おはようございます。ずっと思っているのですが、どうして「おなら」って恥ずかしいものとして存在しているのでしょう。やはりあの音が原因なのでしょうか。それとも、独特のにおいでしょうか。
絶対にだれもがしたことがあるはずなのです。それでもやっぱり恥ずかしいのです。「屁」という名前にも原因はありそうですよね。「屁をこく」ってちょっとおもしろいですもんね。
「こく」って一体なんなのでしょう。社会の教科書に出てくる「千歯こき」の「こき」と同じでしょうか。そういえば、方言なのかもしれませんが「嘘こけ!」って言いますよね。この「こく」は「屁をこく」の「こく」と同じなのでしょうか。
「いい歳こいて」という言い回しもありますね。「こく」って案外たくさんあるものです。どこまでが同じ「こく」なのでしょう。「こく」に詳しい人がいたら、ぜひ教えてください。どうも、インクです。
【キーワードの答え:メタファー】
もしかすると説明的文章よりも文学的文章の方が具体的なのかもしれない
もしかすると説明的文章よりも文学的文章の方が具体的なのかもしれない
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年6月14日
説明文や論説文、評論文などをまとめて「説明的文章」と呼びます。一方で、物語文や随筆文、詩歌などをまとめて「文学的文章」と呼びます。
あらゆる文章は基本的にこのふたつのどちらかに分けられます。もちろん、限りなく説明的文章に近い文学的文章もありますし、文学的文章に近い説明的文章もあります。何せ「的」ですからね。
一般的には、説明的文章は具体的で、文学的文章は抽象的だと思われています。先ほど紹介したとおり、これらのふたつもさらに細分化されるので「その文章の内容次第だろ」と言われたらそこまでなのですが、まあそこらへんは大目に見てください。
文学的文章の方が解釈が広がるようなイメージはありますよね。反対に、説明的文章は読者による解釈の幅をなるべく狭めることを目的にしているようにも思えます。できるだけ正確に情報を伝えようとするのが「説明」ですからね。
ところが最近になって、もしかすると説明的文章よりも文学的文章の方が具体的なのかもしれないと思うようになりました。
そもそも「ことば」というものは「見立て」です。木にぶらさがっているリンゴに、はじめから「リンゴ」という名前がついていたわけではありません。人間がそのモノを見て勝手に「リンゴ」と呼んでいるだけです。要するに、事物とことばとの関係性は一方通行であり、常に一定の距離があるのです。
文章はそんな「ことば」によって綴られているわけですから、広い意味ではメタファーに含まれるのかもしれません。寓話とまではいかずとも、字面から離れたところにこそ真意があるのではないでしょうか。
説明的文章は一般的に、抽象概念を表現するために具体例を示します。もちろん説明文の中には、具体物をそのまま具体的に表現しているものもありますけどね。細かいことは置いておきましょう。
それに対して文学的文章は、最初から最後まで、すべてが「理想的な具体例」なのではないかと思ったのです。理想的な枠組みの中で、理想的な登場人物が、理想的な言動をする。作者の手によってすべてが具体化されていきます。
もちろん、すべてを思いのままに表現しきることのできる書き手なんていないでしょう。ただ、その文章には具体化された「作者の理想」が詰まっているはずなのです。
ここで言う「理想」とは、作者自身が「こんな人になって、こんなできごとが起こってほしい」と願っているという意味ではありません。「表現したい世界」という意味での「理想」です。
事実に基づいているから具体的で、事実に基づいていないから抽象的になるわけではないということです。そう考えると、文学的文章って本当におもしろいですね。書き手の思いがより忠実に表れやすい形態だと言えるのかもしれません。
子どもたちが、説明的文章よりも文学的文章を好むのは、より具体的でわかりやすいからだと考えることもできます。
筆者も、誰もが思ったことがあるように「文学的文章を書いてみたい」と思ったことがあるわけですが、プロの作家の作品を読めば読むほど「自分には書けないな」と思ってしまうんですよね。
だからこうしていつまでも、抽象的で、どうとでもとれるような文章を書きつづけているというわけです。生きているうちに1本くらいは、自分が読みたいと思えるような物語を書き上げてみたいものですね。
【お知らせ】
Coming soon ......