おはようございます。鼻をすする音や咳ばらいの音って、どうしてあんなに固有性をもっているのでしょうか。それほど個人による違いがある音ではないはずなのに、絶対に誰が発している音なのかがわかりますよね。特に、きらいな人が発する音は一瞬でわかります。足音なんかも同じ類かもしれません。「あ、あの人が近くにいるな」ということがすぐにわかります。人間のもつ危機察知能力なのでしょうか。鼻をすする音や咳払いの音を専門に調べている方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。どうも、インクです。
自分が価値を見出したものと多くの人が価値を信じたものとではどちらが高い?
自分が価値を見出したものと多くの人が価値を信じたものとではどちらが高い?
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2019年12月18日
去年もやったから今年もやろう。変化を拒む学校現場ではよく耳にすることばです。例年通りにやっておけば間違いありませんからね。わざわざリスクをとってまで、新しいことに挑戦する必要がありません。まあ何よりも「忙しすぎて新しいことを始める余裕がない」というのが現状なんですけどね。
しかしそんな学校が、今すこしずつ変わろうとしています。俗に言う「働き方改革」と呼ばれる動きです。業務改善が叫ばれたことにより、行事が縮小されたり、成績表の形式が見直されたりしています。まだまだ「変わった」という実感がもてるような状況ではありませんが、変わりつつあることは事実だと思います。
そんな変化に拍車をかけたのが、今はやりの「目的思考」や「ロジカルシンキング」と呼ばれる考え方でした。これらが流行したことで「目的と手段が入れ替わっているうんぬんかんぬん」ということが、今さら言われるようになりました。感化された若手たちがよく口にしています。「あれは必要がない」だとか「あれはやめたほうがいい」だとか。
不要なものを削っていくことはたしかに大切なことですが、なんでもかんでも削ればいいかと言われるとそういうわけでもありません。あなたが価値がないと思っているだけで、実際はただ価値を見出せていないだけなのかもしれません。自分が見出せていないことをいいことに「いらない!」といって削りとる。それはあまりにも愚かです。「いらない!」と言う前に一度立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。
たとえば、授業のはじめとおわりのあいさつ。「こんなものは必要ない」と言って、あいさつをせずに授業を始める先生がときどきいます。「うちのクラスはあいさつなんてしないんだ」と、しないことを自慢げに話しています。まあたしかに、あいさつは授業のメインではありません。なくても授業そのものに支障はないでしょう。子どもたちの切り替えができるのなら、時間の無駄だとも言えるかもしれません。
ただ見方を変えると、「あいさつが無駄」なのではなく「無駄なあいさつしかできていなかった」だけなのではないでしょうか。うちのクラスでは、授業のはじめもおわりも毎回あいさつをします。号令のかけ方はいたってふつうです。
「起立、気をつけ、礼」「お願いします」
「起立、気をつけ、礼」「ありがとうございました」
ただし、先にあいさつをするのは先生です。先生が「お願いします」と言ったあとに、子どもたちが「お願いします」と言います。もちろん「ありがとうございました」も同じです。
「お願いします」はめちゃくちゃ大きな声で言います。言わば、授業に対する意気込みをここで表します。「先生はこのくらいの気合いで授業をするよ」というメッセージを伝えます。先生が大きな声をだせば、子どもたちも大きな声で返してくれます。きっとうちのクラスの「お願いします」は校舎中に響いていることでしょう。精神論はあまり好きではないのですが、不思議なもので、声を出せば「さあ、やるぞ」という気もちになるんですよね。
一方で「ありがとうございました」はめちゃくちゃ小さな声で言います。聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声です。先生が小さな声であいさつをすると、子どもたちも小さな声であいさつをしてくれます。そして、そのまま休み時間に入ります。するとおもしろいことに、休み時間のしゃべり声も小さいままです。なぜなら、入り口が小さい声ではじまっているからです。学校の先生ならよくおわかりいただけるかと思いますが、大きな声はただうるさいだけでなく、トラブルや怪我にも繋がっていきます。声も動きも小さな方が穏やかにすごすことができるのです。
このあいさつにとても価値を感じています。だから、授業のはじめとおわりには必ずあいさつをします。はたして「あいさつなんていらない」と言ってやめてしまった先生は、このような価値を見出していたのでしょうか。もちろんその上で「やめる」という選択肢をとることは大いにありだと思います。やめたことで生まれる空き時間でそれ以上の価値を生み出せばいいわけですからね。ただほどんどの人は、何も考えずに「いらない」と思い込んで、なんとなくやめてしまっているのではないでしょうか。ロジカルだと思い込んでいる「いらない」の裏には、価値が潜んでいるかもしれませんよ。
自分が価値を見出して実行したものなら、考えてきた過程がある分、成功や失敗に敏感になることができます。一方で「やめる」という選択は、思い入れがない分、塾考することがありません。「いらないからやめる」と言ってそれきりです。さらにタチの悪いことに、そういう人ほどまわりの人の声に耳を貸そうとしません。「お前ら、まだそんな無駄なことやってんの」とマウントをとったつもりになっているからです。
何度も言いますが、無駄を省くことはとても大切です。無駄なものに時間を費やしてはいけません。ただし、無駄なものを省く前には「そもそもそれが本当に無駄なのか」を考えなければなりません。それが本当に無駄なのか。簡単なように見えて、実はとんでもなく奥が深い問いだと思っています。