ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】「後からきた人が黒板を見て授業の流れがわかるかどうか」ってどんな基準だよ

 

 おはようございます。昨夜は、駅の蛍光灯にとんでもない数の羽虫が集まっていました。飛んで火にいる夏の虫。どうして虫って光に集まるのでしょうか。

 羽虫といえば、宮沢賢治の『よだかの星』を思い出します。あゝ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が毎晩ぼくに殺される。それがこんなにつらいのだ。

 あゝ、つらい、つらい。ぼくはもう虫を食べないで飢えて死のう。いや、その前にもう鷹がぼくを殺すだろう。いや、その前に、ぼくは遠くの空の向こうに行ってしまおう。

 この夜鷹の独白が、とにかく切実なんですよね。この短い文章の中で「ぼく」という一人称が4回も出てきます。関係性から逃れようとする一人称の自意識。見事ですよね。どうも、インクです。

 

「後からきた人が黒板を見て授業の流れがわかるかどうか」ってどんな基準だよ

 若い先生の授業を観に行ったときに、もっとも指摘しやすいのが板書です。「めあてが書かれていない」とか「字が小さすぎる」とか。「漢字の書き順が間違っている」とか「赤色は見づらい」とか。

 それらしいアドバイスが簡単にできてしまいます。もちろんそれらの要素がどうでもいいと言っているわけではありません。「先生の文字」が子どもたちに与える影響ははかり知れませんからね。

 ただ、それでもやっぱり、真っ先に板書のことをとやかく言う先生がいたら「一体授業の何を観ていたのだろう」と思ってしまいます。

 言ってしまえば「板書」って、学習を深めるためのひとつの手段でしかありませんからね。必要でないのなら、別に何も書かなくてもいいくらいです。

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 それでも先生の間では「板書がまとまっている授業はよい授業」という風潮があります。先ほども述べたとおり、基準としてとてもわかりやすいからです。

 中には「後からきた人が黒板を見て授業の流れがわかるかどうかが大切だ」なんて言う人もいます。まあ、言いたいことはわかりますけどね。「授業の後半でも前半の内容に立ちかえられるようにしよう」という意味なのでしょう。

 ただ仮にそうだったとしても、すこし言い過ぎな気はしませんか。「後からきた人」って誰だよ!という話です。授業の中心である子どもたちは、当然はじめから教室にいますからね。

 さらに言えば、後から黒板を見て授業がわかってしまうのなら「板書だけを見ればそれでいい」ということにもなってしまいます。

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 と、こんなことを言ったって、ただ揚げ足をとっているに過ぎません。本質には一切触れられていませんからね。文句を言っても何にもなりません。ここで改めて考えなければならないのは「評価基準のおかしさ」ではなく「板書の在り方」についてです。

 調べてみると、黒板は1874年にアメリカから持ち込まれたそうです。大きな戦争を経て、1955年には全国規模で使われるようになりました。

 そこから数えても、かれこれ60年近く黒板をつかっているということになります。わたしたちは、この60年の間、黒板をどのようにつかってきたのでしょうか。その使い方に変化はあったのでしょうか。

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 どうやらあまり変わってなさそうですね。プロジェクターやら電子黒板やら、いろいろな機器は増えましたが、結局は2020年になった今でも黒板にチョークで文字を書いているのです。
 言い換えれば、黒板にはそれだけの魅力があるのでしょう。ホワイトボードという強敵が現れたにも関わらず、まったく廃れる気配がありませんからね。

 やはり耐久性に優れているのでしょう。何年も何年も、書いては消してをくり返しているにも関わらず、教室の顔として役目を果たしつづけています。

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 しかしその一方で、世の中は大きく変化しました。多様化が多様化を呼び、もはやひとり分の脳では捉えきれないくらいに多様化は進んでいます。

 そんな時代に、たくさんの子どもをひとつの部屋に集めて、黒板に書かれた文字をノートに写させることにどこまでの価値があると言えるのでしょうか。

 アイデアを出し合って、それをまとめていくために利用するのならまだわかりますが、大抵の授業では「これを理解させる」というゴールが決まっています。言ってしまえば、すべての授業は予定調和に含まれてしまうのです。

 「いいや、そんなことはない」と言いたくなるかもしれませんが、学習指導要領というものがあり、それに則っているかぎり、予定調和から逃れることはできません。どれだけ子どもたちが想定外のすばらしい意見を述べたところで、目指すべきところが変わることはないのです。

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 そんな時代に「板書」はどうあるべきなのでしょう。これだけ書いておいて申し訳ないのですが、正直に言うと、未だに自分の中で腑に落ちる答えをみつけることができていません。

 ノート指導においても同じことが言えます。「上から2行空けて、3マス目からめあてを書きはじめるよ!」というような指導にどこまでの価値があるのでしょうか。

 いずれにせよ「何のために書くのか」という目的意識をはっきりさせた上で、黒板やノートという手段をつかうことができたらいいなと思います。きっとその目的は授業によってちがうはずです。おなじ授業はふたつとありませんからね。

 そう考えると、むしろ「とにかくきれいにまとまっていればいい」という方が安直な気さえします。どれだけきれいにまとまったって、どれだけきれいなノートができたって、子どもたちの脳が動いていなければなんの意味もありませんからね。

 60年かけて固められてきた板書のスタンダードは、このタイミングでもういちど考え直さなければならないのかもしれません。

taishiowawa.hatenablog.com

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【お知らせ:7/24】

  第2回「らぱいんざWORLD」の開催が決定しました。らいざさん(@rize_up_high)と らぱんさん(@lapinHSP)といっしょに、ゲストを招いておしゃべりします。第2回ゲストは、第1回ゲストである イスップさん(@bstogs1)にテレホンショッキング形式で紹介していただいた にょんさん(@EyzNo)です。ちなみに筆者はまったくといってもいいほど絡みがありません。おもしろくなることは間違いありませんが、はたしてどうなることやら。

 現在、聞き手を募集していますので、興味のある方もない方も、イヌもサルもキジも、画面の前のあなたも、ぜひご参加ください。参加希望はツイッターのDMにてお受けしております。自分なんかが行ってもいいのかなという考えは捨てましょう。あなたのご参加をこころよりお待ちしております。

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