【金】対にあるものの現実味がないから「常識」になり得ているものがたくさんある
おはようございます。オンラインでの繋がりが増えるにつれて、自分が「インクさん」と呼ばれることへの慣れが出てきました。ZOOM を使うようになってからは、なおさらその傾向が強くなった気がします。
普段の生活の中でも「インク」ということばは、ちょくちょく耳にするんですよね。「プリンターのインクがない」とか「ペンのインクを交換する」とか。
返事をするとまではいかずとも、聞こえる度にぴくりと反応してしまいます。文章の中に登場するようなことがあれば、ものすごく目につきます。
ただ、自分で自分のことを「インクです」と言うには、まだまだ抵抗を感じます。既存のことばであるが故に「インク」って「恥ずかしい」と「恥ずかしくない」のちょうど真ん中に位置しているんですよね。
どうせなら、まったく恥ずかしさを感じない人の名前らしいハンドルネームか、いっそのこと言うのも憚られるくらい恥ずかしいハンドルネームにすればよかったなと思います。どうも、インクです。
対にあるものの現実味がないから「常識」になり得ているものがたくさんある
対にあるものの現実味がないから「常識」になり得ているものがたくさんある
— インク@青年求職家 (@firesign_ink) 2020年12月1日
いまの学校が「一斉指導」という形式をとっている理由は「それ以外の手段がなかったから」です。個別最適化するには大人の数が足りませんし、分散させるには場所も足りません。だから大勢の子どもを1箇所に集めて、少ない数の大人が対応しているのです。
もちろん「社会性を身につけるため」だとか「人間関係を学ぶため」だとか、集団の中で生活させる理由はたくさんあることでしょう。しかし、そんなものはすべて後づけです。枠が先に決まって、後からもっともらしい理由が付け足されていったのです。
念のために言っておきますが、べつに集団生活を否定しようとしているわけではありません。いま話しているのは、コトの成り立ちについてです。「一斉指導」が常識として成立している理由のお話です。
記事のタイトルにもあるとおり「対にあるものの現実味がないから」という理由で「常識」になり得ているものが、意外とたくさんあるものです。
たとえば、我々は当たり前のように「ことば」をつかってコミュニケーションをとっていますが、本来なら「ことば」なんてひとつの手段でしかありません。
ことばをつかわずにコミュニケーションをとるということに現実味がないからこそ、ことばをつかうことが「常識」として扱われているだけです。
靴を履いていることだって、家に住んでいることだって、お金をつかうことだって、生きていることだって。対にあるものに現実味がないだけなのです。
ただ、時代が進むにつれて、そんな「対にあるもの」に現実味が生じてくるということがよくあります。はじめの例でいうところの「個別最適化学習」なんてまさにそうだと言えるでしょう。
かつての教育では、1人の大人に30人の子どもをあてがうことが「常識」として成立していました。ところが、ICT の発達により、常に集団で学習することへの必然性が薄れるようになってきたわけです。
そうなると「常識」の中で生きてきた私たちは、必ずと言ってもいいほど戸惑います。なぜなら「いまの常識が最適解だ」と思いつづけてきたからです。いちいち疑っていては疲れますからね。
常識歴が長くなればなるほど、人は「それこそが最善の手段だ」と思い込むようになるのです。そう思い込むことで心の平穏を保つというわけです。
だからこそ、新しく現実味を帯びてきた「対にあるもの」を、一生懸命になって否定します。もしくは反対に、いまある「常識」を肯定しはじめるということもあるでしょう。まあ、いずれにせよ「対にあるもの」の価値を下げようと努めるわけです。
なんだか愚かにも見えますが、この動きは人として当然です。先ほども述べたように、心の平穏がかかっています。変化とは不安で心細いものなのです。
そんなときに、冷静になってものごとを見つめる力はものすごく大切です。どうしてそれが「常識」として成立してきたのかを考えなければなりません。
「この手段こそが最善だ」という選択の上で成立している「常識」なのでしょうか。はたまたこれまでのお話のように、ただ選択肢がなかったから暫定案として成立しているだけの「常識」なのでしょうか。
「対にあるもの」はどうしてこれまで現実味がなかったのでしょうか。また、どうしてこのタイミングで現実味を帯びるようになったのでしょうか。
わたしたちは、つねに「常識」という枠に囲われています。「前提」と言い換えることもできるのかもしれません。途中でも述べたように、そんな枠の中に長居してしまうと、そこが世界のすべてだと思い込むようになってしまいます。井の中の蛙状態です。
だからこそ、枠の更新が必要なのです。リフレーミングというやつです。仮に、更新するとまではいかずとも、せめて「枠の外にも世界がある」ということは知っておかなければなりません。いまはただ、現実味を帯びていないというだけなのです。
【今後の予定】
①12月4日(金)らぱいんざWORLD Vol.9
②12月9日(水)こきけんよう Vol.22
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