【水】誰を師と仰ぐかは本来なら自分で選ぶもの
おはようございます。普段あまり驚くようなことはないのですが、税金には毎年驚かされています。
小学生の課題に「税の作文」というものがありますが、そんなものわかるわけがないんですよね。しかもその作文を公務員である先生が読むという、なんだかよくわからない状況ができあがります。
税の徴収は、いかに「どうしようもないもの」と思わせるかが大切なのでしょう。文句を言っても仕方がない。みんな払っているから仕方がない。日本国民だから仕方がない。黙って支払うしか道がない。
あとはもうその使い道をどうするのかを議論するしかないわけですが、これもまた公務員という立場は難しいんですよね。そもそも公務員って何なのでしょうね。どうも、インクです。
誰を師と仰ぐかは本来なら自分で選ぶもの
誰を師と仰ぐかは本来なら自分で選ぶもの
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年6月14日
孔子の言動を弟子たちがまとめたとされる『論語』の中に次のようなことばが登場します。三人行えば、必ず我が師あり。
三人で何かを行えば、必ず参考にするべきよい見本とマネをしてはいけないわるい見本とをみつけることができる。このような意味のことばです。言わば、誰からでも学べるぞという意味ですね。
一般的に学校の先生は、よい見本にならなければならないとされています。しかも、子どもたち全員にとっての。
全員にとってのよい見本って何なのでしょうね。極端な言い方をすると、全員がその人を目指すということでしょうか。もしそうだとしたら、なかなかにおそろしい考え方ですよね。「自分のような人間になりなさい!」というわけですからね。
先ほどの「論語」のことばにもあったように、相手の言動を見て、どのような形で参考にするのかは学習者が決めることなのです。あの人みたいになりたいな。あの人みたいにはなりたくないな。あの人はすごいけれど自分にはマネできないな。あの人はいつもいい加減だけど、こういうときはとてもかっこいいな。
すべては学習者自身が判断することです。そんな学習者の権利を無視して「おなじようにしなさい!」と言ってしまうのは何だかなあと思います。
そう考えると、先生側にこそ多様性がなくてはなりません。学習者が自分で選べるだけのバリエーションです。僕はあの先生から学びたい。私はこの先生から学びたい。これらは学びへの意欲にも直結します。
しかし、システム上なかなかそういうわけにもいきません。クラスは子どもたちの見えないところで編成され、担任の先生は始業式の日に発表されます。一言でいうなら、子どもたちに先生を選ぶことはできないというわけです。
子どもと先生だって、人と人なわけですから合う合わないが絶対にあります。それでも子どもは、担任の先生を頼るしかないのです。もちろん隣のクラスの先生に相談をしたり、図工や音楽の先生に相談することもできますが、結局は担任の先生のもとへと集約されます。子どもたちもそのことをよく知っています。たくさんの大人に頼ることができるように見えて、結局は担任1択なのです。
気づいたでしょうか。この話はループしています。子どもたちが担任に頼るしかなくなれば、担任は「全員にとってのよい見本」にならなければなりません。担任が「全員にとってのよい見本」を目指せば、先生のバリエーションは減り、子どもたちの選択肢が失われていくのです。
何よりも、このような担任至上主義は職員室で色濃く表れます。そのクラスの子どもたちのことをいちばんよく知っているのは担任だ。だからそのクラスのことはすべて担任にまかせるべきだ。と、こういうわけです。むしろ、ほかのクラスの子どものことを知ったような口で語るのは失礼だという風潮さえあります。
たしかに、他のクラスの先生が自分のクラスのことをやいのやいの言ってきたら嫌だなあと思います。知ったような口で語られたらイラっとするでしょう。どうしてこのように思ってしまうのかというと、ベクトルが子どもではなく担任に向いているからです。
ほかのクラスのことになると、あの子はどうとかこの子はどうという話ではなく、担任がもっとこうするべきだああするべきだという話になりがちなのです。そりゃあ、自分自身のことを言われたら嫌な気もちにもなりますよ。自分は自分で一生懸命考えながらやっているわけですからね。それこそ、そのクラスのことをいちばんよく知っているのは自分なのです。外の人間からとやかく言われたら腹も立つでしょう。
逆に言えば、担任がなんの気兼ねもなく隣のクラスに入っていける学年は、いい学年だなと思います。なぜそのような関係が成立するのかと言うと「自分のクラスを見られたあとに自分自身が責められることはない」という安心感が前提にあるからです。
結局は担任どうしの関係性です。要は大人の都合でしかないのです。子どもたちからすれば知ったこっちゃありません。大人どうしが相手を認められないせいで、子どもたちの選択肢が失われているのです。
アドバイスという名のダメ出しが、クラスをより閉鎖的にしていきます。「チーム学校」だとか「学年として子どもを見ていこう」だとか、ことばの上ではいろいろと言っていますが、結局はこの担任至上主義を抜け出すことができていません。変なプライドを捨てて、お互いに認め合わなければならないのは先生たちの方なのではないでしょうか。
【お知らせ】
らいざさん(@rize_up_high)と らぱんさん(@lapinHSP)に、ゲストであるイスップさん(@bstogs)を加えて、みんなでおしゃべりをする会「らぱいんざWORLD」を開催します。現在、聞き手および、この4名への質問を募集しています。興味があってもなくてもぜひ遊びにきてください。あなたのご参加をこころよりお待ちしております。
日程:2020年6月26日(金)21時から
場所:ZOOM
◯ 聞き手募集 → 下のツイートにリプ or DM
(現在10名からお聞きしています)
【#らぱいんざWORLD】聞き手を募集します。6月26日(金)21時スタート。 pic.twitter.com/PoLpKXeExG
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年6月13日
◯ 質問募集 → 下のツイートにリプ
(現在5件いただいています)
【#らぱいんざWORLD】リプ欄にて3人+ゲスト(@bstogs1 )への質問を募集します pic.twitter.com/FskXOP1kRP
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年6月13日