ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【水】生活そのものがインプットですよ

 おはようございます。昨日隣の席の先生が、机をひとしきり撫でた後に、ひとりでに崩れ落ちていきました。どうしたのかと尋ねると、パソコンのトラックパッドだと思ってずっと机を撫でていたそうです。学校の先生って大変な仕事ですね。メリークリスマス。どうも、インクです。

 

生活そのものがインプットですよ

  一時期から随分とつかわれるようになりましたよね。「インプット/アウトプット」ということば。昔からあることばだと思うのですが、なぜ今ごろになってこんなにもつかわれるようになったのでしょうか。やはり、なんとか大全とかいうタイトルのビジネス書の影響でしょうか。「インプットとアウトプットの比率は ◯:⬜︎ がベストだ!」という類の言い回しを、目にイカができるほど見たような気がします。少し数字を変えるだけで、まるで自分の考えであるかのように発信できますもんね。きっとつかい勝手のいいことばだったのでしょう。

 ビジネスでは、このように、知識や経験を自分自身に吸収することを「インプット」と言い、インプットしたものを仕事に発揮することを「アウトプット」と言います。

「インプット」「アウトプット」って何のこと? 【ビジネス用語】 | マイナビニュース (2019.12.24 19:46)

 この定義をベースにするのであれば、生活そのものがすべてインプットだと言うことができます。身の周りには、ありとあらゆる情報があふれています。昨日の記事なんてまさにインプットの寄せ集めです。「インプット大全」なんて呼び名をつけてもいいかもしれませんね。

taishiowawa.hatenablog.com

 先ほどの引用では、アウトプットが「仕事に発揮すること」と書いてありましたが、もう少し意味を広げて「とにかく行動で表すこと」だと考えたいと思います。そうすると、さきほど述べていたインプットと同様に、アウトプットも生活の中に溢れていることになります。いくつか例を挙げてみましょう。

 

インプット:信号が赤だと視認する

アウトプット:止まる

 

インプット:おいしそうなソースのにおいがする

アウトプット:たこ焼きを買う

 

インプット:嫌な人が近づいてくる足音がする

アウトプット:鉢合わせないようにルートを変える

 

 もう十分お分かりかと思います。生活のすべてがインプットでありアウトプットなのです。ところが、どうでしょう。近頃よく耳にする「インプット」ということばは、生活全体を表しているわけではないと思います。「インプット」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。読書をする? 動画を観る? ラジオを聴く? セミナーに行く? それらのすべてのどこかに「学び」という意味合いが乗っかっているような気がします。

 つまり、生活そのものが「インプット」ということばによって限定されるようになったということです。生活全体の中にある「学びを含んだ情報」がことばによって囲われたというイメージです。

 要するに「ことば」は、世界を囲い、限定します。よく「ことばが世界を広げる」だなんて言いますが大嘘です。むしろ真逆です。「ことば」は世界を狭めます。

 人が生まれて初めて「ことば」に世界を狭められるのが「名付け」です。何者でもなかったひとりの人間の赤ちゃんが、名前という「ことば」を与えられることによって、特定のひとりに限定されます。

 「囲われる」「限定される」「狭められる」と聞くと、なんだか悪いことのように思うかもしれませんが、別にそうとも限りません。単純に考えて、名前をもたずに今の社会を生きていくことはほとんど不可能でしょう。名を与えられて「自分」というたったひとりの人間に限定されるからこそ、喜怒哀楽の人生がスタートするのです。

 ただし、その一方で注意しなければならないことももちろん存在します。「ことば」は生活に浸透しすぎて、人の認識から外れてしまうことがよくあります。要は、自分がどんな「ことば」に囲われているのかがわからなくなってしまうということです。まさに今回とり上げた「インプット」なんて、きっとなんの疑いもなく「学びを含んだ情報」として扱っていた人がほとんどでしょう。知らず知らずのうちに世界が狭まっているというのは、それはそれで恐ろしいものです。

 知らぬ間に狭まったせまい世界の中で長く過ごしてしまうと、その世界こそがすべてだと思い込み、外の世界の存在を認識できなくなってしまうのです。学校も同じですね。壁に囲われたせまい教室で何年も過ごしていくうちに、それが自分の世界のすべてになってしまいます。まさに「井の中の蛙 大海を知らず」です。

 まだ学校は、卒業という制限時間があるので、自ずと大海へと送り出されますが(その大海も本当は囲われた池なんですけどね)、「ことば」はそうもいきません。限定された枠を知らされる機会があるわけでもありませんし、自動的に枠の外へと送り出される機会があるわけでもありません。だからこそ、自分の思考がどんな枠に囲われて、何に影響を受けているのかを常に自覚しておかなければなりません。そうしなければ、気づいた頃にはもう手遅れになってしまうのです。

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 きっと隣の席の先生は、トラックパッドという枠から解放されたのです。解放されたからこそ、自分が囲われていたことに気がつきます。今日の記事も同じです。読んでくださった方のほんの数人でも机を撫でてみようと思ってくれたら幸いです。撫でてみてもきっと何も起こりません。ただその一方で、トラックパッドの存在を知ることになると思います。