コーヒーにはミルクのみ。砂糖はいりません。生クリームよりもカスタードクリームの方が好きです。魚の中では鮎が一番です。刺身なら案外魚よりも貝類の方が好きだったりします。鳥刺しも好きです。馬刺しも。憶えておいてください。どうも、インクです。
本の巻末の「読まないページ」は「思ってたより手前で終わった」という喜びを生む
本の巻末の「読まないページ」は「思ってたより手前で終わった」という喜びを生む
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) August 19, 2019
最近、まんがは電子書籍で読むようになったのですが、どうしても活字の本は紙媒体じゃないと読めません。電子書籍だと、のこりのページがどのくらいなのかが肌感覚で理解できなくて、内容がどうであれ途中で嫌になってしまいます。
まれに読み終わってしまうことを寂しく思うような作品もありますが、やっぱり本は最後まで読んでなんぼだと思います。そんなときに、巻末の「読まなくてもいいページ」の存在って嬉しくないですか?
謝辞を含むあとがきや、参考文献、協賛や出版情報などが書かれているあのページです。まだあと10ページくらい残っているなと思いながら読んでいたのに、5ページくらいでふと終わるあの感じです。予想してなかったからこその喜びです。
時々出来心で「終わりはどのへんかな」とページをめくって確認してしまうことがあるのですが、いつもやめておけばよかったと後悔します。知らないから嬉しいのであって知ってしまうと意味がないのです。
お金を払ってまで本を買って読んでいるのに、気持ちとしては「はやく終わってほしい」と思っている。読書ってなんだか不思議な行為ですね。
本棚を晒すのに「自慢」以外の理由はない
本棚を晒すのに「自慢」以外の理由はない
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) August 4, 2019
読書という行為そのものにはなんの価値もありません。本を1冊読んだからといって何かが変わるわけではありません。ただ、時間が過ぎ去っただけです。
「はいはい、アウトプットが大事なんでしょ」と、その本のポイントをまとめたり、小綺麗にノートに整理したりしている人を見かけますが、それらの「要約」という行為にもほとんど価値はないと思っています。
本当にいい本には無駄なことなんて書かれていません。必要がない情報は、読み手の私たちよりもはるかに頭のいい書き手が、推敲の段階で削り取ってくれています。つまり、本当にいい本の要約は、全文転写になります。
そのように考えていくと、読書の価値は一体なんなのかという問題が浮かび上がってきます。はじめに書いたように「行為」そのものには価値はありません。では、どこに価値があるのでしょうか。
先ほどはあえて「本当にいい本」と表現しました。みなさんは「本当にいい本」に出会ったことがありますか?残念ながら世の中に存在するほとんどの本は「よくない本」です。「読書」とは、それらの「いい本」と「よくない本」を見分けられるようになるための訓練です。読書になぞらえて「本」を例に書きましたが、日常生活のあらゆるものごとに当てはまります。ふたつ前の記事でも書きましたね。
知識を増やすということは、自分の判断基準をより研ぎ澄ませるということです。おもしろいものを見逃すことなくおもしろいと判断し、逆におもしろくないものはおもしろくないと判断することができるようになる。これが勉強だと思います。
「読書」は、自分の判断基準を研ぎ澄ませるための 「材料」にすぎません。いいですか、「材料」です。「完成品」ではありません。書き手にとっても同じです。本物の書き手は「完成品」として本を出しません。読み手への「提案」として本を出すのです。私たち読者はその「提案」を受けて、自分の判断基準を研ぎ澄ませていく必要があるのではないでしょうか。
プロフィールが短いアカウントは信頼できる
プロフィールが短いアカウントは信頼できる
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) August 10, 2019
ツイッターの「140字」という字数制限については、あらゆるところで議論されていますが、個人的にはとてもいい制度だなと思っています。
文字数が制限されるということは、必然的にことばの取捨選択を行うことになります。このことばは必要ないな。いや、これを削ってしまうとニュアンスが変わってしまうぞ。無意識のうちにそんなことを考えているはずです。
制限の中でことばを選択する文化は、これまでにもありました。「電報」や「詩歌」がまさにそれです。しかし、この二つには大きな違いがあります。「電報」は単純にテクノロジーの問題でした。制限された文字数しか送信できなかったから、仕方なく短くしたのです。一方「詩歌」は、自ら制限をかけています。決して五・七・五である必要性はどこにもないのです。
つまり、「電報」には必然性があり、「詩歌」にはありません。「詩歌」の字数制限は、スポーツにおけるルールに似ているなと思います。そうであった方がおもしろいから制限が加えられたというわけです。「伝えたい」という思いの種類が両者ではまったく違うのです。
有名なものですが、実際の「電報」をひとつだけ紹介したいと思います。それは、1956年に日本から初めて派遣された南極観測隊のひとりに、奥さんから送られてきた電報でした。
アナタ
たった3文字です。ハイコンテクストの極みですね。上の状況を踏まえると、このたった3文字の中にとてつもない情報量が含まれていることがわかると思います。「寂しさ」や「不安」や「抑えきれない愛情」、きっとそれらの思いを伝えられることばはこの3文字以外にはありません。長く書けばその分伝わるというわけではないのです。
もちろんツイッターのひとつの大きな特徴は「気軽さ」です。簡単につぶやくことができます。ただ、その「気軽さ」に甘んじて、文字を無駄遣いしていませんか。長さと伝わりやすさが比例していると思っていませんか。
情報量が増えるということは、重要度が拡散されて希薄になるということです。どれだけ素晴らしい経歴も、羅列されたらそのすごさが薄れてしまいます。自分が本当に伝えたいことはなんだろう。愛する人にたった3文字しか送れないとしたら、どのことばを選ぶだろう。ことばを削るということはとても素敵なことだと思っています。
コーヒーには( )のみ。( )はいりません。( )クリームよりも( )クリームの方が好きです。魚の中では( )が一番です。刺身なら案外魚よりも( )の方が好きだったりします。( )も好きです。( )も。憶えておいてください。どうも、インクでした。