ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

この人の考えにもっと触れたいと思われる人になろうぜ

 

 ブログの更新をツイートする度に、タグづけしている「#読みたいことを書けばいい」は、ある書籍のタイトルです。正確には『読みたいことを書けばいい』ですね。その著者である青年失業家こと田中泰延さんが、昨日、TBSの「林先生の初耳学」というテレビ番組に出演されました。もともとこの本はベストセラーだったのですが、出演によりAmazonやhontoをはじめとする和書の売り上げランキングで1位を総ナメにしているそうです。

 このような話を聞くと、やはりテレビのもつ影響力はまだまだ衰えていないんだなと思います。日常会話の中では当たり前のように「テレビで観た」が情報ソースとして成立しています。テレビで放送されていることは正しいことだとみんな信じています。決して嘘ばかりが放送されているとは言いませんが、どのようなコンテンツにも少なからず発信者の意図が含まれていることを知っておかなければなりません。

 今日のこの記事に含まれている書き手の意図もぜひ読み取ってね。どうも、インクです。

 

主観の入り交じっていない公平な意見など存在しない

 せっかくなので前書きに続けて、もう少しだけテレビの話をしたいと思います。BSやCS、ケーブルテレビなどを含めるとテレビには膨大な数のチャンネルが存在します。それぞれの番組にはそれぞれの作り手の主観が込められています。

 そんな中でも限りなく主観を隠そうとしているのが「ニュース番組」です。ニュース番組の作り手は必ずこう言います。「私たちは主観を排除した公平な立場から視聴者の皆様に正確な情報をお届けします」と。

 単刀直入に言うと、そんなことは不可能です。無理です。できっこありません。なぜなら人が作っているからです。たとえ中身が正確であれ、報道の取捨選択が行われている時点で、主観を排除することなんてできません。

 決して取捨選択することが悪いと言っているわけではありません。番組の時間は限られていますし、小さな出来事まで全部とり上げているとキリがありません。一番厄介なのは、「主観は含まれていません」という立場をとっていることです。そんな立場をとるから、「あのニュースはなぜ報道しないんだ!」「局の意図が感じられて怪しい!」「国の陰謀だ!」なんて意見が飛び交うことになるのです。

 公平な立場をとらなければならない理由が分からないわけでもないですが、もういっそのこと主観が含まれていることを認めてしまった方が楽なのではないかと思います。だって、テレビ局は意志をもったひとつの営利団体です(総務省によって周波数を割り当てられる免許事業であるというややこしい側面もありますが...)。都合の悪いニュースを報道しないのも、意図が含まれていることも、陰謀であることも、すべて事実ではないですか。むしろそれが当然の姿だと思います。

 変な意地を張らずに、主観を前面に押し出した局が、それぞれの意見を主張しながら乱立している方がよっぽど健全なのではないでしょうか。

 

 

その何かしらは本当に信頼できるソースか?

  人の思考は必ず何かしらに影響を受けています。親の影響かもしれませんし、学校の先生の影響かもしれません。はたまた、テレビかもしれないし、インターネットかもしれません。

 あなたが当たり前だと信じて疑わないその思考も、きっと何かしらの影響を受けてつくられたものです。果たしてその何かしらは本当に信頼できるソースですか?親のことばならすべて間違いありませんか?先生に言われたことなら従いますか?テレビで言われていたことやインターネットに書かれていることは本当に正しいですか?

 「当たり前を疑え」と言ってしまうとなんだか薄っぺらくなってしまいますが、自分の思考が一体何に影響されているのかを考えることはとても大切だと思います。さらに言えば、そこを自覚することができれば、影響を受けたいものを自分で選べるようになります。選べるだけのコンテンツは十分すぎるほどそろっている時代です。

 知らず知らずのうちに自分の「当たり前」をつくりあげるのではなく、自分が本当に信頼できるものをみつけ、自分で選んだ道に進めるようになれたらいいものだなと思います。 

 

 

この人の考えにもっと触れたいと思われる人になろうぜ

 近頃よく耳にするようになりましたが、コンテンツには「情報中心型」「発信者中心型」 の二種類があります。

 「情報中心型」とは、発信者が発信する中身に重きをおくコンテンツです。たとえば、新聞です。新聞は、その中身に書かれていることに価値があります。読者にとって、その記事を誰が書いているのかは関係ありません。

 一方、「発信者中心型」のコンテンツは、誰が情報を発信しているのかに重きがおかれます。たとえば音楽です。カバー曲がヒットすることも稀にありますが、大抵の場合においては、そのアーティストが歌っているからこそ、その曲に価値が見いだされます。

 「情報中心型」のコンテンツは、どちらかと言うとバズりやすいかもしれませんが、その中身の質によって人の集まり方にも大きなムラが生まれます。提供される情報がつまらなかったり興味の対象外だったりすると、人はすぐに離れていきます。バズりやすい分オワコンにもなりやすいということです。

 一方、「発信者中心型」のコンテンツは、人として興味をもってもらう必要があるので、ひとつやふたつのコンテンツを提供するだけでは浸透しないかもしれません。しかし、一度ファンをつけてしまえば、中身の質に大きく左右されることはありません。つまり、「情報中心型」と比べて、バズりづらい分、オワコンにもなりづらいということです。

 もうお分かりかとは思いますが、これからの時代に合っていると言われているのは「発信者中心型」のコンテンツです。オンラインサロンやクラウドファンディングはまさにその可能性を示しています。前の記事にも書いたとおり、これからの時代は、カリスマ性をもった発信者が人々の信用を集めていく、まさに「宗教」のような形が答えなのかもしれません(きっと「宗教」ということばを使ってしまうとうまくいきませんが...)。

f:id:taishiowawa:20190819203623p:plain

 

 

 とあるできごとをきっかけに、ここ数日でこのブログに足を運んでくださる方の数が一気に増えました。ありがとうございます。ただ、昨日の記事にも書いたとおりです。冷めたときに残るものを大切にしよう。

 まさに昨日の記事は、もっとも熱されているタイミングだったと思います。興味本位で覗きに来てくださった方もたくさんいたと思います。しかし、今日この記事を読んでくださっている方々は、きっとどこかで「もしかしたらこの人ちょっとおもしろいかもしれないな」と心にひっかかりをもってくださった方々なのではないかなと思います。

 その引っかかりは正しいです。この人はちょっとおもしろいです。熱が冷めたときに残ってくださるそんな方々を大切にしたいなと思います。今日も読みに来てくださってありがとうございました。今後もどうぞよろしくお願いします。