おはようございます。YouTube の人気コンテンツに「ストリートピアノ」というジャンルがあります。「どなたでもご自由に演奏してください」と書かれて、まちに置かれているピアノをつかって、観客を集めるという動画です。都庁のピアノが有名ですね。
YouTuber が収録をしている場面はまだ見たことがないのですが、うちのまちにもストリートピアノが設置されています。通勤の際に必ず横を通りすぎるのですが、意外と演奏中に出くわすことが多いです。
昨日は「ルパン三世のテーマ」で、一昨日は「スパークル」でした。さすがはまちなかで堂々と弾いているだけあって、みんなそこそこ上手です。
YouTube の動画のように観客が集まることはないけれど、まちの心地よいBGMとしては充分に機能しています。筆者もまたこんど何か弾いてみようかな。
と言えば、まるでピアノが弾ける人のように見えるでしょう。インターネットの情報にはくれぐれも気をつけなければなりません。どうも、インクです。
揺れ動かなきゃ対話じゃない
揺れ動かなきゃ対話じゃない
— インク@青年求職家 (@firesign_ink) 2020年11月23日
誰のことばだったか、いちばん肝心な情報を忘れてしまったのですが、とある役者さんが「週に1回自分を殺せと教えられてきた」とおっしゃっていました。
自分で自分を殺して、殺したらまた生まれて。これをひたすらにくり返せということです。役者さんにはぴったりのことばだと言えるのではないでしょうか。
役が変わるたびに、ちがう人の人生に接続されるわけです。言ってしまえば、自分の中に他者が入ってくるのです。そこには間違いなく対話があります。
「本来の自分」と「自分が演じる人物」との対話です。その先に芝居が成立します。セルフ・スクラップ&ビルドとでも言いましょうか。「自分が演じる人物」に「本来の自分」が揺さぶられるのです。
この「揺さぶられる」という経験が非常に大切だと思っています。ときどき揺らしてやらなければ、沈殿物が底にたまり、凝り固まってしまうのです。
そうならないためにも、やはり「他者」の存在が必要不可欠です。ひとりで揺れ動くことはできません。
先ほどの役者さんの例も、現実的に見れば「ひとり」ですが、登場人物という「他者」の存在があるからこそ対話が成立し、揺れ動くことができています。
だから筆者も、小学校の先生として授業をするときには「いかに子どもたちを揺さぶるか」ということを第一に考えています。揺さぶられたときに、はじめて子どもたちは頭をつかって考えはじめるのです。
本当に最先端を走っているような人たちは、そのことをよくわかっているので、自ら揺さぶられにいきます。「受動的揺さぶられ」ではなく「能動的揺さぶられ」です。「自分が揺さぶられる」とわかっている場所に自ら身を置くようにしているのです。
そうなるまでには、ステップがふたつあります。ひとつ目は、そもそも「揺さぶられる」という経験に価値を見出せるかどうかです。「揺さぶられる」ということは「否定される」や「不安定になる」とニアリーイコールですからね。いま抱えているものを手放す覚悟がなければ、楽しむことすらできないのです。
そしてその上で、揺さぶってくれる「他者」と出会えているかどうかが大切になります。これがふたつ目のステップです。「ここに行けば揺さぶってくれる」という場所をもっているかどうかです。
このふたつの条件が整ったときに、はじめて「能動的揺さぶられ」が成立します。明確な「他者」がいないので紛らわしいかもしれませんが、個人的には「マラソン」とよく似ていると思っています。
自ら揺さぶられにいくわけですから、側から見ればおかしな人です。しんどいだけじゃないの? ドMなんじゃないの? と言われるわけです。しかし、走っている人たちは、そこに価値を見出しています。
ここに大きな差があります。「あえて向かい風が吹いている道を選べ」だなんてクサいことばをよく耳にしますが、要はこういうことなのだと思います。
他者との対話を通して、能動的に揺さぶられ、スクラップ&ビルドをくり返しながら、力をつけていくわけです。なんだか、どこかで聞いたことがあるような気がしますね。たしか、主体的・対話的で深い ...
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①12月2日(水)こきけんよう Vol.21
②12月4日(金)らぱいんざWORLD Vol.9
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