、国を挙げて大騒ぎします。教員が働き方について訴えかければ、国はそれなりに対応しているフリをします。多くの人に「なくてはならない」と思われている分、「嫌なら辞めればいいじゃない」が通用しないのです。要するに「教育」は守られているということです。アニメと比べれば、多くの人に価値が認められている時点で大きなアドバンテージをもっているのです。もちろんその分窮屈になることもあるんですけどね。

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 このように考えていると、もしかするとふたつの業界の立場があべこべな現実もあり得たかもしれません。アニメに限らず、他の何かが圧倒的に価値を認められており、教育なんて「なくてもいいもの」だと思われている、そんな現実があり得たかもしれません。かつての日本では詩歌管弦に大きな価値が置かれていました。和歌が上手なやつが偉い。楽器が上手なやつが偉い。そんな時代があったわけです。さらに大昔まで遡るなら、足が速いやつが偉い時代もあったでしょうし、力が強いやつが偉い時代もあったでしょう。

 「教育」は所詮、そんな「分野」のひとつでしかありません。たまたま多くの人に価値が認められているだけです。正確に言うのなら「価値がある」と大衆に信じ込ませる動きが歴史の中にあったというだけです。きっと「教育には価値がある」と多くの人が信じ込むことで得をする人がいたのでしょう。

taishiowawa.hatenablog.com

 多くの人に「価値がある」と思われるものが「教育」ではなく「アニメ」だった可能性も0ではありません。もしかするとそれが「あやとり」だったかもしれませんし「大食い」だったかもしれません。はたまた「腕立てふせの回数」だったかもしれませんし「滑舌のよさ」だったかもしれません。何に価値が置かれようとも、可能性としては十分にあり得たわけです。

 もちろん「教育」に価値が置かれるようになった背景には必然性があったのでしょう。社会的な生き物として価値を置くべき分野だったのかもしれません。しかし、そんな当たり前のように価値が認められているものを改めてつっつくことも大切なのではないかと思い、このような記事を書いているわけです。

 私たち教員は、他の分野と比べても社会的に大きなアドバンテージをもって仕事に取り組んでいます。国から守られながら、国民から守られながら、日々の業務をこなしています。確かに仕事量は膨大で、改善すべきところはたくさんあるのかもしれませんが、この前提を忘れてはならないような気がします。働き方が改善されていく流れはもちろん好ましいことですが、その過程で教員の正義が膨れ上がり過ぎてしまうのではないかと少し心配しています。

 

 

 今日から仕事始めの方も多いのではないでしょうか。正月をゆっくり過ごせば過ごすほど、やはりこの休み明けは憂鬱になるものです。でも、きっと大丈夫。もう359つ寝るとお正月です。いや、待てよ。今年はうるう年だからあと360つか。ああ...。1つ増えちゃった...。ごめんなさい...。