ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

小さいことを大げさに褒めるのは罪だよ

 

 「涼風の曲がりくねつてきたりけり」の句が思い出される爽やかな季節の折、そちら様に於かれましては相変わらずご清廉の御様子、心より御慶び申し上げます。どうも、インクです。

 

シンプルやミニマルは行き着く先であって目指すものではないと思うんだ

 「シンプル」や「ミニマル」ということばを、少し前からよく耳にするようになりました。「異性の好きな服装は?」という質問に対するお決まりの答えは「シンプル」です。雑誌等で「ミニマリスト」と呼ばれる人たちが変に取り上げられている様子もよく見かけます。

 ツイートにもある通り、シンプルやミニマルという概念は「行き着く先」であって「目指すもの」ではないと思っています。なんの過程も経ていない「シンプルな服装」はただの「地味」です。なんの過程も経ていない「ミニマリスト」はただの「憧れ」であり、大抵無理をしています。

 昨日の記事の内容とかぶりますが、膨大な量の情報を取捨選択するという過程にこそ価値があります。その結果が「シンプル」であり「ミニマル」なのです。だからこそ、そのような過程をしっかりと経た人たちの「シンプル」や「ミニマル」は、一見同じように見えてまったく違います。取捨選択の中で自己理解が洗練されているので、その人にしか出せない「シンプル」や「ミニマル」がそこにはあります。

 アップル製品の洗練されたデザインは、スティーブジョブズだからこそつくることができました。「シンプル・ミニマル」=「簡単」ではないのです。むしろ、そこに到るまでの過程にあった分岐点の数を想像すればわかる通り、「シンプル」や「ミニマル」の方がとてつもなく「難しい」選択なのです。

 時々いますよね。無地の白Tなのになぜかとてもかっこいい人。まさにあれです。誰でも白Tを着ればかっこよくなれるわけではありません。繰り返しになりますが、「シンプル」や「ミニマル」は目指すものではありません。「自分」を徹底的に研究し尽くしたときに「行き着く先」のひとつなのです。

 

 

小さいことを大げさに褒めるのは罪だよ 

  菊池省三先生の「ほめ言葉のシャワー」を中心として、一時期教育業界では「ほめる指導」がトレンドになりました。それまでは「叱る指導」が中心であったからこそ、「ほめる指導」は斬新だったのでしょう。「ほめることも確かに大切だけど、叱ることも必要です。みなさんは『叱る』と『怒る』のちがいが分かっていますか?」とえらそうな顔で語るおじさんがたくさん出没しました。

 そんな「ほめる指導」ですが、基本的には「自己肯定感を育む」ことを目的としています。日本人は外国人と比べても自己肯定感が低いとよく言われています。「ほめること」「承認すること」を通して、子どもたちに自信をつけさせようというわけです。

 個人的にこの指導方法はあまり好きにはなれません。「ほめる」という行為を多発することで、子どもたちが「本当にいいこと」を判断できなくなる恐れがあるからです。少しいいことをすれば褒められます。さらに言えば、別にいいことをしていなくても褒められます。そして、「本当にいいこと」をしたときにも同じように褒められるのです。「結局何をしたって褒められるんじゃねえか」というわけです。「褒める」という行為は、多発することで、反比例して効果が薄まっていくのです。

 子どものころこんなことを思ったことはありませんか?「あ、今先生が褒めてくれている」と。もちろん「自己肯定感」なんていうことばを子どもは知りませんが、大人の意図を子どもは鋭く読み取るものです。それも大人が思っている以上に。必要以上に大げさな「褒める」という行為はむしろ逆効果になりかねます。

 そもそも褒められることって嬉しいですか?「褒められる=嬉しい」が当たり前として話が進むことが多いですが、それはあまりにも安直な気がします。たとえば、何も分かっていないくせに褒めてくる大人、嫌じゃなかったですか?「すごい!」と大げさなリアクションをとる大人、見ているこっちが恥ずかしくなかったですか?本当に「褒める」→「嬉しい」→「自己肯定感が上がる」という構図が成り立つのでしょうか。

 つまらない大人に何度も褒められるよりも、 自分が信頼している普段はほとんど褒めることがない大人に、たった1回褒められた方が嬉しくはありませんか?

 

 

ひとりでいることに引け目を感じなくてもいいってだけで大人になる価値はある

  学校のもつ独特の思想の根底にあるものは、まどみちおが作詞した「1年生になったら」という曲に表れていると思っています。この曲こそまさに洗脳です。1年生になったら、友だち100人できるかな。入学してはじめて、みんなで口をそろえてこの曲を歌うことによって「友だちが100人できること」が正義になります。

 「そんな大袈裟な」と思っている人もいるかもしれませんが、これが案外本当です。先生は教室にひとりぼっちでいる子どもを心配します。親はクラスに友だちがいるのかを心配します。友だちがいないということは心配するべきことなのです。

 たしかに友だちの存在は大切です。自分の人生において大きな助けになります。困った時には助け合える大切な仲間です。そこを否定するつもりはありません。しかし、だからといって「ひとりでいること」が悪いことなのなのでしょうか。

 そう聞かれると、ほとんどの大人は「いや、そんなことはないけど」と答えると思います。「そんなことはないけど」そんな状況を作り出しているのはあなたたちです。判断力もままならない子どもたちの前で、大人が「たくさん友だちをつくって、みんなで仲良くしましょうね」だなんて言うから、必然的に「ひとりでいることは悪いことだ」という空気感が生まれてくるのです。

 自分の肌感覚では、高校までこのような空気感はありました。むしろ中学・高校と進むにつれて強くなっていたかもしれません。ひとりで休み時間に本を読んでいる人は「さみしい人」で、ひとりで弁当を食べている人は「かわいそうな人」なのです。

 大人の世界を見てください。みんな仲良しですか。悪口も陰口もまったくありませんか。自分たちができてもいないことを、それらしい正義感で子どもたちに押し付けるのはやめてください。かわいそうです。

 たしかに生きていく上で誰かと協力することは大切です。しかし、仲良くすることと協力することは違います。むしろ、仲良くない人とでも協力する術を学ぶ場所が学校です。だれとでも仲良くなんてできなくたっていいのです。大人がそれを自覚しているだけで、すこしでも救われる子どもがいるはずです。

 

 

 冒頭で紹介した「涼風の曲がりくねつてきたりけり」は小林一茶の俳句です。詳しいわけではありませんが、小林一茶の俳句はユーモアに富んだものが多くて割と好みです。最後にいくつか一茶の句を紹介して終わろうと思います。ぜひお気に入りをみつけてみてください。

蝸牛 そろそろ登れ 富士の山

 「そろそろ」はダブルミーニングでしょうか。

秋風や あれも昔の 美少年

 毎年新しい秋風が吹くのに、自分は齢をとってゆく...。

うまさうな 雪がふうはり ふわりかな

 7音は「は」なのに、5音は「わ」なんです。

名月をとってくれろと泣く子かな

 これはもうパパに頼むしかないですね。