ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【金】本当に黒板が教室の「前」なのか?

 

 おはようございます。休み時間になると、子どもたちは一目散に運動場へ駆け出していきます。「暑いから出たくない」だなんて躊躇いは一切ありません。

 一方で、大人はとにかく外に出ようとはしません。汗をかくから。体力がなくて走れないから。服が汚れるから。日に焼けるから。子どもたちの安全管理をしなければならないわけですが、完全防備をした上で日陰の中から子どもたちを見守っています。

 べつに悪いわけではないのですが、そんな様子を見ていると「これが子どもと大人の違いか」と思わされます。当分は子どもでいいのかもしれません。安全には最大限の注意を払った上で、今日も全力で走ってこようと思います。どうも、インクです。

 

本当に黒板が教室の「前」なのか?

 文章から順序性を切り離すことはできません。どれだけ並列させているつもりであったとしても、そこには「前」と「後」が生じます。

 たとえば「女性と男性」と書くのと「男性と女性」と書くのとでは、意味合いが若干変わります。平等に扱いたいと思っていたとしても、そこには必ず順序性による意味合いが生じてしまうのです。

 文章の内容に合わせて、どちらを前に書いてどちらを後ろに書くのかを選択しなければならないということです。「扱いに差はないからどちらでもいい」では済まされません。どれだけ書き手がそれでよくても、読み手は順序から意味を読みとります。

 それが事実である限り、書き手はどちらの順序がよいのかを充分に考えなければなりません。今回は「女性」と「男性」だけを例に挙げましたが、ご存知のとおり、性別はもっと多様にありますからね。なおさら順序には慎重にならなければいけないのです。

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 そんなことを考えていて、ふと「教室には前後があるのか?」と思うようになりました。先生は当たり前のように「前を向いて」とか「後ろの子にプリントを回して」とかいうことばをつかいます。

 一般的に考えれば、黒板のある方が「前」で、その反対が「後ろ」ということになるのでしょう。しかしよくよく考えれば、べつに「黒板のある方が前である」と決められているわけではありません。

 黒板は思考を共有するためのひとつの手段でしかありません。果たして、常に全員が黒板の方を向いている必要なんてあるのでしょうか。

 それでもやっぱり黒板が前になってしまうのは「教える」ことが前提にあるからなのでしょう。俗に言う「講義型」というやつです。ラーニングピラミッドで言うところの学習定着率が5%のアレです。

 「教える」という行為の中で用いられる黒板は「思考の共有」ではなく「思考の伝達」のためにあるのです。そりゃあ、黒板が「前」にもなりますよね。

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 「手段の目的化」なんてことばをよく耳にするようになりましたが、黒板なんて典型的な例なのではないでしょうか。もういっそのこと黒板を取っ払うか、どこぞの有名企業のように全面をホワイトボードにしてみてもおもしろいのかもしれません。

 「教育を変えるんだ!」と意気込んでいる人がたくさんいるのに、こんなにも変わらないのは、物理的な環境が変わっていないからなのではないでしょうか。

 どうしても「理論にともなって環境が変化していく」というイメージがありますが、理論だけでは何も変わりやしません。

 教室の「前」に黒板がある限り「黒板はこうやって書くべきだ」という意見がゼロになることはなく「黒板をつかわない」という選択肢にたどり着きはしないのです。

 ところが、黒板がはじめからなければ、その中でやりくりをするしかなくなるので、必然的に変化が生まれてきます。もちろん変化が生まれればそれでいいというわけではありませんが、本当に「教育を変えたい!」と願っているのなら、物理的な面で変化を起こしていくことが、もしかすると手っ取りばやいのかもしれません。

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 今回は、わかりやすかったから黒板を例に挙げただけで、べつに本気で「黒板なんてなくなればいい」と思っているわけではありません。「何かを変えようと思ったときに、今あるものを疑って、試しに捨ててみるのもひとつの手なのではないか」ということが言いたかっただけです。

 仮に、本当に黒板がなくなったとしたら、教室の「前」はどうなるのでしょうか。全員が「前」を向いている必要がなくなるかもしれませんし、先生が「前」に立つ必要もなくなるかもしれません。そうなれば、そもそも「前」という概念自体がなくなるかもしれません。

 教室は、学びの形に合わせて、もっと変動的でもっと流動的な場であってもいいと思うわけです。そう考えると、椅子や机にもおなじことが言えますね。「どの授業でも椅子に座って机に向かっている」ということの方がおかしいのかもしれません。

 ノートだって教科書だっておなじです。学びは、もっと自由で、もっと広いはずなんですけどね。「こういうものだから」というよくわからない理由で、随分と押し込められてしまっているような気がしてなりません。

taishiowawa.hatenablog.com

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【お知らせ:本日

 知らぬ間にこちらは第4回になりました。らぱいんざWORLD のお知らせです。今回のゲストは まーくん こと fanta さん(‪@fanta_omeru‬)です。

 例のごとく、これまでにいちども絡んだことがありません。これぞこの企画の醍醐味ですね。ちなみに、グレープよりもオレンジの方が好みです。

 こちらも同じくツイッターのDMにて、聞き手を募集していますので、ぜひ遊びに来てください。

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