おはようございます。昨日の記事が、なんと400記事目だったそうです。毎朝投稿をはじめたのはブログを開設してすこし経ってからだったので、連続投稿数とはまた違うのですが、それにしても400ってすごいですね。400ですよ。400。
ときどき昔の記事を読み返すことがあるのですが、やっぱりおもしろいんですよね。もちろん「これは浅かったな」とか「これは違うな」とか「これは恥ずかしいな」と思うような内容もありますよ。
それでもやっぱりさすがは自分で書いた文章です。ちゃんと自分がおもしろいと思える文章になっています。ほかの人がどう思うかは知りませんよ。
もうすぐで連続投稿も365日に到達するので、そのタイミングですこし形を変えてみようと企んでいます。お楽しみに。どうも、インクです。
登場人物の気持ちを想像した先には何があるって言うんだい
登場人物の気持ちを想像した先には何があるって言うんだい
— インク@青年求職家 (@firesign_ink) 2020年10月1日
国語の授業でよく用いられる問いに「この場面における登場人物の気持ちを答えなさい」というものがあります。みなさんもいちどは問われたことがあるのではないでしょうか。学校の先生をされている方なら、子どもたちに問いかけたこともあるでしょう。
そんなみなさんに改めて考えていただきたいのですが、登場人物の気持ちを想像して何かよいことはあったでしょうか。想像力や思考力が増したなと思いますか。はたまた生活の中で何かの役に立ちましたか。
学校の先生として、子どもたちにこの問いを投げかけているみなさんには「成果は出ていますか」とお聞きします。登場人物の気持ちを想像することで、子どもたちによい変化はあったでしょうか。
すこし意地悪な聞き方をしてしまいましたが、改めて考えると、これらの質問に自信をもって「はい」と答えられる人はあまりいないのではないでしょうか。
ここで自信をもって「はい」と答えられないということは「何となくで登場人物の気持ちを考えさせてしまっている」ということです。言い方を変えるなら、それだけ「国語科における文学的文章の読解=登場人物の気持ちを考える」というイメージが固まってしまっているということなのでしょう。
登場人物の気持ちを考えさせることで、本当に「他者の気持ちを想像することができる子ども」が育つと思いますか。そのような道徳的価値観を育てるために文学教育があるのでしょうか。そもそも、なんのために文学教育があるのかを語ることができる先生は、一体どれだけいるのでしょうか。
べつに「登場人物の気持ちを想像する」という手法そのものを否定したいわけではありません。文学教育の存在を否定したいわけでもありません。何も考えずに登場人物の気持ちを問うことで、文学を殺してしまっているのではないかということが言いたいでのす。
上の記事にも書いたように、文章の読解には「分析」と「解釈」の2種類があります。「分析」は極めてロジカルなものであり、正解があるとまではいかずとも間違いはあります。一方で「解釈」には主観的な要素が大きく混ざり込んできます。読み手の過去の経験や、そのときに置かれている状況などによって、捉え方は変わるというわけです。
「これは、レモンのにおいですか?」
ほりばたで乗せたお客のしんしが、はなしかけました。
「いいえ、夏みかんですよ。」
しんごうが赤なので、ブレーキをかけてから、うんてんしゅの松井さんは、にこにこしてこたえました。
きょうは、六月のはじめ。
夏がいきなりはじまったようなあつい日です。松井さんもお客も、白いワイシャツのそでを、うでまでたくしあげていました。
「ほう、夏みかんてのは、こんなににおうものですか。」
「もぎたてなのです。きのう、いなかのおふくろが、〝速達〟で送ってくれました。においまでわたしにとどけたかったのでしょう。」
「ほう、ほう。」
「あまりうれしかったので、いちばん大きいのを、この車にのせてきたのですよ。」
しんごうが青に変わると、たくさんの車がいっせいに走りだしました。その大通りを曲がって、ほそいうら通りにはいったところで、しんしはおりていきました。
あまんきみこさんの『白いぼうし』という作品の冒頭部です。このあとに、タイトルにもなっている「白いぼうし」を、主人公の松井さんが発見し、不思議なできごとへと発展していきます。言わば、この冒頭部における「しんし」との一連の流れは、物語全体におけるプロローグにあたるわけです。
この教材をつかって授業をするときには、いつも「しんしが出てくる必要はある?」と問うようにしています。「しんし」はこのあとに展開されるメイン部分には出てこない人物です。「ほそいうら通り」でタクシーからおりたらそれっきりです。みなさんはこの「しんし」の登場は必要だと思いますか。
このような問いから「分析」はスタートします。冒頭部だけではありますが、ためしに『白いぼうし』の「分析」と「解釈」を行ってみましょう。
〈分析〉
- しんしに「これはレモンのにおいですか」と尋ねさせることで、自然とこの物語のキーアイテムである「夏みかん」の説明に繋げている。
- もしここに会話がなければ、地の文で「夏みかん」の紹介をするか、松井さんがひとりごとを言うかしかなくなり、極めて説明的な言い回しになってしまう。
- はじめから正解するのではなく、あえて「レモン」と間違えさせることで、ふたりの会話をはずませ、タクシー運転手としての「松井さん」という人物を描き出している。
- 「おふくろ」や「速達」という要素を付随させることで、松井さんにとって「夏みかん」が大切なものであるということを強調している。
- しんしとの会話を通して「夏みかん」の存在を読者に示している間は赤信号で止まり、会話が終わったころに青信号になることで、物語の開幕を示唆している。
〈解釈〉
「しんし」には〈大人の男性〉という意味に〈優しい〉という意味が加えられていると考える。松井さんと同性で、かつ優しい「しんし」を登場させることで、限りなく「自然な」状況をつくりだし、キーアイテムである「夏みかん」の説明をしているのではないだろうか。
松井さんにとって「夏みかん」は「おふくろ」から「速達」で送られてきた大切なものだ。そして、そんな「夏みかん」の中でも「いちばん大きいの」をタクシーに乗せていることから、松井さんのほがらかで優しく家族思いな性格を読み取ることができる。
いかがだったでしょうか。冒頭部だけで「解釈」を行うのはナンセンスかと思いますが、それでもこれだけのことを読み取ることができるわけです。ここで仮に「松井さんの気持ち」や「しんしの気持ち」だけを問うていたらどうなっていたでしょうか。
「夏みかんが送られてきて嬉しい」とか「お母さんに感謝している」とか、そんな意見がでてきて終わっていたのではないでしょうか。別にこれらの意見が間違っているわけではありませんよ。たしかに嬉しかったでしょうし、たしかに感謝もしているでしょう。
ただそんなものは、書いてあるものをそのまま読み上げたのとほとんど変わりがありません。書いてあることを読んで「分析」をしなければならないのです。登場人物の気持ちを問うときには、その先に何があるのかをよくよく考えてから問いかけたいものですね。
【今後の予定】
①10月7日(水)こきけんよう Vol.13
②10月17日(土)Coming soon ...
③10月26日(土)Coming soon ...
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①10月7日(水)こきけんよう Vol.13
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