ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

この時代に「宗教」は答えな気がする

 

 先日、映画館で『天気の子』を観てきました。作中にサリンジャーの『キャッチャーインザライ』が登場するのですが、村上春樹訳の方が使われていて時代を感じました。初めての出会いが、野崎孝一訳の『ライ麦畑でつかまえて』だっただけに、やっぱりあの青と白の表紙がこの作品にはしっくりきます。

 

先生って何をする仕事なのだろう

  教職の多忙化がニュース等でも取り上げられるようになってきたみたいですね。兵庫県の神戸市では、ICカードを使って出退勤の時間を管理するシステムを導入したそうですが、全体の15%にも及ぶ教員が「過労死ライン」を超える残業を行なっていたそうです。

 世間における教員の仕事のイメージはやはり「授業」だと思います。しかし、前にもどこかの記事で書きましたが、「授業」の優先順位は一番最後です。それ以外にやらなくてはならないことが山のようにあるのです。

 一般企業との一番の大きな違いは、部署による分業が存在しないところにあります。企画も総務も経理も事務も、すべて自分たちでやらなければなりません。若槻千夏のTVでの発言で注目が集まっていましたが、そこに勤務時間外の生徒指導が入ろうものならまあ大変です。

 義理と人情で仕事の境目を見失い、「何でも屋」になってしまったのが教員の現状です。時には警備員になり、時には警察官にならなければいけなくなってしまっています。その結果、本来の仕事であるはずの「授業」が後回しになっているのです。先生って何をする仕事なのだろう。

 

 

志があること、物語をつくるのが上手なこと、思い切りがいいこと

先生「学校って知ってる?」 

児童「知ってる!」 

先生「学校って何?」

児童「ここのこと!」 

先生「この建物のこと?」 

児童「そう!」

先生「じゃあ、人が誰ひとりいなくて、机も椅子もロッカーも何もない、建物がどんと建っている。これは学校?」

児童「その中で、先生が子どもに勉強を教えていたら学校!」

先生「大きな建物の中で、ひとりの先生がひとりの子どもに勉強を教えていたら、それは学校?」

児童「子どもがたくさんいたら学校になる!」

先生「何人いたら学校になるの?」

児童「・・・」

 ここまで読んでいただけたら分かるとおり、この世に「学校」なんていうものは存在しません。「学校」という物語を、誰もが信じているから、まるで存在しているように感じているだけなのです。「お金」も同じです。あんなものただの紙切れでしかありません。しかし、「お金」という物語を誰もが信じているからこそ、そんな紙切れに価値が生じているのです。そう考えると世の中に存在する多くの物事が「物語」によって成立していることが分かると思います。

 ここで考えなければならないことは、それらの「物語」はすべて誰かがつくったものであるということです。誰かがつくりだし、世に広めたからこそ、今こうして当たり前のように存在しているのです。

 さらに言えば、それらの「物語」は誰にでもつくれます。いわゆる成功者と呼ばれる人たちはこの「物語」をつくるのがとても上手です。「少年よ、大志を抱け」ということばがありますが、志だけではどうにもなりません。いかに魅力的な「物語」を作り上げ、まわりの人間を取り込んでいくかが重要になるのです。

 

 

この時代に「宗教」は答えな気がする

  ここまで読んでいただいた方なら、「宗教」が壮大な「物語」であることにはお気づきかと思います。キリストやブッダはとんでもないカリスマ性をもった「物語」のつくり手だったのです。

 しかし、日本人は「宗教」ということばを嫌います。どうしても「怪しさ」や「胡散臭さ」を感じてしまうのでしょう。本質的には、上記のとおり「学校」や「お金」と何ら変わりはないんですけどね...。

 だからこそ、日本で「物語」をつくるためには、おそらく「宗教」ということばをつかわない方が賢明です。いかに「宗教」ということばをつかわずに宗教化するか。そこが勝負どころです。

 既存のものだと「ファンクラブ」や「オンラインサロン」と呼ばれるものが、これに近しい役割をもっているのかなと思います。しかし、その両方が未だに日本人にはしっくりときていない感じがします。ホリエモンは「大学」、落合陽一は「塾」ということばをつかってオンラインサロンを運営していますが、「大学」ということばも「塾」ということばも既存のイメージが強すぎて本来の「物語」がもつ特性を誤解させてしまっているところがあると思います。

 「宗教」でも「ファンクラブ」でも「オンラインサロン」でも「大学」でも「塾」でもない、どんぴしゃにはまる「物語」の題名をみつけることができたら、もしかすると大きな旋風を巻き起こすことができるかもしれませんね。

 

 

 世の中の人々は二種類に分けられます。「物語をつくる人」と「誰かがつくった物語の中で生きる人」です。「物語をつくる人」も所詮は「誰かがつくった物語の中で生きる人」なのではないか...と考え始めると、もうそれは鶏が先か卵が先かという話になってくるので、そこを追求するのはやめましょう。

 はじめに必要なことは、自分が「誰かがつくった物語の中で生きる人」だということを自覚することです。その上で、このまま「誰かがつくった物語の中で生きる人」として生きていくのか、「物語をつくる人」になるのかは自由選択です。

 ほとんどの人は、「誰かがつくった物語の中で生きている」ということにさえ気づいていません。それを当たり前だと思い込み、疑おうとしないからです。これは言い換えるとチャンスでもあるのです。魅力的な「物語」のつくり手が増えるときっとこの世界はもっとおもしろくなると思っています。