ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】宗教が「悪いもの」という文脈でつかわれるのはなんだかなあ

  

 おはようございます。インターネットで出会った人とは「はじめまして」が3回あります。1回目は文面で。2回目は音声で。3回目は対面で。おなじ「はじめまして」でも、それぞれにちがう「はじめまして」があるというわけです。

 もちろん人によっては1回限りということもあるでしょう。2回目を飛ばして3回目に進むということもあるでしょう。はたまた1回目の「はじめまして」もないままにすれ違うということもあるでしょう。すべては巡り合わせです。

 このような状況なのでまったく動けていないのですが、2020年の抱負は「人に会う」でした。本当は5月の時点で128人と会っている予定でした。このままでは目標としている「年内に129人と会う」には到底とどきそうにもありません。

 自由に移動することができるようになったら各地を飛び回ろうと思いますので、ぜひ一緒にお酒でも飲みましょう。お酒が飲めない人はコーヒーを飲みましょう。コーヒーも飲めないという人はもう知りません。会うまでに飲めるようになっておいてください。どうも、インクです。

 

 宗教が「悪いもの」という文脈でつかわれるのはなんだかなあ

 「宗教みたいであやしい」 とか「宗教みたいでこわい」とか、宗教が「悪いもの」という文脈でつかわれることが多いような気がします。ツイッターでもよく見かけますよね。多くの人から支持を集めるアカウントのことを、すぐに「宗教みたいだ」と揶揄します。きっと日本人ならではの言い回しなのでしょう。

 はじめに言っておきますが、筆者自身が特定の宗教を信仰しているわけではありません。宗教にくわしいわけでもありません。だから、今日の記事はすべてただの妄言です。すみません。嘘をつきました。今日の記事だけではありません。すべての記事が妄言です。

 本当に宗教のことが知りたいのなら、ほかをあたった方がいいでしょう。まあ、宗教のことが知りたくてこのページを開いた人なんてひとりもいないと思いますけどね。とりあえず、今日の記事はなんのエビデンスにも基づいていないということを前提に読んでいただけると幸いです。

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 突然ですが、わたしたち人間は「物語」を共有しながら社会生活を送っています。わかりやすいのが「お金」でしょう。最近よく耳にしますよね。ただの紙切れである「お金」の価値を、みんなが信じているからこそ成立しているというあの話です。言い換えるなら「お金」という「物語」を全員で共有しているというわけです。

 「りんご」だってひとつの「物語」です。「りんご」なんていうものはこの世に存在していません。人間が勝手に赤くて丸くて甘い果実を「りんご」と名付け全員で共有しているからこそ、この世に「りんご」が存在しているのです。はじめからあの果実に「りんご」という名前がついていたわけではありません。

 この「りんご」の例をもうすこし広い視野で捉えるならば、「言語」もひとつの「物語」だということになります。書き言葉なんてただの文字の羅列ですし、話し言葉なんてただの空気の振動でしかありません。そこに人間が勝手に意味を与えて、その意味を全員で共有しているからこそ、「言語」という「物語」が成立しているのです。

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 このように考えていくと「宗教」だっておなじひとつの「物語」だということに気がつきます。ひとつの「物語」をみんなで共有するからこそ成立しているのです。「お金」や「りんご」や「言語」となんら変わりはありません。

 それにも関わらず「宗教」という「物語」だけはこんなにも毛嫌いされてしまうのです。考えられる原因はふたつです。ひとつは、一部の宗教団体が大きな事件を起こしたということ。もうひとつは、宗教は政治に大きな影響を及ぼすということです。

 はじめに、一部の宗教団体が大きな事件を起こしたということは事実です。みなさんの記憶にも色濃く残っていることでしょう。しかしここで気をつけなければならないのが、あくまでも「一部の宗教団体」だというところです。「宗教」とひとくくりにしていますが、その中には無数の「物語」が存在します。

 そんな無数の「物語」の中からほんの一部の例だけを見て「宗教はこわい」と言ってしまうのは、「とうがらしを食べたら辛かったからショートケーキも辛いはずだ」と言っているようなものです。とうがらしとショートケーキはおなじ「食べ物」というジャンルに含まれますが、もはやまったくの別物なのです。

 次に、宗教が政治に大きな影響を及ぼすというのもこれまた事実だと言えるでしょう。歴代の日本政府だって、儒教に仏教にキリスト教と、さまざまな宗教と密接に関わりながらここまで歩みを進めてきました。

 そんな日本で、今は「宗教」が毛嫌いされています。形の上では「無宗教」という形をとっています。「宗教はあやしい」「宗教はこわい」という「物語」をみんなで共有しているというわけです。言ってしまえば「無宗教」という「宗教」ですね。きっと国民が「無宗教」という「物語」を共有していた方が、だれかにとって都合がいいのでしょう。

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 ポイントは「それらの物語をつくっている人がいる」ということです。当たり前のように共有している「物語」には、だれかの意図が組み込まれているのです。そんなこともつゆ知らず、いちど「当たり前」の段階にまで「物語」が浸透してしまうと、人々はそれを疑うことをやめてしまいます。いちど「宗教があやしいのは当たり前」だと思ってしまうと「本当に宗教はあやしいものなのかな?」と考えなくなってしまうのです。

 これはもちろん「宗教」以外の「物語」にも当てはまることです。本当にそれは当たり前なのでしょうか。本当にそれは信じるに値する「物語」なのでしょうか。知らないうちにその「物語」を信仰してしまっていることこそが、いちばんおそろしいのではないでしょうか。

taishiowawa.hatenablog.com

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【お知らせ】

 第2回「らの時代」いよいよ当日になりました。この企画だってひとつの「物語」です。6人でひとつの「物語」をつくります。そんな「物語」はその場にいる人の中だけで共有されて、それぞれの生活へと還元されていきます。そんな場に立ち会うチャンスは今しかありません。聞き手としての参加希望は直前まで受け付けておりますので、すこしでも興味がある方はぜひ遊びに来てください。連絡はツイッターのDMまでよろしくお願いします。

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