おはようございます。電車から降りたときに、進む方向を間違えることってありますよね。改札へ続く階段は左なのに、右に向かって進んでしまうアレです。
こういうときは大抵、隣の扉から降りてきた人たちとぶつかります。だって階段は左にあるんだもの。そりゃあ右に進もうとしたらぶつかって当然です。
ときには進んだ先がホームの端っこだったり。絶対にそっちではありません。そんなときには、何でもないような顔をしながらUターンをするわけです。
降りた人とぶつからなくとも、電車の中にいる人たちには見られています。べつにほかの人からすれば何でもないようなことなのでしょうが、当人としてはめちゃくちゃ恥ずかしいわけです。
何でもないような顔をしているのも恥ずかしいし、だからといって「あっ、間違えた!」という感じを全面に出すのも恥ずかしいのです。
さっきも言ったように、ほかの人からすればどうだっていいんですけどね。人の自意識はとてもおもしろいなと思いました。どうも、インクです。
当たり前を疑う前になぜそれが当たり前として成立しているのかを考えよう
当たり前を疑う前になぜそれが当たり前として成立しているのかを考えよう
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年6月23日
当たり前を疑え。よく耳にすることばです。ことばでは簡単に言うことができますが、実際に疑おうと思ったらそんなに簡単ではありません。
当たり前というのは、言わば「考えることをやめた」ということですからね。これ以上考える必要がないからと「無意識」に放り込んだもの。それが「当たり前」なのです。
そんな無意識を意識下に戻して、もういちど考え直すわけですから、そりゃあ難しいでしょう。生活の中で、突起は限りなく削りとられています。そんなところから引っ掛かりをみつけなければなりません。
仮に、引っ掛かりをみつけて「これはおかしい!」ということに気がついたとしましょう。一生懸命にさがした結果なので、きっと嬉しくなるはずです。
しかし、どれだけ「これはおかしい!」と叫んだところで誰もふり向いてはくれません。なぜならほかの人たちは当たり前の中で生きているからです。あの太陽が偽物だということにだれも気がつかないのです。
するとどうなるのかというと「どうして気づかないんだ!」と他者に対して憤りを感じるようになったり「自分だけは気がついている!」という優越感のようなものを抱いたりするようになります。
そして、自己流のやり方でものごとを進め、わかりやすく失敗するのです。もちろんそれもまたひとつの経験として蓄えればいいのですが、少なくとも「どうしてうまくいかなかったのか」は分析しなければなりません。
当たり前を疑った人間がよく陥ってしまうのが、先ほどの「憤り」や「優越感」だけを武器にして突き進んでしまうというパターンです。
簡単に言えば、当たり前の中に生きている人たちをバカにしてしまうのです。「あの太陽は見るからに偽物なのに気づかないなんておかしい」という具合に。
もしかすると、その太陽は本当に偽物なのかもしれません。言っていることは正しいのかもしれません。だからこそ憤りを感じるのでしょう。
しかし、すべての人にとって「正しさ」が最優先事項だとは限らないのです。理屈が通っていれば納得してくれるというわけではないということです。
当たり前を疑う前に「どうしてそれが当たり前として成立しているのか」を考えなければなりません。偽物の太陽が当たり前として成立している限り、そこには必ず理由があるのです。
当たり前を疑う人は、この過程をよくすっとばしてしまいます。おかしいところだけを指摘して、どうしてそれが成立してきたのかを考えようとしません。
長く続いているものにはそれだけの理由があります。「意味がわからない」と言って切り捨てるのは簡単ですが、その経緯に敬意が払えない人間が何かを変えられるはずがないのです。
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