ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】テストで100点を目指すことにどこまでの価値があるのだろう

 

 おはようございません!の反対!と毎朝のように言ってくる男の子がいます。小学生の鑑ですね。世の男子たちは、何時何分何秒の地球が何周回ったときに、こういうことを言わなくなるものなのでしょうか。これからもすくすくと育ってほしいと思います。どうも、インクではありません。の反対!

 

テストで100点を目指すことにどこまでの価値があるのだろう

  100点のテストが返ってくると嬉しいですよね。どうして嬉しいのでしょう。「え、そんなの当たり前じゃん...」と思ったあなた、今日はあなたのための記事です。ぜひ最後まで読んでってください。

 かくいう筆者も、かつては「100点をとると嬉しい」に対して、なんの疑問も抱いていませんでした。実際に自分が100点をとれたら嬉しかったですしね。しかし、学校の先生になって、テストを受ける側からテストを受けさせる側へと変わり、あれ?と思うようになりました。

 

どうして自分は子どもたちに100点をとらせようとしているんだろう?

 

 こんなことを考えるようになったのです。先生の「100点をとらせたい」という思いは「誰もが100点に価値を感じている」ということを前提とした考えです。仮に100点をとることに価値を感じていない子どもがいたとしたら、ただの押し付けでしかありません。

 そんな子どもいるの?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、います。先生をされている方なら特定の子どもの顔が思い浮かんでいるのではないでしょうか。平気で空欄のまま解答用紙を提出します。大人からすれば「分からなくても何かしら書けば当たるかもしれないのに」と思うかもしれませんが、これも結局は「100点に価値を感じている」ということを前提とした考えです。彼らは「100点なんてとれなくたって別にいい」と思っています。

 そんな子どもたちに「100点をとりたい」と思わせたければ、やり方はいろいろとあるのでしょう。点数が上がるたびにめちゃくちゃ褒め続ければ、もしかすると100点を目指すようになるかもしれません。「100点をとったらゲームを買ってあげよう」だなんて、人参をぶらさげる方法もあるでしょう。

 しかし、これらのやり方でモチベーションを高める子どもたちは、「100点をとること」に価値を感じているのではなく、「褒められること」や「ゲーム」に価値を感じているに過ぎません。少しずつ、今日の記事の主旨が分かってきていただけたでしょうか。それでは、改めて。

 

100点のテストが返ってくると嬉しいですよね。どうして嬉しいのでしょう。

 

 この問いについて考えなければならないのは、子どもではなく大人です。100点をとることの価値ってなんでしょう。100点がとれた子どもたちをどうして褒めるのでしょう。人参をぶらさげてまでどうして100点をとらせたいのでしょう。100点の価値は万人に当てはまるものなのでしょうか。

 たしかに、100点という結果は、これまでの努力の積み重ねなのかもしれません。その「努力」を褒めているのだと考えれば、つじつまは合うような気がします。人参をぶらさげるのも「努力」をさせるため、とこういうことになりますね。

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 それでは、もう一段階深いところへ進みましょう。どうして努力して勉強させる必要があるのでしょうか。もうここまできたら「そんなの当たり前じゃないか」で済ませられないことはお分かりですよね。「当たり前」ほど考えなければなりません。どうして勉強するのでしょう。この「努力して勉強することに価値がある」という発想は「学力は高ければ高いほどいい」ということを前提とした考えです。

 

本当に学力は高ければ高いほどいいの?

 

 学校の先生がこんなことを言ってもいいのか分かりませんが、本当に学力は高ければ高いほどいいのでしょうか。学力が高ければ人は幸せになれるのでしょうか。東大生は人として優れていることになるのでしょうか。

 たとえば世の中には「バカでいる方が幸せ説」というものが存在します。要するに「知らない方が幸せなこともたくさんある」ということです。「幸せ」を第一に考えるのだとしたら、もしかすると学力は高過ぎない方がいいのかもしれません。

 今更ですが、別にこの記事を通して「100点をとること」や「学力を高めること」を否定しようとしているわけではありません。当たり前だと思っているその「価値」を改めて考えてみたかっただけです。

 結局、当たり前だと思われている「価値」は、「多くの人が価値があると信じ込んでいるもの」に過ぎないのかもしれません。本当の意味でそれ自体の「価値」を見出し、本当の意味での動機に従って、判断している人なんてもしかしたらいないのかもしれません。まわりの人が「100点には価値がある」と言うからきっと価値があるのだろう。まわりの人が「学力は高い方がいい」と言うからきっと高い方がいいのだろう。自分で決めているつもりになっているだけで、結局自分の判断基準なんて、相対的に、必然的に、作り出されたものに過ぎないのかもしれません。

taishiowawa.hatenablog.com

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 なんだか難しい話になってしまいましたね。こんなことを考えるきっかけになったのは、子どもが書いたひとつの作文でした。その作文にはこんなことが書かれていました。

私は絵を描くことが大好きです。こうして作文を書いている今も「絵を描きたい」と思っています。

 正直な思いが表れていて、文章としてとてもおもしろかったです。ただ、それと同時に「原稿用紙を裏返して今すぐ絵を描きなさい」とも思いました。きっとこの子にとって今必要なのは、作文を書くことでも、勉強することでもなく、絵を描くことです。せっかく「本当の動機」がそこにあるのなら、思う存分絵を描けばいい。他のものに割く時間がもったいない。そんなふうに思ったのです。

 きっとこの子にとって「絵を描くこと」は「100点をとること」よりも価値があります。そんな子に「いやいや、絵よりも勉強の方が大事だよ」とテストを配ることが、果たして正しいことなのでしょうか。すっきりとした答えを望んでいた方は申し訳有りません。今日の記事の問いかけは、問いかけのまま終わります。

 

100点を目指すことにどこまでの価値があるのでしょうか?